第11話
「ちょっと大丈夫!」
わずかに慌てたようなあの女性の声。またしてもあの瞳が目の前にあった。ただし今度は息がかかるほど近くに。
その瞬間、俺の視界は一気にあの女性の瞳の中に落ち込んだ。漆黒の深淵の深海に。さらにさらにその奥に。
俺はどんどん沈んでく。しかし不思議と怖さは感じなかった。むしろ懐かしささえ感じてた。もしかすると胎児の頃の羊水の記憶に似てたのかもしれない。
そして俺は見た。たしかに見たと思った。自分のいる場所からまだ遥か先、深淵のおそらくは底を通り抜けたさらにその奥に、柔らかな光が揺らめいてるのを。暖かな何かがぽつんとあるのを。あれはなんだ? あれはまるで小さな子ども。小学生くらいの女の子。真っ暗な中にひとり取り残され、大きなふたつの両の目から涙を流し、何かに追いすがろうと駆けながら必死に右手を伸ばしてる。いったいどういうことだ。もう少しはっきり見てみたい……。
「しっかりして!」
その声が俺を現実に引き戻した。状況を理解するのに数秒かかった。その結果わかったのは、あの女性が俺を下から抱えるような形で互いに抱き合ってるような格好になってる、ということ。
「す、すいません!」
ゴムが弾けるように慌てて体を離す。心臓が激しく脈打ってるのがわかる。やべっ、俺何やってんだ。
「フフッ」
あの女性の黒いマスクの下から声が漏れた。えっ、今笑った? これまで冷たく、氷のような印象しかなかったこの女性が。「氷の微笑」とかじゃない。まるであの深淵の幻覚の中で見た、暖かく揺らめく光のような……。
でもそれもほんの一瞬だった。その一瞬を過ぎると、あの女性は再び元のクールな印象を取り戻してた。
「面白い人ね、あなたって」
「えっ」
「最初に会った時、あなたの中にはターゲットに対する嫌悪と憎しみしかなかった。なのに今のあなたは、ターゲットの命が助かったことを心の底から喜んでいる」
ひと呼吸おいてあの女性は続けた。
「正直に言うわ。私はターゲットの命を奪うつもりでいた。それがあなたの望む『今後一切会わずに済む』を最も確実に達成する方法だから。私にとってもそれほど難しい仕事じゃない。事実、完璧に実行できたわ」
恐ろしい告白だ。だけどそれに気づいたのはずっと後になってから。その時の俺は、ただ何も考えられずにあの女性の告白に聞き入ってた。