お菓子と上司と第二の父
「おはようございます!!」
散々泣いた翌朝、グレイスは元気に出勤した。部屋にいたのはアレックスとレイモンドで、グレイスの予想はばっちり的中していた。レイモンドが最初に来るのは絶対で、その次にアレックスとグレイスのどちらが先に職場につくかは半々なのだが、今日だけは絶対にレイモンドと2人きりは避けたかった。だからと言って、遅刻ギリギリになってしまうと、明らかに避けているようで気まずい。アレックスが出勤した後に、職場に着くように今までの出勤時間から導き出した最適と思われる時間に出勤したのである。
「おはようございます。グレイス嬢。何だがご機嫌ですね。いいことでもあったんですか?」
「たいしたことないんですけど、今日は仕事帰りにずっと気になっていたお菓子を買いに行こうかと思いまして。」
無理やり元気を出してはいるが、お菓子を買いに行くのは嘘ではない。「失恋には甘いものに限る」と多くの友人が言っていたのを参考にしたのだ。しかも、今日行くのはただのお菓子ではない。
「いいですね。どこの店ですか?」
「マダムリリーってお店の焼き菓子です。」
今まで行きたかったが行きそびれいていた人気菓子店の名前を答えると、アレックスは少し複雑な表情をうかべた。グレイスが不思議に思っていると、アレックスは言いにくそうに教えてくれた。
「おそらく、仕事が終わった頃にはマダムリリーの商品は閉まっています。」
「え?そうなんですか?!閉店時間は19時って聞いたんですけど…。」
「確かに、閉店時間は19時なのですが、人気の舞台女優さんが好きだと公言したので、もともと人気だったのがさらに人気がでて、人気のお菓子は出来上がるたびにすぐになくなり、他のお菓子も16時頃には全て売り切れてしまうようです。」
「そうですか‥‥。」
それを聞いて、グレイスの気分は一気に落ち込んだ。上手くいかないときは、何もかにもが上手くいかないものである。
いつもならお菓子くらいでこんなに落ち込んだりしないのだが、今日はちょっとショックが大きかった。その上、こちらの様子をうかがうようなレイモンドの視線を感じて、グレイスは小さくため息をつく。
「グレイス嬢、よろしければ私のおすすめのお店を紹介しますよ。仕事が終わってからいっても間に合うし、味も保証します。」
「本当ですか?!ありがとうございます!」
計画が上手くいかなかった時の立て直すことは重要である。アレックスは甘いものが大好きで菓子店にも詳しいので、アレックスのおすすめなら味は間違いないだろう。後で店の場所を書いてくれるというので、お礼を言って、仕事を開始した。
その後、いつもの通りボブとイーサンが始業時間寸前でやってきて、いつも通り仕事が始まったと思ったのだが‥‥。
「・・・・。」
チラッチラッっと視線を感じる。相手は気づかれていないと思っているのかいないのかグレイスには区別もつかない。普段は一心不乱に仕事をしているレイモンドが定期的にグレイスの様子をうかがっているのだ。
猫になったせいでいつもよりも目が大きいからか目力が強く視線も感じやすいのかもしれないが、それにしたって見過ぎである。グレイスは次第にイライラしてきた。
これが失恋したタイミングでなければ、ドキドキしていたかもしれないが、仕事中だし、絶対に昨日のことだし、もう気にしないで欲しいと思っているグレイスは何だが腹が立ってきた。1時間ほどは我慢していたが、グレイスは段々我慢できなくなって限界を突破。ちょうど完成した資料を持って席を立った。
「レイモンド様、資料のご確認をお願いします。」
「わかった。」
グレイスが差し出した資料をレイモンドが受け取ろうとしたので、グッと手に力を入れる。お互いが資料を取り合うような状況になった。資料を渡されると思っていたレイモンドはグレイスの抵抗の意味が分からなかったのだろう、大きなアイスブルーの目をさらに大きくしてグレイスを見ていた。
「レイモンド様、私に何か御用ですか?」
「え?」
「何かお話があるように感じましたので。」
こんなにはっきりと直接聞かれると思っていなかったのだろう、レイモンドは大きな目のまま固まった。
そんなレイモンドをグレイスはジッと見つめた。猫になったレイモンドを真正面からまじまじと見つめたことはなかった。いや、人間の姿の時も、こんなに見つめたことはなかっただろう。
大きなアイスブルーの瞳がこちらを見ていたが、グレイスは目を反らしたら負けだと思い反らさなかった。ちなみに、何に負けるのかはわからない。
アレックスたちも、こちらのことが気になるのか、普段なら聞こえるはずの文字を書く音や紙をめくる音すらしない。痛いほどの沈黙が数秒続いた後、目を反らしたのはレイモンドの方だった。
「いや、今朝言っていた菓子店だがな、うちの母なら手に入るのではないかと思ったのだ・・・。それで声をかけようと思ったのだがかけそびれてしまって。」
確かに公爵夫人なら、どんなに人気店の菓子でも手に入るだろう。だが、失恋した相手に貰ったお菓子で失恋の傷は癒せるだろうか?否、癒せない。
「そうでしたか。お気遣いありがとうございます。でも、お気持ちだけ受け取っておきます。」
「あ、うん。そうか。」
「はい。では、仕事に戻ります。」
「あぁ。」
グレイスが、自分の席に戻ろうと振り返ると、アレックスは手で顔を覆いうつむいており、ボブとイーサンは何とも言えない表情でレイモンドを見ていた。その後、昼休憩の時間まで不自然なほどの誰も話さなかったが、チラチラ見られるよりも仕事に集中できたと思うので、先ほどの行動は正解だったとグレイスは判断した。
昼休憩の時間になり、グレイスはどこで暇を食事を取ろうか悩んでいた。食堂は、人が多すぎて行く気にならないし、ソフィアは遠征に行っているはずなのでいない。どこで過ごすのが妥当かと考えていると、ゴンゴンゴンとすごい音が扉から聞こえた。
ノックなら、コンコンコンかトントントンである。それがドンドンドンである。レイモンドも怪訝な顔をしていたが、ノックだと判断したのだろう、「どうぞ。」と入室を促した。
「失礼する。」と言って入ってきた人物を見て、グレイスは「あっ!」と声をあげた。入ってきたのは、ダークブランの短い髪の筋肉隆々の長身の男性だ。そして、グレイスの良く知る人物だった。
「ダンおじさま様!」
「ソフィア!息災か?」
「はい!」
入室してきたのは、ダン・レントン子爵。グレイスの父の友人であり、ソフィアの父で、騎士団の隊長を務めている。グレイスの両親が亡くなって以来、ずっとグレイスを助けてくれた人物で、グレイスにとって第二の父のような存在だ。もちろん大好きな人物である。
「もう休憩時間に入っているだろうか?」
「はい。」
ダンはレイモンドの方を見た。レイモンドが猫になっているのは知っていたからか、動揺したりは一切しない。そして確認した後、グレイスの方にやってきて、何やら小さな箱を取り出した。
「グレイスにこれをやろう。」
「何ですか?」
グレイスが受け取った小さな箱にはなんと『マダム・リリー』のロゴが書かれてあった。
「おじ様!これって!」
「ん?何か人気の菓子店らしいな。貰いものなのだが、わしが食べるのは勿体ないとアリアナに言われてな。」
「えー・・・」
アリアナとは、ダンの妻でソフィアの母だ。かつては騎士団に勤めており、現王妃の護衛の責任者だったこともある強い人で、ダンは尻に敷かれている。勿体ないというのは、ダンは食に興味がなく味音痴の一面があるからだと思われる。辛辣である。
「アリアナは甘いものは食べないし、ソフィアは遠征でいないし、部下やメイドにやるには数が足りない。そこでグレイスにあげるのが最善だろうという話になったのだ。」
「本当に私が貰ってもいいんですか?」
「当然だ。甘いものは好きだっただろう?」
「はい。大好きです。」
「ならば、受け取ってくれ。」
「ありがとうございます!」
グレイスが満面の笑みで礼を言うと、ダンに頭をグリグリと撫でられた。髪の毛は崩れてしまうが、ダンが頭をグリグリと撫でるのはいつものことだし、ダンに頭を撫でられるのは嫌ではないので、髪の毛くらいは我慢する。
「そういえば、エリンダが夫に届け物をしに来ているぞ。グレイスに会いに行くと言ったら、暇なら昼食を一緒に取りたいと言っていた。騎士団の詰め所にいるはずだが、どうする?」
「いきます!」
エリンダとは、1年ほど前に結婚して騎士団を退団したグレイスの友人である。仕事が忙しかったこともあり、結婚式以来会っていないので、会いたい。元気よく返事をすると、ダンは、笑顔で頷いた。
「では、一緒に途中まで行こう。」
「はい。」
ダンに貰ったマダム・リリーのお菓子を丁寧にカバンにしまって、ダンと一緒に部屋を出ようとしたとき、ダンが立ち止まった。
「そういえば、アーバンクレイン宰相第一補佐官殿、貴殿は猫になったんだな。」
「・・・・。」
「似合っているぞ。人気もあるようだし、ずっとそのままでもいいのではないか。」
横で聞いていたグレイスは、首を傾げた。ダンは笑顔だったが、怒っているように見えたからである。生粋の武官であるダンは貴族の遠回しなやり取りは好まないはずだが、今の発言には含みがあったように感じた。一方のレイモンドは、何とも言えない表情をしている。2人を交互に見ていたグレイスだったが、ダンに「行こうか。」と声をかけられて部屋を出た。
扉が閉まった後、レイモンドが大きなため息をついた後、頭をグシャグシャとかきむしったのをグレイスは知る由もない。
ちなみに、頭をかきむしる様子は、猫が急いで顔を洗っているようにしか見えず、アレックスたちが笑いそうになるのを必死にこらえていたのをレイモンドは知らない。