第24話 その頃一方、北条水希は
今回は北条水希視点です。
気が付けば家を飛び出していた。
今思ってもそれは衝動的で私らしくなくて、自分で自分の行動に戸惑いを感じてしまう。
とはいえ今更家に戻る気も起きなくて、スマホも財布も持っていないのに、どこか目的もなく見慣れた町中を彷徨う。何も持たない、無防備な私に対してこの町はとても冷たく映った。
そもそものきっかけはきっと特定するのは難しいけれど、私の限界が来たということを考えれば今朝、いきなり父から言われたことが原因だろう。
『水希、今日は秀逸君が来る。近く婚約するのだ、お前も同席しなさい』
元々父と仲が良かったわけではない。育ててくれている感謝と尊敬はするが、好意とは違う……と、本当につい最近知った。
私が父に抱く感情は“彼ら”に向けるものとは殆ど逆……苦手なのだと。
『……わかりました』
彼らとの会話のおかげで婚約と当たり前のように受け入れようとしていたことが当たり前でないと思い始めていた。子供の頃から刷り込まれていた逃れられない運命。けれど、彼らにはそれがない。それでも私と対等な友達になってくれている……。
けれど、私は頷いた。暴力を振るわれるからとか、脅迫じみたものじゃない。ただ、私は父親に対する逆らい方というのをこれまでの人生で学んで来なかったのだ。
『ああ、水希。制服姿というのも地味だな。何か別の服に着替えなさい。秀逸君を出迎えるのだからな』
『……え?』
父の言葉に思わず声が漏れた。
会うと言っても夜、または放課後の話だと思っていた。だって、高校に行くことは私の、最後のわがままで、父だって了承してくれていたはずなのに。
『あの、お父さん。これから学校が……』
『ん? ああ、一日くらい休んでもいいだろう。お前は成績優秀だからな。秀逸君も高く評価してくれていたよ』
そう、笑う父。
私なんかよりも秀逸君、婚約者が良いと思っていることが嬉しいみたいだ。以前からその傾向は有ったが、こうも明確にもやもやするのは初めてだった。
けれども、私は断れなくて、結局学校は休むこととなった。いつ着るかも分からない、たまの休みにふらっと入ったブティックで買ったワンピース。それを着る機会に恵まれたのだと、無理に思うことにした。
婚約者が来るのは結局昼過ぎとのことで、事実上家の中に軟禁されることになった私は、特に何もする気が起きずに自室のベッドに転がっていた。
元々昼寝ができるタイプではなく、現実逃避で睡眠に逃げさせてもくれない。仕方なく、スマホをぽちぽちと弄っていたのだけれど、
『体調不良って聞いた。お大事に。』
そう、“彼”からメッセージが届いて、なぜか泣きそうになった。
句読点も欠かさず打ち込むのが、普段の適当な態度と違う、素の真面目さが見えて彼らしい。
私のことを友達と言ってきた人は何人もいた。けれど、そのどれも私を通した何かに期待するような人で、私のことなんか見てくれてはいなかった。
けれど、彼はむしろ私に振り回されて迷惑を掛けられていると思っているだろうに、私のことを友達と言ってくれた。すごく自然に、当たり前みたいに。
私は今、そんな彼を騙しているんだ。
それが凄く、つらい。けれど、なにも返事ができなくて、何度もアプリを開いては消し、開いては消しを無駄に繰り返していた。
何を伝えればいいのかわからない。何を伝えたいのかわからない。
何を伝えていいのかわからない。
私が彼に何をして欲しいのか、わからない。
『水希』
部屋の外から呼びかけてきたの母だった。気が付けばお昼を回っていた。本当なら彼と一緒に他愛のない話をしながらお昼ご飯を食べていた時間。
『水希、大丈夫……?』
『……』
気遣いような言葉に私は何かを返そうとして、しかし返せなかった。
『そろそろって、お父さんが』
『……はい』
スマホを置いてのろりとベッドから起き上がる。
昨日まではこんな気持ちになるなんて思わなかったのに、身体が嫌だと抵抗するように重い。
『水希、少し顔を洗って……水希!?』
『……? なに、お母さん』
『あなた、目元……』
母が驚いたように、そして焦ったように声を上げた。私は少し不思議に思いつつ、洗面所に行って……、
『えっ……!?』
まるで泣いた後のように腫れた目元を見て絶句した。
それが、まるでではないことを証明するように頬には何かが伝ったような跡が残っている。
『わ、たし……どうして』
何か、何かを言わなきゃ。
その場にいるのは私だけ。けれど鏡の中の私は今も私を見つめて、その目を驚きと恐怖で見開いている。自覚とともに胸の奥底から沸き上がってきたそれが、少し腫れた目尻に浮かび上がってくる。
『っ……!』
気が付けば走って、玄関から飛び出していた。
婚約者に会うのに目元を腫らして父に何かを言われるのが怖かったから。
戻って母に気遣われ慰められてそれでも婚約者と会うことは避けられなかったから。
惨めだったから。
色々な考えが浮かんでは頭の中でぐちゃぐちゃと渦巻いていく。
唯一分かったのは、私は私のことを分かっていないということだ。私の中の何が私の現状を否定しているのか分からなかった。
ただ、家から離れたくて、遠くに行きたくて、歩き続けた。外に出ると不思議と涙は出なくって、でも呼吸は苦しくて、気が付けば私は歩くことさえできなくなって座り込んでしまった。
「ねぇ、どうしたの? 行く場所無いならお兄さんの家に来るかい?」
先ほどから知らない男性に声を掛けられている。声はどこか粘っこく、視線も無遠慮に私の全身を這っていた。
「うちならゲームとか、ああ、お酒とかもあるし……楽しめると思うよ」
声が近づく。俯いて見られないけれどしゃがみ込んだらしい。どこか荒い息遣いが耳に触れて気持ちが悪い。
けれど、今の私にはそれさえ、どう拒絶すればいいのか分からなくて、震えも押し殺せずに必死に身を小さくしていた。
「ねぇ」
「あっ、北条さんっ」
「……え?」
きゃぴっとした声に私は思わずそちらに目を向けた。
名前を呼ばれたからだけじゃない、その声はとても聞き慣れたもので……今、一番聞きたいと思っていた声で。
「奇遇だね、こんなところでどうしたの……って、あれ? オジサン、誰」
明るい声が一転して、鋭いものになる。
見ると、声の主は鋭い視線と敵意を男性に突き刺していた。
「き、君、彼女の友達かい? そうだ、良かったら君も」
「オジサン、この状況理解してないのぉ? そのスーツ、着れなくなってもいいなら続ければいいと思うけど」
「う……」
スマホをちらつかせられ、男性は少し狼狽した後、悔しげに去っていった。
“彼”はそんな男性の背中を暫く睨みつけていたが、見えなくなると私の方に視線を戻した。
「……で、お前は何やってんだよ」
「青海君……さっきのは……」
「穏便にすませるためだ。変態ロリコンに一番効くのは高圧的な女子高生、だろ」
つまらなそうに口を尖らせながらそう言うと、青海君が手を差し出してきた。私は咄嗟に掴み、引っ張られるように立ち上がる。
青海君はパーカーにジーンズという、普段の制服姿とは違うラフな姿だが、ボーイッシュな美少女に見えなくもない……いや、そうにしか見えない。
「お前、体調不良じゃなかったの?」
「それは……」
「仮病?」
「違……わ、ないかもしれないわね……」
嘘をついたと思われたくなくて咄嗟に否定しそうになったけれど、仮病というのは間違いではなくて言葉を濁す。
「ふーん……?」
青海君は少し引っかかったみたいに私の全身を見回してくる。先ほどの男性から感じた不快感みたいなものは無かったけれど、まったく別の恥ずかしさみたいなものを感じた。
「な、何?」
「足、靴擦れしてる」
青海君がしゃがみこみ、私の右足を指差す。裸足で慣れないヒールの靴を履いたものだから擦れて血が出ていた。気が付かなかったけれど、自覚すると急に痛みを感じてしまう。
「北条、何かあったろ。昨日のことと関係あるのか?」
「…………」
「黙ってちゃ分からない……と、言いたいところだけど、お前結構分かりやすいよな」
あからさまに視線を逸らしてしまった私の表情から察したのだろう、彼は呆れたように笑う。
「そんな感じじゃあ、お家に帰れとも言えないし……まぁいいか」
「青海君?」
「北条、折角だし小市民の私生活でも覗いていくかい」
彼はそう、少年のように楽しげな笑みを浮かべた。どこかカッコつけているという風にも見えるそれはコンビニの明かりに照らされて、少し様になって見えて……。
私は間抜けに見とれてしまった。