国家危機調査官の任務、カレー煎餅
六本木通りから少し入った所にある、三階建ての建物。
そこが国家危機管理調査室の拠点だ。
うちっぱなしのコンクリの壁には窓が無く、採光のためのガラスブロックが埋め込まれているだけだ。
一階はガレージで、来訪者はまず二階にあるオフィスに通されることになっていた。
玄関に入ると、軽やかなポプリの香りと救世主を描いた油絵が出迎える。
見る人が見れば、その絵画が数年前に画壇を賑わせた“サルバトール・ムンディ”に酷似していることがわかるだろう。
だが牧村修二郎は、香りを楽しんだり絵画を鑑賞したりはしなかった。
どかどかと階段を昇って、二階のオフィスに突入してくる。
「ちょっと、霧崎さん。どこにいんのよ!」
牧村は苛々とした口調でマイミを呼んだ。
牧村修二郎は内閣官房に所属する参事官だ。年齢は三十代半ばで、年下のマイミに対しては常に高圧的な態度を取る。
いつも英国風のスーツを着こなしているが、背が低いせいで滑稽に見えた。さらに色白で髭が無く、公家っぽい顔立ちをしていたので、官邸でのあだ名は“今川義元”だった。
「すいません!トイレです!」
「早く出なさいよ!」
「はい!今出ます」
「大きい方なの!?どっちなの?」
勢いに任せて答えてしまいそうになったが、マイミはすんでのところで口をつぐんだ。
キャリア官僚の世界は、想像以上にブラックだ。
上の人間の言う事は絶対で、普通の会社だったらパワハラ、セクハラ認定される行為が横行している。
キャリア官僚は皆、難関大を突破していてプライドが高い。入省年次が上だというだけでやたらと威張り散らし、下の人間に嫌な思いをさせる。
そして嫌な思いをした下の人間は、次に入ってきた人間に威張り散らすという、悪循環。
慌ててトイレを飛び出したマイミは、オフィスの真ん中に置かれたオーバル・デスクにふんぞり返る牧村の姿を見た。
「すいません、お待たせして」
「ちよっとここに座りなさい」
牧村の口調に嫌な予感を覚えながら、マイミは向かいに座った。
「あんた、今年の一般会計予算が幾らか知ってる?」
「はっ?」
唐突な問いにマイミは口をあんぐりと開ける。
一般会計予算とは、国が今年度に支出する予算、つまり国家予算だ。
「九十六兆円ですよね……」
「そうよ。じゃあそのうち、あたしたち内閣官房に割り当てられる年間予算はどれくらいかしら」
「えーっと……」
予算を思い出すフリをしながら、マイミは次の展開を考えていた。内閣官房の暫定予算要求が十八億とんで二百六十五万二千円だったことは、はっきり記憶していた。
だが陰湿で神経質な牧村がこの質問をしているということは、議論の本質は他にある。それを考えながら会話をしなければならない。
だいたい、話の道筋は読めた。
「あの、牧村さん。もしかしてカンパニーから請求書が来たんですか?」
牧村の右眉がピクリと上がる
「勘が鋭いわね」
スーツからさっと取り出したのは、八桁の請求書だった。
「これは……」
マイミは合計金額に眼がクラクラするのを感じながら、十八項目におよぶ請求内容を上から順番にチェックしていった。
請求書はコンサルティング・フィーから始まり、事前調査費、道路使用許可取得費、車輌費、機材費と続く。それぞれが途方もない金額だが、身に覚えのある請求内容でもあった。
牧村が無慈悲な表情をマイミに向けた。
「この請求書を上に出すわけにはいかない。こんな馬鹿げた金額を支払う余地は無いもの。そもそもこの車輌費千五百万って何よ。官房の車輌維持費でさえ年間七十万なのに」
「あ……それはポルシェ・カイエン……」
「とにかく」
牧村は白くて短い指をマイミに突き付けた。
「こんなべらぼうな請求を引き受けるほど、日本の国家財政にゆとりはないのよ」
「で、では……踏み倒せと?」
「もし可能なら、そうしたいところだわ。だいたい、誰があんな得体の知れない連中を連れて来たんだか……」
「官房長官です。官房長官は警察官僚出身ですから、防衛庁と警察庁のOBで構成されているカンパニーとは仲がいいんです」
「そんなこと知ってるわよ!わかってて嫌味を言ってるの」
牧村のヒステリーに、マイミは首をすくめた。牧村はオーバル・デスクの中央に置かれた菓子入れから、むんずとばかりにカレー煎餅を掴み上げ、バリバリと食べ始める。
「どうせカンパニーの奴らも、官房長官の後ろ盾が無くなれば官邸に出入りできなくなるわ。現政権は足元グラグラだし、解散総選挙まで数か月この請求書を握りつぶしておくってのはどうよ」
言うと牧村はニヤリと笑った。それが本気なのか冗談なのか、微妙なところだとマイミは思った。ヤバい事、汚い事というのは、記録に残さない曖昧な指示で行われるものだからだ。
だが牧村の真意を確かめる前に、それは起きた。
「それは、まずいな」
男の声がして、オフィスの奥のドアが開く。
腰にバスタオルを巻き付けた、半裸のグレイが現れた。
「ぎゃっ!」
牧村は踏んづけられた猫のように絶叫した。
「こっちにも支払いがあるんでね。支払いを渋られては困る」
グレイは湯上りのようで、鍛え上げられた肉体から湯気を立ち昇らせていた。手にしたハンドタオルで長い髪の水分を拭き取りながら、ゆっくりとオーバル・デスクを回り込む。
むんむんと立ち上がる湯気、そして男のフェロモン。
牧村が後じさった。
「だがしかし、牧村さん。あなたのことだから何か対案があってここへ来たのでしょう?」
グレイが半裸のまま、グイグイと牧村に近づく。牧村はあ、やめてと小声で呟いていたが、やがて我に返ったのか強い声で言い放った。
「ちょっと!何でこの男がこのオフィスにいんのよ」
言うと、半裸のグレイとマイミを見比べる。
「も、もしかしてあんたたち……」
牧村は白くて短い指でグレイの左の乳首を指さし、続いてふるふると震えながら天井を指さした。このオフィスの三階には仮眠室があり、クイーンサイズのウォーターベッドが置いてある。
そしてまた、ふるふると震えながらマイミの方を指さす。
「……そうなの?」
「違います」
言うとマイミは菓子入れからカレー煎餅をつかみ取った。
「今朝の報告、読んでますか?あたしたちは真夜中にノヅチを始末したんです」
「読んだわよ。深夜の首都高速でカーチェイスをやらかした挙句、派手な交通事故を起こしてクリーチャーの破片を道路一杯にバラ撒いた。さすがに首都高側が激怒して、朝の四時に道路族のセンセイを叩き起こしたらしいわ」
マイミは口をつぐんだ。今のところ発砲の件は漏れていなさそうだった。
「引き起こした結果がどうあれ、俺は霧崎さんを守ってクリーチャーを始末した」
言いながら、グレイは半裸のままカレー煎餅に手を伸ばす。
「こちらとしては、明朗会計をモットーに、世界最高峰のサービスを低価格で提供しているんだ。それなのにいざ仕事が終わった後で支払いを渋られるというのは、大変不本意だな」
「な、何が明朗会計よ」
牧村は興奮した様子で言い返した。
「事前調査費のエビデンスとして添付した領収書の店名が、“CLUBダブル・オーッパイ・セブン”になってたわよ。こんな如何わしい店の支払い、通るわけないじゃない」
「残念だ。ミサキちゃんといい感じなんだが……」
「自分の金で行きなさいよ!」
牧村は興奮した様子で菓子入れを探る。カレー煎餅は無くなり、違う種類のお菓子を掴んだようだった。
「何よ、ソフトサラダしかないじゃない!」
怒りにまかせてバリバリと噛みしめはじめる。
「それじゃあ、牧村さん。結論から述べてもらおうか。ここへ来たのは、霧崎さんに何かをやらせようと企んでのことだろう?」
カレー味の指を舐めながら、グレイが言った。
ソフトサラダ味の指を眺めながら、牧村が見返してくる。
そして、ニヤリと笑った。
何かあるのだ。
そう思ったマイミは、背筋が寒くなるのを感じていた。
つづく