73.高杯警部、自宅に来る
「ははは、ボブのあの逃げっぷりを見たか?」
捜査車両の中で、大笑いをしているのは高杯警部だった。
最初は、ちょっとした意趣返しのつもりだったのだが、それが思った以上の展開になっている。
今頃、沖場たちは慌てているに違いない。
そう思うと、高杯の笑いは止まらなかった。
それは、西蔵が思わずドン引きしてしまうほどの笑い方だった。
「た、高杯さん、もうその辺で止めて下さいよ。耳がどうかなっちまいそうだ」
「ははは、お前、愉快じゃあないのか。NSAの工作員ともあろうものが、飼い猫一匹に尻尾を巻いて逃げ出したんだぜ。ははは、愉快、愉快」
西蔵は、肩をすくめ、高杯警部を無視し、警察無線の交信を聞き始めた。
その警察無線からは、八重山家の空き巣事件に関する西入間署の警官の交信が流れている。
犯人は未だ逃走中であり、非常手配に関する警官同士のやり取りが盛んに交信されている。
「どうやら、ボブはうまく逃げられたようですね」
「ほう、そうかい。結構な怪我だったのに、流石はNSA、逃げるのだけはうまいな」
尚も警察無線からは、警官の交信が続いている。
「ボブが、遺留品を残していったそうです。バッグ・・・小型のスーツケースだそうです。そういやあ、あいつ、家に侵入する時に何やら抱えていましたね。それを忘れたみたいです」
西蔵の説明に、高杯の笑いは不意に止まった。
「スーツケース? 何だって人の家に侵入するのに、そんな邪魔な物を持っていったんだ」
「さあね、何かを回収するつもりだったんじゃないでしょうかね」
「何かって、そんなものが家に置いてあるなら、あいつら、とうの昔に侵入して持ち出しただろうに。違うな。何かを持ち出そうとしたんじゃあなくて、持ち込もうとしたんだ」
「持ち込むって、何をですか? そういえば、ボブが侵入しようとしていた時、そんな会話もしましたね。盗聴器ではないとしたら・・・・」
その時、高杯警部の携帯が音を立てた。
「おっ、ちょっと待て・・・ムカデだ。ムカデのとっつぁんから電話だ」
ムカデとは、高杯達の上司の向出課長のことである。
「はい、高杯です・・・・えっ、何ですって。本当ですか? ・・・しかし、こっちは丸腰ですぜ。いや、やってやれなくはないですが・・・・NSAの連中、どうしますか。あいつらまでも出てきたら・・・・そ、そうですか。分かりました」
高杯警部は苦い顔をして携帯を切った。
「どうしたんですか? ムカデが、また何か厄介毎でも押し付けてきたんですか?」
「ああ、やっかいも、やっかい、飛び切りやっかいな指示だ」
「何ですか、いったい。どうしろと」
高杯は一瞬、お手上げとでもいうかのように車の天井を見上げた。
「公安からの情報だ。複数のどこぞの国が、J・Jの身柄確保に動きだした」
「へっ? どこからか情報が洩れちゃったんですね」
「ああ、情報機関の世界では、はっちゃかめっちゃかになっているそうだ。八重山さくらが、J・Jのことをネットで流したらしい」
「ありゃま。それはまたずいぶんと思い切ったことを・・・そんなことをしたら、NSAだけではなく、全世界の諜報機関が寄ってたかってJ・Jを追っかけ回すでしょうに」
「まったくだ、なんてことをしやがるんだ、あの嬢ちゃんは。」
「で、ムカデは俺たちにどうしろと」
高杯は車の前方を見た。
もうすでに夜が明けている。
眩しいアサヒが、団地の中を照らし込んでいた。
「娘の身柄を確保して、NSAに引き渡すってえ、最初の指示じゃあなく、あいつらに奪われない様に、警視庁に連れてこいだとさ。どうやら裏の仕事はキャンセルだ」
玄関のドアホンがピンポーンと鳴った。
こんな朝早くに誰だろう。
来訪者を映し出すインターホンカメラは真夜中の大騒動で壊れたのか、画面が真っ暗なままだった。
玄関のドアが大きく歪み、閉まらないために、誰か心配した近所の人が様子を見に来てくれたのだろうか。
わたしは、朝食の手を止めて玄関に向かおうとした。
「ああ、いいよ、僕が出る」
腰を浮かしかけた私を止めて、席を立ちあがったのは、登おじさんだった。
「ありがとう、おじさん」
おじさんが玄関に向かってから少したってから、おじさんの大声が聞こえてきた。
「だめた、帰れ。そんなことは許さん」
わっ、何事?
いったい、おじさんは誰に怒鳴っているの?
わたしは直ぐに今のドアを少し開けて、首を突きだし、玄関の方を見た。
えっ? 高杯警部に西蔵警部補?
玄関に立っていたのは、あの刑事さん2人組だった。
怒りモードの登おじさんの剣幕にも二人は平然としている。
「だから、八重山さくらの身が危ない。警察に保護させてくれないか」
「駄目だと言ったら駄目だ。お前たちの目的は分かっている。さくらをだしに、J・Jをおびき寄せるつもりだろう。そんなことはさせない」
「だから、ここはとにかく危険なんだって。おっ、さくらくん、無事の様でなによりだ」
高杯警部は、居間のドアの陰からそっと顔を出したわたしを目ざとく見つけた。
そして言葉を続ける。
「さくら君が昨日、アノニマスの掲示板にJ・Jに関する動画を投稿してしまってね・・・」
高杯警部の言葉に、明らかに登おじさんの体に動揺が走った。
そういえば、まだそのことをおじさんに話していない。
昨日はおじさんは帰ってこなかったし、真夜中にあの大騒動があったせいで、わたしは登おじさんに話すのをすっかり失念していた。
「と、投稿・・・アノニマスの掲示板に?」
おじさんは、後ろを振りむき、私の顔をまじまじと見た。
その目は信じられないとでも言うかのように、大きく見開かれている。
わたしは、小さく頷くしかなかった。
「アノニマスに・・・なんてことを」
おじさんの声はしわがれていた。
そして、おじさんに追い打ちをかけるように、高杯警部は続けた。
「そう、さくら君は、こともあろうに、アノニマスの掲示板にJ・Jのことと、NSAに追われていることを、洗いざらい公表してしまった。その結果、ろくでもない勢力を呼び込むことになった。公安から情報が来ている。既に確認されているだけでも中国、ロシア、イギリス、韓国、北朝鮮の諜報機関が動いている。彼らがまず目指すのは、J・Jとの唯一の接点であるこの嬢ちゃん・・・さくら君だ。彼らに掴まった場合、NSAに身柄を拘束されるより悲惨な結果になることは眼に見えている」
わたしは、高杯警部の顔をじっと見た。
・・・うそは言っていない。
わたしはそう直観した。
「し、しかし、さくらちゃんを君たちに渡したとしても、身辺の安全を本当に保証できるのか? J・Jの持つ情報を追っていることについては、君たちも同じ穴のムジナじゃないのか?」
「確かにその通り。我々も、最初はJ・Jの身柄をNSAに渡すよう指示を受けていた。だが、情勢が変わったのだ。日本政府は、万難を排してでもJ・Jをどの国からも保護することを決定した。そしてその一環として、八重山さくら君を、警視庁に護送するよう、我々に命令が下ったのだ」




