第十一話 ネーム・デート・ディスカッション
ジョーノ初ネーム篇。開始…!
俺は今、五月雨町一のクソまずい喫茶店の中にいる。エメラルド色に輝く長い髪を垂らした眼鏡女と一緒に…
――ズズ…
とりあえず水を口に注ぐ俺。まずいコーヒーを飲むよりずっといい。一応言っておくが、このジョーノ・チッカーツヤという女は美人だ。背は高いし、肌もつやつやしていて、声がいい。今まで見かけた女の中で一番美人は誰かと聞かれたら、間違いなくこの女を選ぶであろう。
だが、だからといってアシスタントにするかどうかは別だ。ついつい別の所へ目が行ってしまうので漫画製作に集中できないし、俺は異性相手に常に緊張しっぱなしだ。いつ猫背を指摘されるか、今から食事をする時に食べ方が汚かったらどうしようとか――考えただけで最悪だ。
そもそもなぜ俺に向かって「デートしましょう」などと言ったのか。頭のネジは大丈夫か、眼鏡の度は大丈夫か、風邪なのか? 早く俺から離れてくれ。周りの目が痛い。昨日の夜はお前のせいであまり眠れなかった。八時間しか眠れなかった。
と、漫画家・阿喜多椎音は心の中で文句や葛藤を繰り返しながら、ジョーノ・チッカーツヤか自分に急な用事が入ってデートが中止にならないかと願っていた。
――カチャ
気を落ち着かせるように眼鏡のテンプルを弄っては、目で店内を見渡す私。何故先生が私の言葉を聞き間違えたのかは分かりませんが、いつの間にか昨日案内された喫茶店『世界一旨いcoffee』に連行されてしまいました…。しかも説明された内容が、一番コーヒーがまずい喫茶店だから行かない方がいい、です。何故彼がデートと聞かされていく場所が、まずいコーヒーの店なのでしょうか。遠回しに嫌いだと言われているのかもしれません。…ちょっぴり残念です。
まあ私がずけずけと彼の傍に居座ろうとしているので、当然と言えば当然ですが…。
~回想~
案の定。今日の正午に担当編集のコウヘイさんがやってくるというのに、この阿喜多椎音という男はネームを一枚も完成していなかった。時間は午前六時。あと六時間以内で20枚の物語を完成させなければならない。…ジョーノは意を決して、こう提案した。
「一緒にネームを書きましょう」
「一緒にデートに行きましょう?」
「?」
「?」
こいつは突然何を言っているんだ…? ジョーノは口から出そうになる言葉をグッと堪える。のだが、この後何て返せばいいか。ジョーノは暫しの間考えると、とりあえずもう一度さっきの言葉を言おうとした、その時。
「じ、じゃあまずはどこに行く?」
「え?」
「デートだ。デート…」
椎音の頭の中ではすでに話は進んでいるようだ。さっきの静寂から椎音がどこまで先を進んだのだろう…。ジョーノは完全に置いてけぼりを喰らったかのように、一瞬焦った。
「ちょっと待ってください。私の言いたいことはちが」
「やっぱ喫茶店…いやだが――、いいや! 仕方ない。あの喫茶店しかゴニョゴニョゴニョ…」
もはや何を言っても聞き入ってはくれない。椎音はどんどんジョーノを置いて先へ走っていく。
気づいた時にはデートに行くことになり、気づいた時には喫茶店に行くことになり…
気づいた時には椎音に強引に手を握られ、昨日立ち寄ったばかりの喫茶店の中にいる。向かい合う二席に座り、椎音とジョーノはあれから無言のまま、静寂に身を委ねていた。
~回想終わり~
今もまだ椎音に握られた左手が名残惜しい。久しぶりに握られた異性の手はどこか懐かしく、どこかホッと安堵した気分になった。亡き夫オットンに握られた手は老人の如く皺皺で、それでいて温かかった。オットンと椎音、二人の手の感触を思い出しながらジョーノはただボオーっと手を眺めていた。
すると、漸く静寂が解ける音が聴こえた。
「お客様、メニューはお決まりになりましたか?」
それは店員かと思ったが、そういえばここにはこの人以外従業員はいないようだ。年も年配でオットンと同世代の八十代である。黒白のタキシードをかっこよく着こなし、白みがかった髪はオールバックで、髭は「ハ」の字で整っている。だが背は160センチで、格好と相まって中々のギャップがある。…だが、それすらも魅力なのだろう。ジョーノはその店員を見て、思わず「可愛い」と声に出しそうになったほどだ。
そんな中、椎音はぶっきらぼうに視線だけを店員に向けると、嫌味ったらしくこう言った。
「上手くなったのか? コーヒー…」
嘲笑を含んだそれにジョーノが注意しようとした、その時。店員はにこやかにどこからかコーヒーカップを丸テーブルの上に置いた。白い容器には既に澄んだブラウンが静かに水面を立てていた。だが椎音は未だにぶっきらぼうを解かない。すると店員はすかさず粉末シュガーのパックとシュガーシロップを珈琲の隣に置いた。それぞれ五つ。椎音は無言で合計十個のシュガーをコーヒーの中に入れ、傍にあるプラスティックのスプーンで混ぜ、一気に飲み干した。
「ゴクン」
最後のコーヒーが喉の奥を鳴らす。店員は椎音が深い味わいに浸るのを確かめ、終始落ち着いた声で言った。
「…どうでございましょうか。あなたが初めて私のコーヒーを飲んだ三年前、私は今まで鍛錬に鍛錬を重ねて磨き上げてまいりました」
老人店員がベラベラと話し始めるが、椎音は飲み干したコーヒーカップを置いたまま、天を見上げ目を瞑ったままじっとしていた。ジョーノは何を視させられているのだろうと思いながらも仕方なく眺めることにした。早く訂正したい気持ちでいっぱいだ。
「そして…ようやく…ようやく辿りついたのです! 爬虫類をふんだんに入れた新作コーヒー」
「ぶっー!」
店員が爬虫類と言った瞬間、椎音の口から先ほどの飲み干したはずのコーヒーが天に舞い上がった。コーヒーはジョーノの方にまで飛び散り、ジョーノは「キャア!」と悲鳴を上げ顔を背けた。が、店員は大仰な手振りをして続ける。
「ワニ・蛇・トカゲ…様々な爬虫類を組み合わせることで完成されたこのコーヒー…一体どんな味なのか、私はまだ飲んでいないのであります」
「飲んでから出せー!」
椎音のごもっともなツッコミで我に返った店員・ネームイズ『蛍宮博麗』は、机やジョーノや椎音に舞い落ちたコーヒーの残骸を悲しみの目で拭いていった。だが衣服に染みついたコーヒーは一拭き、二拭きでは完全に拭き取ることは出来ない。テーブル等は綺麗になったが、椎音とジョーノの服には未だコーヒーの跡が残っている。
「あの…大丈夫ですか? 先生」
「大丈夫じゃない…うぇ…」
「私の最高傑作が…」
それから店員・蛍宮は、滂沱の涙を流しながら空になったコーヒーカップを見つめていた。十分に吐き終わった椎音は汚れた黒ジャージを見渡して、「はあ…さっさと家に帰って着替えよう」と思った。だが、ふとジョーノの方に目を移す。
ジョーノの服は髪に合わせたエメラルドグリーンに彩られた動きやすいドレスだ。最低限のヒラヒラ以外は模様や飾りでカバーしている。それに所々に花に見立てたシュシュや草に見立てた飾りがあり、まるで植物から生まれた知的なお姫様である。だが頭部や顔、首周りの開けた服部分にコーヒーの跡地が残っており、緑を汚しているように見える。仕方ないとはいえ、ジョーノを汚してしまったことは拭うことのない事実だ。椎音はもしこのままジョーノを置いて逃げようと考える自分を必死に抑えながら、暫し逡巡しある答えを導きだした。
「おい…」
「ああ…こんなに汚れて――覇ナ(な)さんが貸してくれた結婚式以来の服が――」
(な…あのババアの…!?)
ジョーノのその呟きで、椎音の背から一気に戦慄の悪寒が走った。もし服を汚したとバレれば、……覇ナの怒り狂った顔が目に浮かぶ。最悪家を追い出されるかもしれない…。椎音は震える声でジョーノにこう言った。
「服…買わないか?」
「服どうしよう…」
「おい!」
「! どうしました?」
「それ…そのままじゃだめだろ? だ…から、代わりの服買いに……行くぞ」
横目でこちらをチラチラ見ながら言ってくる椎音に、ジョーノはまじまじとその光景を眺めながら……思わずクスリと笑った。笑われた椎音はムスッと不機嫌な顔になった。
「なんだよ…」
「いえ――フフ。何だか子供みたいで可愛いです…先生…フフ…」
「子供って! 俺は立派な大人だコラ! ああ、もう行くぞ!」
椎音は「子供」という言葉を聞くやいきなり怒り出し、勢いよく机を叩いて立ち上がった。そしてジョーノの手を再び握ると、半ば強引にジョーノを引っ張りながら店を後にした。店員・蛍宮がコーヒー代を請求しようとしたが、椎音は蛍宮を睨みつけ「お前にやる金はねえ!」と言いながら、去り際にポケットから千円札を投げ捨てた。
(本当この人は…)
本当に椎音という男は言葉と行動が一致しない男だな…とジョーノは心底そう思いながら、握られた手から椎音の背中に目を移して少しだけ笑った。小さな椎音の背中から見える強引なところに、ジョーノの心はほんのちょっぴりドキドキした。
そして、二人の行き先は喫茶店からファッション店に変わったのだった。担当編集が来るまで、残り五時間…
どこまで続くか分かりませんが、なんかまた新キャラが増えてる気がする…。覚えられるかな…。因みにマスター蛍宮の好きな飲み物は、コーラ&紅茶&麦茶を混ぜたもの。