6.きみの色も香もすべて II
キスだ…数週間ぶりのキスだ、きっと……
クロさんてば本当にいつもマイペースなんだから…
なんてことを頭の隅で考え、その柔らかい感触を待ち構えていると……
むにょん。
予想とは別の場所で、あたしは柔らかいものを感知した。
「…………は?」
目を開けて確認する。と、そこには。
いつかみたいに、椅子に座りながら目の前にあるあたしの太ももに顔を埋めて、
「……ふぅ」
落ち着いた様子で、息を吐くクロさんの姿があった。
「…………」
……………ほんっとに、もう。
「膝枕してほしいだけなら、最初からそう言ってくださいよ!!!」
虚しさと悔しさと悲しさを込められるだけ込めて、あたしはそう叫んだ。
ああ…ほらね、結局こうなる。
ベアトリーチェさん、この人相手に『目で語る』なんて到底無理です。口を噤むどころか、特大のツッコミをかましてしまいました。
どーせまたあたしを嘲笑っておしまいなんでしょ?はいはい、知っていますよ。
と、完全にやさぐれた気持ちで膝の上の彼を見下ろす。
しかし。
あたしの大声を聞いてもなお、クロさんは何も言わないまま太ももにそっと手を添え。
じっと、顔を横に向けたまま黙り込んでいた。
……あれ。よっぽど疲れが溜まっているのだろうか。何も言わないだなんて。
それとも三週間後の舞踏会に向けて、何か思うところがあるのか…?
予想外の反応に、少しだけ心配になって見ていると、
「………早く終わればいいのにな、コレ」
そう、聞き取れるか聞き取れないかというほどの小さな声で。
彼は、ため息混じりに呟いた。
「え…?」
「いや、ちょっと独り言。それより…」
ぱっと顔を上げ、あたしの太ももとスカートの隙間に指先を滑り込ませ、
「今日はあのスケスケパンツ…履いてないの?」
そう聞いてくる彼の顔は。
いつものあの、あたしをからかう意地悪な笑顔になっていて……
「は…履いてませんよ!あんなハレンチなパンツ!!」
「なぁんだ、つまんないの。じゃあどんなの履いてんの?」
「みっ、見ないでください!!」
タイトスカートの裾を指でつまみ中を見ようとしてくるので、慌てて両手で押さえる。
「いいじゃん見たって。僕のなんだし。それにこないだ、全部見ちゃったじゃない」
「こないだのアレは、研究に協力しただけです!」
「けちー」
と口を尖らせて、再び太ももに頬をつけるクロさん。
……もう。
『僕の』って言うなら。『僕の』って思うなら。
「………もっとちゃんと、構ってくださいよ…」
消え入りそうな声で、思わずそう呟くが。
「なんか言った?」
「……なんでもありませんよ」
嗚呼、それこそここで、じっと彼を見つめて『目』でものを言うことができたのなら、少しは違ったのかもしれないが。
気恥ずかしさのほうが優ってしまい、ふいに零れた本音をも誤魔化してしまう。
そして、先ほどクロさんに奪われたファイルに手を伸ばす。ええと、どこまで抜き出したっけ。
「もう、途中だったのに…頼んだ仕事を自分で妨害しては、元も子もないじゃないですか」
クロさんの頭を膝に乗せたまま、メモと照らし合わせてプロフィールの抜き出しを再開する。残り半分くらいか。
と、ファイルをめくりかけたところで。
「だって君、なんかいい匂いするんだもん」
唐突に。
クロさんが、そう言った。
「………へ?」
思いがけない言葉に、頬が一気に熱を帯びる。
クロさんは顔を上げ、あたしの膝に顎を乗せると、
「僕を誘った君が悪い」
真顔で、そう言ってのけた。
こ…この人はまた、急に何を……
「ま、またテキトーなこと言って、あたしのせいにしようとしていますね」
「ほんとだよ。なんかつけてたりしないの?香水とか」
「つけていませんよ何も」
あたしの返答に、クロさんは「ふーん」と呟いてから…
すんすん、と。
あたしの太ももに鼻をつけ、匂いを嗅いだ。
「ひゃ…!ちょ、何しているんですか?!」
「何って、今のうちに嗅いでおこうと思って」
そう言いながら立ち上がり、あたしの方へ身を乗り出してくる。
「だ…だから!何もつけてませんて!!」
「こないだ白衣返してもらった時にも思ったんだよね、君の匂いが残ってるなぁーって。あ、そういえば…」
ニィッと。
彼は口の端を吊り上げ。
「あの白衣、どう使ったの?君の香りが残るようなこと…なにか、シタの?」
「…………ッ!」
顔を覗き込んで、試すような口ぶりでそう言われ…
頬どころか、耳まで一気に熱くなる。
ご…誤算だった…!アイロンがけして皺を伸ばして返したけれど、まさか自分の匂いがついていたなんて…!!
い、言えない…言えるわけない。だって…
ベッドの中で白衣を抱き締めて、クロさんの匂いを嗅ぎながら………なんて。
ていうか、『好きに使っていいよ』って…どう考えても確信犯だったでしょうが!!
「いえ、別に。あの後すぐにハンガーにかけました」
目を逸らし、あたしは平静を装って言う。が、
「ほんと〜?それにしては君の匂いがたっぷり染みついていたけど……ほら」
「あっ…」
ふいに、あたしの首筋に鼻先を当てて、
「……この匂い。もっと嗅がせて…?」
鼓膜に響くような低い声で、囁く。
そのまま、あたしのシャツの一番上のボタンを一つ外して…
鼻を潜り込ませて、鎖骨と胸の谷間のあたりの匂いを嗅ぎ始める。
「ゃ…やめ……っ」
抵抗しようと腕を伸ばすと、両の手首を掴まれ、あっという間に机の上に押し倒された。こういう時の彼は、本当に『男』だ。この細い身体のどこにそんな力を隠しているのか。
あたしの身体に跨り、両腕を上げた状態で手首を押さえつけられて…
今度は、脇の辺りをすんすん嗅がれる。
「だ、だめです!そんなところ…」
シャツの上からでも死にそうなくらいに恥ずかしい。一日働いて、汗だってかいているのに。
しかし、いくら腕を動かそうと抵抗してみても、押さえられた手首はビクともしない。
首筋、うなじ、胸、脇、お腹…
彼は無言のまま、まるで犬にでもなったかのように、あたしの全身の匂いを嗅いでいく。
時折触れる鼻先と、彼の息遣いがくすぐったくて、身体がぴくぴくと跳ねる。
どうしよう。下手したら、裸を見られるよりも恥ずかしいかもしれない。
なのに何故か、ぞわぞわと背中を這うような、悪寒とは違う痺れを感じて…脳みそがとろけてしまう。
やがて押さえられていた手首が解放され、クロさんが机から降りた。あたしは後ろに手をついて、ふわふわと力の抜けた身体を起き上がらせると、
「…………」
彼は目を見つめながら、見せつけるようにあたしの左脚を持ち上げ…
足首に、ちゅっと口づけをした。
そして、ふくらはぎ、膝裏、内ももと、鼻先を滑らせるようにして……
そのまま、スカートの中へ……
「…………ぁ…ッ」
だめ。その先は…そんなところまで嗅がれたら。
恥ずかしくて、くすぐったくて、ぞくぞくして。
どうにかなってしまいそう。
心臓が煩いくらいに暴れるのを感じながら、荒くなる息を悟られないように口元を押さえる。
だめ。そんなの、だめなのに。
身体が…動かない。
どうしようもなくて、思わず瞼をぎゅっと閉じた……
……その、直後。
「…………白か」
なんていう、クロさんの平坦な声が聞こえて。
「……?」
恐る恐る、目を開ける。
すると彼は、あたしの左脚を肩に乗せ……
スカートの中を、しげしげと覗き込んでいた。
白。
それは間違いなく。
あたしの、今日のパンツの色。
…………ぷちっ。
あたしの中で、何かがキレる音がした。
「………こンの…すけべ理事長が!!!」
彼の頭を目がけ、右脚で思いっきり蹴りをお見舞いする。が、すんでのところでかわされる。
身を翻して一歩下がると、彼はおどけたように肩を竦めた。
「おーこわ」
「ばか!最っ低!なにするかと思えば…じーっとパンツ見てるなんて!!」
「だって、本当に痴女パン履いていないか確かめたかったんだもん」
「はぁぁあ?!」
もういやだこの人…本当に、悉くあたしの予想を裏切るんだから!
こちらの熱を上げるだけ上げて、いつも最後に突き落とす。
あああ。このやり場のない昂りを、一体どうしてくれるの?
しかしクロさんはまったく悪びれる様子もなく、きょとんとした顔をして、
「そんなに怒らないでよ。好きな子のパンツ見たいと思うことの、何が悪いのさ」
なんて。
特大の爆弾を、急に放り投げてきて。
「すっ……え?」
な…なんで、よりによってこのタイミングで……
あたしの欲しい言葉を、平然と言ってのけるの?
鯉みたいに口をパクパクさせて、何も言えなくなってしまったあたしに。
彼は、妖艶な笑みを浮かべる。
「…ていうか、僕のことすけべって言うけどさ」
すー…と、あたしの太ももを指でなぞり。
「ただ匂いを嗅いでいただけなのに、パンツ見ること以上にすけべなこと期待していたのは……君の方なんじゃないの?」
ドキッ。
……そ、それは…
「……ね」
クロさんは、ひそひそ話をするように手を添えて。
あたしの耳元で、そっと。
「ひょっとして、匂い嗅がれただけで……感じちゃったの…?」
「…………ッ!」
囁かれた耳を押さえて、バッと離れる。
自分がどんな顔をしているのかわからない。けど、とにかく身体が熱い。
お願いだから、そんな…嬉しそうな顔して見つめないで。穴が開きそう。自分の心の内を全部見透かされているようで、今すぐ逃げ出したい。
なのに、彼は。
あたしの瞳を覗き込み、目を細めて。
「……すけべ娘」
「ち、違います!!」
きっぱりと、言い返す。肯定なんか、できるわけがない。
と、ちょうどその時。
リーン…ゴーン…
リーン…ゴーン…
学院の、最終時限の終業を告げる鐘が鳴った。
気がつけば理事長室は、夕焼けが差し込み、ほのかに薄暗くなっている。
クロさんはあたしから離れ、壁にかけていた白衣を取ると、するっと腕を通す。
「残念、時間切れ。もう行かなきゃ」
この後、彼がどこに行くのかわかっている。
週に三回、学院での講義がある日の放課後はいつも…優秀なあの子と、個人レッスンだ。
「それ、全部抜き出し終わったらここの引き出しに入れておいて。それから……」
くるっと一度、こちらを振り返って。
「…ちゃんと熱を冷ましてからここを出てね。くれぐれもそんなカオ、他の男には見られないように。そしたら今日は、そのまま帰っていいよ」
そう言って。
バタンと扉を閉めて、出て行った。
「…………」
あたしはよろよろと執務机から立ち上がって、壁にかけてある鏡を見る。
すると。
真っ赤なほっぺに、潤んだ瞳。胸元ははだけ、谷間が少し覗いている。そんなだらしない姿の自分が、そこにはいて。
……本当に、ずるい人。
寂しくて、構って欲しくて、「もう無理」って思う頃に、有無を言わさず引き寄せられる。
『好きな子』って言われた。
『いい匂い』って言われた。
……からかうようなことも言われたけど。
でも。
これでまた、しばらくは頑張れちゃうくらいには。
あたしは、あの人に夢中なのだ。
……あの白衣。
クロさんも講義中、あたしの匂いを感じてくれていたのかな。
だったら……
「……もっと匂い、つけておけばよかった」
白衣を纏い、去って行った背中を思い出しながら。
はぁ、と。ため息を吐いた。




