漆 夏祭りの朝
紫苑の叫び声で俺は目を覚ました。開いている窓から有翼の青年が飛び込んでくる。
「わっ、わっ、わたっ、私っ、は」
「どうしたんだ紫苑様」
漆黒をぐるぐるさせながら、耳や首まで真っ赤にして俺を見る。
「目が覚めると神楽さんに抱きしめられていました。服も肌蹴ていて、髪もぼさぼさで……。私は昨夜何があったのか覚えていません。何があったのでしょうか。何もなければよいのですが」
顔を覆って蹲ってしまった。
「おはよー、こーいち」
神楽がやって来て、床に蹲る紫苑を見下ろす。神楽はほんのりと頬を赤らめて、
「イケメン、楽しい夜だったわね」
マジか。
実はカラスではなくフラミンゴなのではないかというくらい紫苑が赤くなった。神楽に翼を撫でられた瞬間その場から飛び退き、俺の後ろへ隠れる。
「神楽、あの後何かあったのか」
「とっても楽しかったわ」
俺の背にしがみ付く紫苑の手が震えている。
「何があったんだ」
どこまで言及していいのだろう。あんなことやそんなことがあったのだろうか。
神楽は熱っぽい息を漏らしながら俺の後ろを見る。
「撫でていたの」
反応に困った。撫でていたとはどういうことか。
「何かおまえ達の関係に変化を与えるようなことはなかったんだな」
「何のことかしら? アタシはイケメンを撫でていただけよ。他には何もないわ」
安心したのか、紫苑の手から力が抜ける。
「翼を撫で、嘴を撫で、人の姿になったところで髪を撫で、顔を撫でて、そのまま服を……ってところで目覚めて逃げられたわ」
「破廉恥!」
「何よー、別にいいじゃない。無防備に眠りこけてたあんたが悪いのよ」
神楽が紫苑を撫で繰り回すのは、おそらく犬が飼い主などに好意を示すため顔を舐め回すのと同じなのだと思う。けれど、紫苑からすれば堪ったものではないのだろう。あの手はカラスを絞め殺しているのだから、恐怖心を抱いているだろうし、押しの強い女には弱そうだ。
「紫苑様、今日は栄斗の家に行くから鈴探しは無しな」
「は、栄斗さんの?」
まだ声が震えている。
「今日夏祭りなんだって。手伝いに行くんだよ」
「そうですか。境内ならば悪しき妖に追われるなどということはないと思いますが、念のため御供致しますね」
「あぁ、ありがとう。……神楽も来るか?」
「えっ、アタシも? いいの? お祭り?」
「晃一さん何を言って……」
俺は紫苑のジャケットの内ポケットに手を突っ込む。
「なっ、何です?」
手帳を取り出し、ページを開く。百年以上の歴史を持つ星影周辺の神社リスト。その中の一つを指差し、紫苑に見せる。
「これ見てくれ」
「しかし、神楽さんは遠方からいらしたのでしょう?」
「そう言ってたけど、案外これかもしれない。昨日も夢を見たんだ」
俺達の会話を窺うように神楽が覗き込んでくるが、これは一応秘密の話し合いだ。紫苑が翼を広げて隠すと、問答無用に撫でられた。びくっと身を縮めてから、再び手帳を見る。
「夢ですか……」
手帳に書かれた神社の名を見て、紫苑は低く唸った。
暮影神社へ向かうと、鳥居の下で栄斗が待っていた。いつもは待ち合わせに遅れるような奴だが、さすがに自分の家が集合場所なのに遅れるということは無いようだ。
「おはよー、晃一」
「おはよ」
「ようし、行こうぜ」
栄斗が鳥居をくぐって歩き出す。
「おい、美幸と日和は?」
「ん?」
「声かけたって言ってただろ」
「ああ~、うん、かけたよ。祭りにおいでって」
「は?」
栄斗が振り返り、にやりと笑う。
「女の子に力仕事頼む訳ないだろ? さては晃一ぃ、オマエ東雲ちゃん目当てで来たなぁ?」
「何でそうなるんだ」
「なんだ違うのか」
「当たり前だろ」
それは残念、と言って栄斗は再び歩き出す。何が残念なんだ。
「晃一さん」
栄斗の後を追おうとすると紫苑に呼び止められた。どうしたのかとそちらを見遣ると、何かあったのはどうやら神楽のようだった。鳥居の所で立ち止まったまま栄斗を凝視していた。長い睫毛を震わせ、赤い瞳を揺らしている。
「こーいち、あの人よ……。そっくりだもの……」
「あの人って、栄斗か?」
「あの人が、アタシの愛しい人……」
社務所に着いたところで栄斗に軍手を投げられた。
「それ履いて。もの運んだりするからさ」
神楽が出会った人の子は彼女の姿が見えていた。まさか栄斗には人ならざる者が見えているのだろうか。いや、それはないだろう。見えているならとっくの昔に俺にもそういう奴らが見えるということに気が付いているはずだ。それに、夢に出てきた男は栄斗ではない。では、神楽が出会い、仲良くなったという栄斗似の男は何者なのか。先程から神楽は栄斗の視界をうろうろしているが、見事にスルーされている。
「おい晃一、話聞いてたか?」
「え?」
「これ、この段ボールに提灯が入ってるから、俺と一緒に運ぶの。分かったか?」
「あ……あぁ、うん」
「どうしたんだよ、ぼーっとして。あれか、東雲ちゃんがいないからだな」
「違う」
軍手を履き、段ボールを抱える。先に社務所を出て行った栄斗を追い、並んで歩く。
「なあ晃一、手袋とか軍手とかを履くのって方言らしいぜ」
「らしいな」
どのタイミングで切り出そう。
朝の神社というのは夏と雖もひんやりとした空気が漂っていてどこか神秘的な雰囲気がある。早起きなスズメの鳴き声と、木々の葉が揺れる音。朝露の匂い。近所の子供が準備を見物に来ている声。
「よし」
栄斗が段ボールを下ろしたので、俺も抱えていた段ボールを下ろす。この後はどうするのだろう。様子を窺っていると、栄斗は段ボールの蓋を開けた。中に入っていたのは赤い提灯だ。赤、というよりも朱色に近いだろうか。
「これ、吊るすのか?」
「それは担当の人がやってくれるから。俺達は次の仕事。ほんとの巫女さん達が神楽の準備で忙しいから、バイトで来てくれてる授与所担当の臨時の巫女さん達に挨拶」
「それはおまえだけでいいんじゃないか。俺が行く必要あるのか」
「一人じゃ心細いんだよ頼むよ親友」
学校では誰とでも仲良くなるような奴だが、こういう時はなぜか押しが弱くなってしまうらしい。毎年のことだが。将来こいつが神社を継いだ時が心配になるからもっとしっかりしてほしいのだけれど。