第33話 敗者
子どもの頃からやたらと周囲に褒められた。その殆どが父へのご機嫌取りと気付けなかったのは私が子どもだった以外にも、実際に自分を見て褒めている人がいたことによる。
当然そのことによって私自身自分が優れていると思うようになった。その容姿だけで小学生の頃から男子は視線を飛ばしてきていたし、勉強もスポーツも同世代には負けなかった。それこそ負けるときは何かしら言い訳も立ったものだ。相手は何個も年上だったとか、親がその道のプロで英才教育を受けているとか。
私は完璧で、でもそれは当然のこと。
そうやって自尊心は間抜けにもかかわらず私自身もう降りれなくなるくらいに積み上がってしまった。息苦しく退屈な毎日に自分が磨耗していっていることなんかにも気が付かなかった。
分かっていたのは、期待に応えていれば私は私でいられるということ。誰にも頼らず、誰にも甘えず、当然にそれを行う私、それこそが北条水希なのだと。
けれど。
ーーグランプリは……な、なんと、エントリーナンバー8番!? 矢板第三中初代ミスコンテストグランプリはなんと男子ッ! 青海正悟だぁぁぁあああ!!
私は敗北した。いつからか可愛いが美人に変わって、それでも散々褒められた容姿で。
私自身ミスコンなんて乗り気ではなかった、彼には冷やかしの票も入っていたはずだ……そんな負けの言い訳が頭に浮かんでは消えていく。
だって、ミスコンのステージの上で、不本意であることを隠しもせず、笑顔も振りまかず、帰りたい帰りたいと呪文のように延々繰り返していた彼は、それでもなお。
あまりに魅力的で、美しく、可愛らしく、女の私でもときめいてしまうくらいに愛おしかったから。
その日、完膚なきまでに敗北に打ちのめされた私の中にあったのは清々しさだ。
ああ、私は完璧でもなんでもない。そんな幻想に囚われる必要なんてそこにはない。
私は、いいやきっと私だけではない、その場の誰もが彼を特別な存在だと認識している。けれど、彼本人はきっとまったくそんなこと思ってはいないのだろう。
恥ずかしそうだけれど、照れはなく、ただただ羞恥に怒り震えている。当然グランプリなんて名誉でもなんでもないのだろう。
私にしてみてもそう。もしも私がグランプリに選ばれたとてなんとも思わなかっただろうし、生涯誰にも積極的に話そうとはしなかった筈だ。
けれど、現実で私が手に入れたこの準グランプリという称号は一生の宝物になるだろう。
そんな確信が私の中にあった。
◆◆◆
「すぅ……すぅ……」
花の香りでも漂ってきそうな、無防備な寝息が鼓膜をくすぐる。
疲れていそうだったし、先に眠ってしまったというのはいいのだけれど、
「ん、んぅ……はぁ……」
寝返りを打つ正悟君の口から漏れる艶めかしい声。
彼は自分は男で、周囲にもそう扱うよう言っているけれど、これでは男子に酷だろう。仮に彼に男友達ができてこうしてお泊まり会をしたとすれば絶対発情するに違いない。
「……寝顔はどうなのかしら?」
不意に好奇心が湧き上がる。暗くて見づらいが、彼の寝顔はどうなのだろう。男の子なのだろうか、男の娘なのだろうか。
普段はコロコロ表情を変え、何故か私の前だと呆れたような仏頂面か苦笑が多いけれど、今はさぞ弛緩した表情に違いない。
スマホがないから写真に収められないのが残念だけれど、からかうネタにはなる。そんな悪戯心から私はベッドから身を乗り出した。
「ん……」
同時に正悟君が身をよじった。
こちらに体を向けてくれたものの、少しうつ伏せ気味になって顔が見づらい。なんとか覗きこめないか……とつい夢中になった私は、ある失敗を犯した。
「ひゃっ……!?」
体を支えていた手の平が不意に滑った。重心が動いていくかとで、シーツをずらしてしまったのだ。
身を乗りだした体を支えていた腕が支える力を失った結果、私はベッドから床に、間抜けに転落してしまった。バタンッという大きな音を立てつつ。
「んぁ……?」
音に反応し、正悟君が声を漏らす。もしかしなくても起こしてしまっただろうか。ベッドから落ちるなんて、むしろ彼にからかわれる材料にされてしまう。
私は肝を冷やしつつ、なぜかゾクゾクと身が竦むのを感じつつ、床に転がったまま恐る恐る彼の顔を伺った。
「なんだ……おまえ、また勝手にベッド入ってきて……」
「え? え、ひゃっ、しょ、正悟君っ!?」
ぼんやりとした目をうっすら開けつつ、まだ半分眠っているのか、正悟君はそんなことを呟きながら私を抱き締めた。
一瞬何が起きたか分からなかったけれど、すぐに状況を理解した私は咄嗟に彼の名を呼ぶ。振りほどこうにも体に力が入らない、声も夜中だし囁き声で……なんていう抵抗のフリにもならない抵抗をしつつ。
「たく……相変わらず甘えん坊なんだから。よしよし……」
そして、あろうことか正悟君は私の頭を優しく撫で始めた。
普段絶対口にすることのない甘い音色を添えて。
「またつらいことでもあったか? 大丈夫、にいちゃんが側にいるからな」
「まさか正悟君、凪子ちゃんと勘違いを……?」
「大丈夫、大丈夫だから……」
魔法でも掛けられたらみたいに体に力が入らない。寝ぼけているのは確かだろうけれど、彼の腕は優しくも力強く私を彼の胸に抱きよせてくれる。
本当に、全く呑気だと自分でも思うのだけれど、彼の胸は硬かった。
「凪子、他のやつがなんて言おうとにいちゃんだけはお前のこと大好きだからな」
「正悟君……やっぱりシスコ……」
「あと、親には言わないからにいちゃんのパンツ返しなさい」
凪子ちゃん?
言葉の雰囲気は甘いのに、それが急に釣り餌に感じられてしまう。
「お前そんなんじゃ本当ににいちゃんだけになっちゃうぞ……」
正悟君、それは悪手では。
凪子ちゃんが今のを聞いて本気にしたら明日には正悟君の下着は全て消えてしまうと思う。
なんて、本当にそんな呑気に考えている場合じゃない。このままだとおかしくなってしまう。凪子ちゃんをどうこう言えなくなる。
ああ、本当に危険だ。普段の正悟君からは想像できない、圧倒的お兄ちゃん感に溺れてしまいたくなる自分がいる。
美少女を超える美少女な見た目、それにギャップのある少年らしい性格……いや、性別は男なのだからおかしくはないけれど。男、多分。
けれど、“妹”に優しい愛情を囁く彼は寝ぼけながらも正真正銘“兄”だった。私は一人っ子で、本当に幼い頃婚約者を兄のように慕っていたらしいけれど、それとは全然違う、凪子ちゃんが羨ましくて仕方なくなるような包容力……!
「お、おに……」
思わず開いた口が、欲求をそのままに吐き出そうとして、私は意識的に口を噤む。
しかし、そんな我慢はほんの数秒しか持たなくて。
「おにい、ちゃん……」
言ってしまった。同級生の、同じラブコメヒロインとなる友達を、兄なんて……。
カアッと一気に全身が熱くなって、私は咄嗟に顔を隠そうと布団にうずめた……つもりだったけれど、今の状態から咄嗟の先は布団ではなく、正悟君の胸だった。
彼の言う柔軟剤とボディソープの香りが一気に鼻腔に襲いかかる。何か良からぬ成分でも入っているんじゃないかと思えるくらい、熱い香りが。
そんな私に、正悟君は腕の力を強くすることで応えた。
彼の細い指が私の髪を優しく撫でる。
「ああ、お前のお兄ちゃんだ」
絶対普通なら私には向けないような声色に、なぜか胸が躍った。
「お兄ちゃん」
「ああ、そうだよ」
「お兄ちゃんっ」
「よしよし」
自分でも変なスイッチが入った自覚はあるけれど、それ以上にこの状況はあまりに、恐ろしい中毒性を持っていた。
早々に甘えるという欲求を忘れていた私は、親にも兄のようと称される人にも、表面上は甘えることはあっても心の底から身を委ねるなんてことはできなかった。私は期待をされていたから。期待に応えなければいけなかったから。
「お兄ちゃん……私は、私でいいのかな」
「当たり前だ、お前はお前だよ」
思わず出た弱音を彼はすぐに、優しく肯定してくれる。
そして、そのあまりに単純な言葉に私は、つい今の家での状況を思い、感情を溢れさせてしまって。
「おー、よしよし」
けれど、やはり彼は優しく私を撫でてくれる。それが心地良くて気持ちよくて……。
彼を見上げると、彼はボーッとしつつも、小さく微笑んだ。その儚くアンニュイな感じに無性に胸を掻き立てられて、私は……、
「す……」
「あれ……お前、随分美人になったなぁ……まるで……」
「フンッ!!」
彼の頭に思いきり頭突きをしていた。
本当に思わず、彼の寝ぼけまなこが僅かに見開かれたのを視認した瞬間には喰らわしていた。
彼はその衝撃に仰け反って、気絶したように動かなくなった。ように、じゃないかもしれないが。
「……わ、悪いとは思ってるからっ!」
もう聞こえる筈も無いが、そう謝罪にもならない言葉をぶつけてベッドに飛び込む。
どうしても心臓がバクバクとうるさくて、一時の暴走を恥じる気持ちがあっても、あの時の匂いも感触も頭にこびりついて離れない。
「あれは気の迷いよ……あれは柔軟剤の香り……ただの柔軟剤の香りぃ……!」
羞恥で顔が熱くなる。気を緩めると口角が上がりそうになる。けれどそれを隠すように、必至に掛け布団を抱きしめた。
眠ろう、眠ってしまえば忘れられるに違いない。忘れなければ私はもう、今までの私ではいられなくなってしまう。
そう思いながらも、高鳴る心臓は、醒めた目は、決壊した涙腺は私を決して寝かしてはくれなかった。