失恋
いつもの時間に目覚めたグレイスはため息をついた。今日こそはレイモンドが人間の姿に戻っているといいなぁ・・・そんなことを考えながら支度を済ませて家を出た。
だが、職場についたグレイスが見たのは、上司の席で黙々と仕事をする大きな猫である。定期的にピコピコと動く耳とフリフリ揺れるシッポは魅力的だし、大きな肉球のある手で筆ペンを握る様は愛らしい。だが、コレジャナイ感がすごいのだ。
レイモンドが猫の姿になったばかりの時は、その耳やシッポや肉球にときめいたが、今では満足できない。細く節くれだった長い指が恋しくてたまらない。
「おはよう。」
「おはようございます。」
最低限の挨拶を交わして仕事の準備をする。グレイスは今日中にやるべき仕事内容を確認しながらそっとレイモンドを盗み見て、思わずため息をついてしまった。
「どうした、グレイス。悩み事か?」
「え?あ、いや。」
巷では『仕事の鬼』で有名なレイモンドだが、実際は部下想いの良い上司である。部下のため息を聞いて声をかけてくれるような人なのだ。
クリクリのアイスブルーの瞳がグレイスをジッと見ている。可愛い。でも、グレイスが見たいのはこれじゃない。眉間に皺を寄せて、どこからどうみても不機嫌そうなのがときめくのだ。ちなみに重症である自覚はある。
「すいません。ちょっと疲れが溜まっているのかもしれません。大丈夫です。」
「そうか。あまり無理をするなよ。」
「はい。ありがとうございます。」
まさが、『あなたが猫の姿のままでいるとこが不満です。』とは言えず、グレイスは適当な返事をするしかなかった。
昼食の時間になり食堂へと向かう。食堂は騎士やメイド、文官など様々な職種の人たち食事をとっている。サンドイッチを注文して席に着くと、グレイスの後ろに座っていたメイドたちの会話が聞こえてきた。
「聞いた?外交官として隣国に行っていたメアリー様が帰国されるらしいわ。何でも、レイモンド様との縁談が持ち上がっているそうよ。」
「まぁ、メアリー様なら仕方ないわね。以前から仲がいいらしいし、レイモンド様はメアリー様の旦那様がご存命だったころから片思いをしていたという噂でしょ?侯爵家にとってもメアリー様がいつまでも独り身でいるよりもいいに決まっているし、両家にとって悪い話ではないわよね。」
話題に上ったメアリーとはシーモア侯爵家の長女で、国で初の女性外交官になったことで有名だ。その後押しをしたのが幼馴染のレイモンドと王太子だというのは有名な話である。
彼女は8年前に最愛の夫を亡くしている。2人の仲の良さは社交界でも有名で、結婚して2年ほどだったがすでに社交界でも憧れの夫婦として有名だった。
夫を亡くしたメアリーの落ち込み具合はすさまじく、人前に出られほど立ち直るのに1年以上かかった。その後、再婚することも未亡人として社交界に残ることもなく文官になった。優秀だった彼女は、女性初の外交官として隣国に赴任したが、数日前に帰国したらしい。その時、久しぶりにあった幼馴染が猫になっているのを見て大爆笑したという話はグレイスの耳にも入っていたが、まさか婚約の話が出ているとは思ってもみなかった。
それ以上は何も聞きたくなくて、グレイスは席を立った。サンドイッチは半分も減っていない。食べ物を捨てるという選択肢を持たないグレイスは、その残りを食堂の人に頼んで紙に包んでもらった。
午後の仕事開始まで時間があったので、グレイスは庭に行ってみることにした。ただあてもなく丁寧に手入された花を見ていると、すっかり見慣れた大きな猫を遠くに見つけた。見覚えのない女性と一緒にいる。先ほどのメイド達の話にでていたメアリーだろうか、2人は体を寄せ合って楽しそうに話している。
「失恋だな。」
グレイスは小さくつぶやいた。その時、レイモンドがこちらを振り向きそうになったので、あわててその場を立ち去った。
他に行くところもなく、自分の仕事場に戻ったが、まだまだ休憩時間で誰もいなかった。誰もいない部屋でポツンと自分の席に着く。
「仕事辞めちゃおうかな。」
ポツリとつぶやいて自嘲したが、言ってみただけである。こんなに恵まれた職場を手放すわけにはいかない。失恋で心が弱っていると自覚しているグレイスは、時間が解決してくれるはずだと自分に言い聞かせた。実際、失恋して「もうこの世の終わりだー。」と嘆いていた友人たちは、散々泣いた後、美味しいお菓子を食べて、数日後には立ち直っていた。自分の失恋もそんなもんだろうとグレイスは思う。心の奥底のもう一人の自分が「そんなに軽い想いじゃない!」と抗議しているが気づかないフリをした。
しばらくして、レイモンドたちが戻ってきた。軽く談笑した後は、それぞれが黙々と仕事をこなす。失恋したてで仕事に集中できるか心配だったグレイスだが、予想よりも仕事人間だったらしく何の問題もなかった。
終業時間を1時間ほど過ぎてグレイスは今日の仕事を終えた。最後に取り掛かった仕事に思った以上に時間がかかってしまい、顔をあげるとレイモンドしか残っていなかった。
「終わったか?」
「はい。すいません。」
「何の問題もない。」
どうやらグレイスを待っていてくれたらしい。グレイスが帰り支度をし始めると、レイモンドも書類を片付け始めた。少し前のグレイスなら、途中まで一緒に帰れるかもしれないとドキドキしていただろう。しかし、失恋したばかりのグレイスにはレイモンドと2人で帰ることなど無理である。手早く帰り支度を済ませて、お先に失礼しようとする。
「すいません。お先に失礼します。」
「グレイス、ちょっと待て。」
「はい!」
部屋から出ようとしたグレイスだったが、レイモンドに呼び止められて立ち止まる。恐る恐る振り返ると、レイモンドはこちらを見ていた。
「本当に何か悩んでいないか?」
「へ?あーいや…。」
朝の再確認だろうか。それとも昼休憩で失恋したせいで午後の自分の様子がおかしかったのかは判断できない。だが、どちらにしろレイモンドに話せるわけがなく、視線を泳がす。
「まぁ、私には相談しにくいだろう。私の友人の女性が隣国で文官として働いていたのだが、現在帰国中なのだ。彼女ならグレイスと似た境遇だし、グレイスの悩みにも理解を示してくれることだろう。私から話しておくから、一度相談してみたらどうだ?」
グレイスは息を飲んだ。レイモンドの言う女性がメアリーのことだと理解したからだ。それはグレイスにとってあまりに残酷な提案だった。
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。」
「そうか?遠慮する必要はないんだぞ。彼女はとても優しい人だからきっとグレイスの悩みもきっと解決するだろう。」
レイモンドの声は今までに聞いたことのないほど優しかった。好きな人のことだとこんなにも優しい声で話すのだと思うと、涙が溢れそうだった。
「大丈夫です。お気遣いだけ頂戴します。ありがとうございます。では、お先に失礼します。」
「え?グレイス?ちょっと待て!」
これ以上いると泣いてしまいそうだったグレイスは、急いでその場を立ち去る。レイモンドに呼び止められたが、今度は立ち止まらなかった。
帰宅時間が遅かったからか、知り合いに見られることなく家まで帰ることができた。玄関の扉を閉めたとたん、安心感からか涙が溢れて止まらないが、自分の家なので問題はない。グレイスはそのままその場でしゃがみ込み、しばらく泣き続けた。
14歳で両親を亡くしたグレイスは、友人たちが恋や結婚相手探しに必死になっているとき、将来1人で生きて行けるようになるために必死だった。失恋して泣いている友人を慰めながらも、どうしてそこまで傷ついているのか理解できなかった。だが、実際失恋してみると自分も泣ける人間だったらしい。
ソフィアには「そばにいるだけで十分だ。」なんて言っておきながら、レイモンドの婚約話を聞いただけでこの有様だ。結局、グレイスはレイモンドが結婚せずにずっと独身でいることを期待していたことに気づき、自分で自分が嫌いになりそうだった。