参 毛玉とカラス
店員のお兄さんから落下した毛の塊が俺の頭にのしかかってきたのはその数秒後だった。下を向くと長い毛がばらばらと下がって来て非常に食いづらい。そちらが気になって折角のボンゴレの味がよく分からなかった。
栄斗達と別れ、長い毛を引き摺りながら帰路に着いた俺は、シャッター商店街まで来た辺りで心の中で夕立を呼ぶ。すると、午後二時前にもかかわらず俺の前に夜空が広がった。現れたのは有翼の黒ずくめの美青年、紫苑だった。夏の日差しを受けて青に緑に煌めく烏羽色の翼を広げてにこりと微笑む。シャツにネクタイをきっちりと締め、ベストにロングジャケットという暑そうな格好をした神様は俺の頭を見て「ぷふっ」と吹き出した。
「晃一さん、髪型を変えられたのですか?」
「なわけないだろ。紫苑様の目は節穴なのか」
「失礼、少々驚きまして。どうしたのですか、それは」
経緯を伝えると、紫苑は「ふうむ」と唸った。探偵のように顎に手を添えて頷く。
「それはおとろしという妖だと思います」
「やっぱり妖か」
「またの名を毛いっぱいといいますね」
中高年の男性にプレゼントしたくなる妖だな。
俺の周りを回っておとろしの観察をしていた紫苑が背後で動きを止める。その直後にむんずと頭を掴まれた。そして、引っ張られる。
「晃一さんから離れなさいっ!」
「いててててっ、それ俺の頭だよ!」
手が離される。
「おや、ではおとろしはどちらへ……クワぁっ」
背後で情けないカラスの鳴き声がした。黒い羽根が飛び散る。
「紫苑様っ?」
まさかおとろしに襲われでもしたのだろうか。紫苑は武神ではないので戦闘力はあまりなく不意打ちにはめっぽう弱い。一抹の不安が胸を過る中振り返ると、毛の塊に馬乗りされてもがいている紫苑の姿があった。大きな黒い翼が苦しそうに蠢いており、パッと見、翼の生えた毛玉に見えて気持ち悪い。しかし気持ち悪いからと言って見捨てるわけにもいかないので、俺はおとろしを紫苑から引き剥がすべく、その毛の中に本体を探そうと手を突っ込む。
「いい男ね」
女の声がした。あれ……この声どこかで聞いたな。
「食べちゃいたいくらい素敵な鳥さん」
「晃一さん助けて下さい」
いつもは全てを吸い込むように深い深い漆黒の瞳が、吸い込んで来た物を吐き出さんばかりに揺れていた。俺はおとろしの本体を掴み、力一杯引っ張る。
「紫苑様、大丈夫か」
「えぇ、なんとか……」
肌蹴た胸元を押さえながら艶やかな黒髪を乱れさせ息を荒げている様というのは随分と色っぽくて、俺が女だったらときめいていたかもしれない。日和の家のインコなら感謝の言葉を叫びながら卒倒するだろう。
シャツのボタンを閉め直しながら、紫苑は俺が手にしたおとろしを睨んでいる。バレーボール大の毛玉はぶるりと震え、赤い瞳を覗かせた。そして俺を見て、
「あんたが翡翠の覡ね」
と呟いた。
「この破廉恥妖怪、許しませんよ! 例え周りに人目のないシャッター商店街であろうと、白昼堂々私を押し倒すとは何たる所業、万死に値します! 次は晃一さんに手を出そうというのですかっ」
黒い翼を大きく広げ、紫苑がおとろしに掴みかかった。すんでの所で俺の腕をすり抜けた毛玉は空中で一回転し、姿を変えて着地する。バランスを崩して倒れ込んできた紫苑を支えてやりながらおとろしの行方を追った俺は、その変貌した姿に言葉を失った。俺にしがみ付いている紫苑もまた、驚いたように毛玉だったものを見ている。
それは和服姿の女だった。頭頂部で束ねられた黒髪は腰の辺りまでありゆるりゆるりと風に揺れている。髪を束ねている赤い紐には大きな鈴が一つくっ付いていて、おそろいのデザインの小さな鈴が帯留めや手首に巻いたリボン、持った扇からもぶら下がっていた。長い睫毛で縁取られた赤い瞳が俺達を見る。
「いつまで抱き合っているの」
言われて、俺と紫苑は互いから飛び退く。
「紫苑様、こいつは……」
「鈴彦姫……ですね。おそらくおとろしそのものだったのではなく、彼女が毛玉に化けていた姿だったのでしょう」
「鈴彦姫?」
確かにたくさん鈴を付けている。
「神社などの鈴の付喪神ですよ」
「そう、アタシは鈴彦姫。神楽という名を持っているわ」
かわい子ぶっているのだろうか、神楽は小首を傾げて薄く笑う。頭に付けた鈴が音を立てた。
「鈴の付喪神ってことは妖なんだろ? それが俺に何の用だよ」
「お願い事」
「は?」
「あんた、翡翠の覡とかいう神通力人間なんでしょう? 神々を導くとかいう。アタシも導いてくれないかしら」
神楽の両手が俺の右手を包んだ。細くて色白で綺麗な手だ。俺の手を撫で繰り回しながら上目遣いに俺を見て来る。
「おまえ神じゃなくて妖だろ」
「付喪『神』よ」
「それ妖だから」
「細かいことはいいじゃない。ね、お願い」
「晃一さんから離れなさい!」
紫苑が神楽の襟首を掴み俺から引き離す。
翡翠の覡の力は迷える神だけではなく、その力を我が物にしようとする術者や、神通力を取り込んで神格化しようという野望を持つ妖も呼び寄せる。そんな悪い虫から俺を守るのも紫苑の仕事だ。
「五月蠅いイケメンさんねぇ」
「お帰り下さい」
神楽は紫苑の手を振りほどくと、ふわりと浮かび上がって近くの電線に留まっていた一羽のカラスを捕まえた。どうするのかと見守っていると、ばたばたもがくカラスをか細い手を以てして締め上げてしまった。人の悪そうな笑みを浮かべて俺達を見る。
「紫苑様、どうする」
神からの依頼を受けるかどうかは、神の種類や依頼の内容、危険の有無などを総合して紫苑が判断してくれることが多い。何も言わずに微笑んで来る時はオーケーの合図なのだが、顔面蒼白になっている今の紫苑にその判断はできるのだろうか。そもそもまだ依頼は聞いていないが。
漆黒の瞳が先程にも増して全てを吐き出すように激しく揺れていた。何か言おうとしているらしいが、小さく開いた口から聞こえるのは歯の根が合わずに鳴る音だけだ。手を止めない神楽の手元で飛び散る黒と赤を視界から排除するように目を逸らす。
「ねえイケメン、あんたもカラスなんでしょう?」
「こ、晃一さん、彼女の依頼を受けましょう」
これまでの一年の付き合いで聞いたことのないくらい震えた声だった。青褪め、目の焦点は定まらず、息を荒げ、脂汗が滲み、吐き気もあるのか口元に手を当てている。目の前で同じ種類の鳥が惨殺されるのは神様と雖もさすがに応えたのか、見るからに具合が悪そうだ。しかしそんなことは全く気にせず、神楽は満足気に笑う。そして、見るに堪えない姿になったカラスを近くの花壇に埋めた。
「ありがとう、あなたが命を張ってくれたおかげでアタシの願いを聞いてもらえるわ」
俺はもしややばい妖に絡まれているのではないだろうか。しかしこいつはもう依頼妖だ。
「立ち話じゃあれだし、俺の家で話を聞くよ。付いて来い」
花壇の脇に屈む神楽へ歩み寄ると、背後で物音がした。
「あら、倒れたわよ」