壱 夏休みの朝
「おはようございます、晃一さん」
にこりと微笑みかけて来る黒ずくめの美青年を無視して、目覚まし時計を確認する。知らない間に叩いていたのかスイッチは切られていて、短針が無情にも八を少し過ぎた辺りを差している。
「やばい……」
「いつもの時間になっても下りて来られないので、起こしに参りました。窓が開いていたのでそこから……。何度も声をかけたのですが、ぐっすりお眠りになっていて」
急いで制服に着替え、鞄を手に階段を下りる。
「父上様も妹さんも、もうお出かけになっています。母上様もパートの時間があると先程出ていかれましたが、それに『うん』とお答えになっていたのに……」
「仕方ないだろ眠いもんは眠いんだよ!」
居間のテーブルには俺の朝食が用意され丁寧にラップがかけてあったが、食べている時間はない。近くにあったお盆に載せて運び、片っ端から冷蔵庫にぶち込んでいく。母さん、許せ。帰って来てからちゃんと食べるから。
「食事はきちんと摂って下さい」
黒ずくめの美青年に差し出された食パンを咥え、一昔前の少女漫画の主人公さながらの姿で俺は家を飛び出した。パンが喉に詰まりそうになるのを堪えながら走っていると、家の鍵を足に引っ掛けたカラスが飛んで来た。
「戸締り、して来ましたよ」
落とされた鍵を受け取って、俺は学校へひた走る。並走、と言っていいのだろうか、先程のカラスが俺を追い抜かない速さで飛び続けている。途中、足の生えた丼茶碗が道を横切っていったが見なかったことにした。
俺の目には人ならざる者達の姿が映る。
例えば、尻尾が二股に分かれている猫だったり、真ん中におっさんの顔が付いている車輪だったり。人ならざる、とは言えないかもしれないが、幽霊も見えるということが小一の時の曽祖父の葬式で証明されている。
そして、神様。先程から俺と並走しているこのカラスはそんじょそこらのカラスとは違う。その本性は雨影夕咫々祠音晴鴉希命という名を持つ神格化した八咫烏、つまりは神様だ。八咫烏であるにもかかわらず太陽ではなく雨を司り、日陰の八咫烏という異名も持っているらしい。俺を叩き起こした翼の生えた黒ずくめの美青年は神としての真の姿であり普通の人には見えないが、怪しすぎる烏天狗のお面を着けるとお面のお兄さんとして顕現し、見えるようになる。今空を飛んでいるこのカラスの姿は世を忍ぶ普通のカラスのフリで、普通に見える。晴鴉希命は人の姿では紫苑、カラスの姿では夕立と名乗っており、正直ややこしい。統一したらどうだと言ったこともあるが、やんわりと断られてしまった。
一介の高校生である俺がどうしてこんなカラスの神様と行動を共にしているかと言うと――。
「玄関閉めるぞー」
学校の前の横断歩道で信号待ちをしていたところ、玄関の番人をしていた教師がそう言った。歩行者信号が青になった瞬間駆け出し、閉まり始めた玄関の扉を突破する。突破できなかった生徒達の落胆の声を背に、上靴に履き替えて教室を目指す。「三年四組」と札のある戸を開け、
「はっ、はははっ……ギリセーフっすよね……?」
「何笑ってんだ、ギリアウトだよ」
担任の時田がにこにこ笑いながら言った。しかし、目は笑っていない。
「朝日、夏期講習は皆勤賞の判定に含まれないけど、遅刻は感心できないな」
「すいません」
「ほら、早く席に着いて」
「はーい」
教室の至るところからひそひそ話が聞こえた。
「朝日君が遅刻?」「珍しいね」「今日は雨かな」
俺を何だと思ってるんだ。俺だって人間なんだから寝過ごすことくらいある。
ひそひそ話を聞き流しながら席に着くと、隣の席から「よっ」と声をかけられた。俺の腐れ縁幼馴染一号、栄斗だ。
「晃一ぃ、オマエらしくないなあ。どうした? 昨日の夜眠れなかったとか? あれだろ、夏の心霊特番見て怖くなったんだろ」
「見てないしその程度で眠れなくなんてならない」
「じゃあ、あれだ、遅くまでゲームしてたとか」
「おまえじゃあるまいし……。今日の予習してたんだよ」
「うっわ、さすが。晃一く~ん、まっじめ~」
「おい朝日、小暮、私語するな」
「あははー、ごめんなさ~い」
おまえの所為で俺まで注意されたじゃないか馬鹿。
溜息を吐きながら窓の外を見ると、木にカラスが留まっているのが見えた。羽繕いをしていた夕立は俺の視線に気付いたのか顔を上げ、一声「かあ」と鳴いて飛んで行った。
紫苑が俺の側にいるのは偏に俺が翡翠の覡だからである。覡というのは男の巫女のことだが、俺が神社勤めをしているという訳ではない。翡翠の覡というのは言うなれば選ばれし者である。神を導くと言われる翡翠の神通力をその身に宿す者のことを翡翠の覡と呼ぶ。
導いて欲しいという最初の依頼神・紫苑を救ってから、まるで妖怪ものや幽霊ものの漫画の主人公のような生活を送る羽目になってしまった俺である。紫苑は夕立としてこの星影市で暮らしているため、俺のお目付け役として側に就いている、という訳だ。俺が学校にいる間は鳥好きのおじいさんの家に遊びに行っていることが多い。この一年の間紫苑を含めて四柱ほどの神を導いたが、はっきり言ってどうやって導いているのか自分でもよく分からない。お悩み相談の末、気が付いたら力を使っていて救っているのだ。よく分からんと紫苑に言ったら、私に言われても困りますと言われてしまった。
「んー、じゃあこの問題、朝日。前に出て答え書いてくれ」
「はーい」
昨夜ノートに解いたものを確認しながら、黒板に答えを書いていく。三角関数というのは数学のはずなのに、ノートに書かれているのは数字よりもアルファベットだ。途中まで居間でやっていたが、小学生の妹が「お兄ちゃん、英語のお勉強してるの?」とノートを覗き込んでいたので相当アルファベットに満ちているのだろう。書き終わって席に着くと、時田がうんうん頷いた。
「さすが朝日だな。遅刻は大目に見てやろう」
大目に見るも何も夏期講習なのだからどうにもならないだろう。
「わあ」「すごい」「あれ分からなかったんだよね」
口々に言うクラスメイト達の声は少し心地いい。いいぞ、もっと褒めろ。俺は褒めて伸びるタイプだからな。