肆 鈴の頼み事
凄惨な出来事に耐え切れず神なのに失神してしまった紫苑の腕を肩に掛け、半ば引き摺るようにしながら家に帰った俺は玄関で妹に出迎えられた。
「おかえりー。どうしたのチャイム鳴らして。鍵忘れたの?」
紫苑の体を支えるのに精いっぱいで鞄から鍵を出せなかった。せめて夕立の姿であれば片手に収まるのに。
「そうなんだよ、俺としたことが」
「お兄ちゃんなのに変なの」
「明香里、ドア閉めてくれるか」
「はーい」
神楽が入って来たのを確認し、妹に玄関のドアを閉めてもらう。
「友達の家行ってたんだろ、楽しかったか」
「うん、みんなで宿題やって、遊んで、お昼食べたんだ。……お兄ちゃん、なんかすごい疲れてるみたいだけどなんかあったの」
「気のせいだろ」
ずり落ちそうになった紫苑をなんとか支え、二階の自室を目指す。人ならざる者が見えない妹からすると、兄がなぜか前傾姿勢で一歩一歩を踏みしめ、時々背中の方を気にしているという謎状況だ。変な兄だと思われないようにできるだけ自然を装おう。紫苑は体こそ細身だが、翼が大きい分重たい。神楽には黙って付いて来ないで手伝って欲しかったが、俺が油断した隙にあの電線のカラスのようにされてしまっては堪らない。何もせずに付いて来いと言った。
「お兄ちゃん、お母さんが朝ごはん残ってるよー、って。食べる?」
「後で食うから」
「はーい」
なんとか部屋のドアを開け、紫苑をベッドに横たえる。倒れた瞬間と比べると呼吸もだいぶ安定してきて、顔色も幾分いいように見える。神様でもこういう風になるものなのか。しばらく休ませておこう。
俺は椅子に座り、神楽を床に座らせる。腰まである髪が少しだけ床に着いた。
「で、おまえの依頼って?」
神楽は鈴の付いた扇を弄んだまま答えない。
「おい」
艶っぽい目が見ているのは俺ではなくて紫苑のようだ。まさか狙っているのだろうか。あのカラスのようにしようというのか。
「ちょっとやりすぎてしまったみたいね」
「ちょっとじゃないだろ」
「……彼が起きたら謝らなくちゃ」
「……それで、おまえの依頼って何なんだよ」
紫苑のほうを向いたまま、神楽は扇を弄び続けている。
「探してほしいの」
「何を」
「アタシの本体」
「は? 何だ? 鈴ってこと?」
「そう」
部屋に入ってから初めて神楽が俺を見る。
「外の世界が楽しくて遊び歩いているうちに本体の行方が分からなくなったの」
馬鹿なのか。
「こんなところまで来てしまって、右も左も分からなくて、不安で。そうしたら、翡翠の覡とかいうお悩み相談員の人間がいるって噂を聞いたの。だから探して、あんたの入った店にアタシも忍び込んだのよ」
付喪神というのは命持たぬ物が時を経て命を得、妖となった者だ。物そのものと妖の体が融合した者と、妖の体とは別に元の物を残したままの者とがいると聞くが、どうやら鈴彦姫は後者のようだ。本体が別にある場合、本体が失われると妖も消えてしまう。だから付喪神は本体を大切にしているという。しかし、神楽は本体の行方が分からなくなっている。
「そういうのって、こう、なんていうか、ビビビッと分かるものじゃないのか」
「そのはずなんだけど、分からないのよ。アタシ、このまま消えてしまうのかしら」
依頼内容をメモしていた手を止め、ペンを置く。付喪神本人に分からない本体の所在を人間である俺が手掛かりもなしに見付けることなど可能なのだろうか。これは厄介な依頼を受けてしまった。しかし、神楽は神ではなく妖なのだからこれは翡翠の覡としての正規業務からは外れている。一度は受けてしまったが、今から断ったとしても業績に響きはしないだろう。とは思ったものの、紫苑のことを考えると複雑な気持ちになる。俺がここで依頼を断れば、あの電線のカラスは無駄死にとなってしまう。そうなれば俺が紫苑に責められかねない。アイツは「依頼を受けろ」と言ったんだ。脅されたからだが。
「思い当たることとか、そういうのは一切ないんだな」
「だから困ってるんじゃない」
「……分かった、善処しよう」
夜、庭の木で休むという神楽を外に出してやり、俺は床に布団一式を用意して横になった。ベッドの上ではまだ紫苑が眠っていて目を覚ます気配がない。明日の朝になれば目覚めるだろうと思うが、少し心配だ。翼が邪魔になるため横向きに寝かせてやったが、壁向きにしたため今の俺からは折り畳まれた翼が見えるだけで紫苑本人の様子はよく分からない。紫苑との付き合いは去年の学校祭準備期間、六月からだが、家に泊めたことは今まで一度もなかった。そもそも、俺は夕立というカラスが普段どこに住んでいるのか知らない。カーテンの隙間から差し込む月明かりを受けて翼が青に緑に煌めいた。時々紫も混じっているように見えて幻想的な色合いだ。
明日も講習だ、カラスの羽に見惚れてないで早く寝よう。神楽のこともあるし……。
声が聞こえた。
「名前を言って。ねぇ、聞こえているでしょう?」
女の声だ。昨日の夢と同じ。
あれ? この声って、あれだよな。
暗闇だった視界が急に開けた。神楽が立っている。誰かと話をしているようだった。近付いてよく聞こうとしたが、俺の足は動かない。
「名前を……。君は……」
相手は知らない男だ。こちらの顔には靄のようなものがかかっていて人相が分からない。声からして若い男だというのはなんとなく分かるが、果たしてこの男は妖なのか人間なのか。
「……かぐら、だね」
男が呟く。
神楽が幸せそうに笑った。
「あぁ、愛しい人……」
変な夢だった。
軽く肩を叩かれ、俺は目を覚ます。
「おはようございます、晃一さん」
枕元に紫苑が座っていた。
「ん、おはよう……」
カーテンからは夏の早い朝日が差し込んでいる。
「昨日はご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。運んで下さったのでしょう? それに、お家に泊めて下さるなんて……」
「いや、紫苑様の家知らなかったからさぁ……。ほんとは家まで送り届けてあげた方がよかったのかな」
「あぁ、いえ、私の家は……」
紫苑は語尾を濁して曖昧な感じで答え、「風を入れましょうか」と窓を開ける。窓枠に留まっていたらしいスズメが飛び立つ音が聞こえた。
「おはよ、イケメンカラス」
俺の部屋からは庭の松がよく見える。松の上で休んでいた神楽に朝の挨拶をされ、紫苑はいつも浮かべている柔らかな微笑をその顔から消し去った。布団の上でぼんやりと様子を見ていた俺を振り返り、引き攣った笑顔を浮かべる。
「私、今回の依頼で殉職するかもしれません」
「大丈夫だろ」
中央分離帯に取り残され、周りの人間が「飛べばいいのに」と思う中うろうろしているカラスのように挙動不審な紫苑は、俺の机に置かれたメモを手に取る。深呼吸して依頼内容を確認し、「ううむ」と唸って眉間に皺を寄せる。
「難しい依頼ですね」
切り替え早いな。
「手掛かりの無い状態で本体を探す、ですか」
「手掛かりはある。見付けた」
「おや」
窓の外から神楽も身を乗り出す。
「どういうことよ」
神楽の登場にびくっと身を縮めた紫苑は依頼メモに目を落として誤魔化している。
「夢を見たんだ」
俺が一昨日と昨日見た夢について話すと、神楽は睫毛が零れんばかりに目を大きく見開いた。
「その男の人……確かアタシの本体があった神社によく来ていた人間よ。見える人だったのね、仲良くなったのよ」
「どちらの神社かは覚えていないのですね」
「覚えてたら帰ってるわよ!」
神楽が紫苑に飛び掛かった。仕事だと言い聞かせて吹っ切れたのか、いつもの冷静さを取り戻した紫苑は神楽の攻撃を夕立の姿になって躱した。窓枠に留まった美しいカラスが口を開く。
「貴女は本体から離れている間に自分がどこにいるのか分からなくなり、本体の行方が分からなくなったそうですね。元居た神社は星影から離れているのですか」
持て余した手をどうしようかと動かしている神楽は口をへの字に曲げる。
「かなり歩いてきたのは覚えてるわ。でも、どれくらい離れているかは分からないわね。結構距離があった気はするんだけど」
まさか近隣の町の神社を片っ端から当たるとか言い出さないよな。言わないでくれ夕立。言わないで下さい紫苑様。
「貴女が仲良くなったという男性がどちらにお住いの方なのかが分かれば楽なのですが……。そうですか、仕方ありませんね……。晃一さん」
やめろ。やめて下さい。
「近隣の町の神社をいくつか回ってみましょう」
そうなりますよねー。