夜の首都高速、ポルシェ・カイエン
「ダッシュボードに赤い箱が入ってるんだ」
グレイは平然とした口調でそう言った。だが霧崎マイミの体はシートにぴったりと押し付けられていて、身動きできない。
窓の外には、高速で後方に過ぎ去っていく光の帯だけが目に入る。
ワープする直前に、人が見る光景ってこんな感じ?
マイミは思った。
グレイがさらにアクセルを踏み込む。ポルシェ・カイエンは加速し、夜の首都高を飛ばす車を次々に抜き去っていく。
日産GT-Rを軽やかに抜き去った時、この車は何キロで走ってるのか気になったが、スピードメーターを見るのは止めにした。
道路交通法が定める制限速度は確実にぶち破っている。国家公務員であるマイミにとっては不都合な真実であり、知らない方がいい。
「赤い箱を、取ってくれないか?」
グレイがもう一度言った。意味はわかるが、怖くて身動きできない。
ハンドルを握っているのはグレイで、自分は助手席に座っているだけなのは理解していた。だが、自分が指一本でも動かせばこの車はコントロールを失い、空に浮き上がってワープ航行に入ってしまうのではないかという恐れがあった。
「まいったな、そろそろレインボーブリッジだ」
マイミが身動きしないので、グレイは手を伸ばしてダッシュボードを探り始めた。
近くに寄ると、グレイはいい匂いがする。
視線だけを動かし、ハンドルを操作する謎めいた男を観察した。
年齢は三十歳くらいだろうか。鼻筋の通った整った顔立ちで、黒く美しい髪を後ろで束ねている。日本人のようにも見えるが、どこか国籍不明な容姿。
そして最も特徴的な、切れ長の鋭い目がフロントガラスの先を見つめている。
視線の先には、コンテナを引っ張った大型のトレーラー。
「……あれですか?」
突然、標的が見えたのでマイミは息を呑んだ。想像したのとは違ったが、だからといって恐怖が薄れるわけではない。
「そう、あれだよ」
グレイが答えるのと同時に、ダッシュボードが開いた。
中には確かに、赤い色をした箱が入っていた。
「国際手配のかかった窃盗団。盗んだ品は船に積んで、さっさとロシアに送り出してしまう」
「危険ですね」
「ああ、とても危険だ」
グレイはダッシュボードの中から掴み出した箱を膝に置くと、ハンドルを操作しながら中身を取り出そうとする。
今はあなたの行為の方が、よっぽど危険ですけど。
喉元までせり上がってきたセリフを、マイミは飲み下した。
「あ……しまった」
グレイがつぶやいた。箱から取り出した何かを指でつまんで眺めている。
「これは、森永ハイソフトミルクキャラメルじゃないか」
どうやらそれは、探していたものと違っていたようだ。グレイは包み紙を開いて、一粒を口に放り込んだ。
「……お探しの物と違いますか?」
「ああ、探してるのは四十五口径の銃弾だ。ホローポイント弾」
「その、ここは日本ですけど」
「そうだね、知ってる」
二人がよそ見をしていた、次の瞬間。
フロントガラスの直前まで接近する、アウディの車体。
グレイが急ハンドルを切った。
マイミの顔面がドアウインドウに叩き付けられる。
これはまずい。
確か自動車教習所で習ったと思う。交通死亡事故となる原因の第一位は、急ハンドルだったのではないか。
だがポルシェ・カイエンはスリップして防音壁に叩きつけられることなどなく、何とか持ちこたえた。
「まいったな」
グレイの言葉に、マイミは白眼を剥いた。
「今の臨死体験を『まいったな』ですませることに、あたしは驚愕してますけど」
「いや、違うよ。弾が無いことにまいってるんだ」
グレイは事もなげにそう言うと、今度は携帯電話を取り出して通話を始めた。
「……お願いですから、教習所で禁止されたことを全部試すのはやめてもらえませんか」
だがグレイはマイミの懇願を無視し、誰かと会話を続ける。
「……はい、今まさにレインボーブリッジを通過しています。レインボーブリッジを封鎖してもらえませんか?」
「グレイさん、それ無理なやつですよ。フジテレビでも封鎖できなかったんですから」
「なるほど、無理ですか。桜田門も市ヶ谷もそっぽを向いてると。なるほど、しょうがないですね」
二人を乗せたポルシェ・カイエンは、今や窃盗団のトレーラーの真後ろにピタリと着けていた。
「実力行使しかないのか……」
「すいません、弾が無いなら一旦、諦めませんか?」
「そうはいかない」
「いえ、何だったらあたしが弾を買ってきますよ。どこかで降ろしてもらえませんか?この辺りにドン・キ・ホーテがあったような……」
グレイが再び急ハンドルを切って、マイミはもう一度ドアウインドに顔面をぶつけた。
ガラスに、マイミの顔の形がくっきりと写る。汗と脂と、少しの涙。
マイミは歯を食いしばった。
なんで将来有望なキャリア官僚のあたしが、こんな目に。
「あの、すいません。わざとやってませんか?国家公務員の顔面偏差値を下げるつもりで……」
その後のセリフは、グレイが窓を開けたせいでかき消された。
窓を開けたのは、前を行くトレーラーに向けて発砲するためだ。
グレイが取り出したのは、鈍色のコルト・ガバメント・モデル。ハンド・キャノンと呼ばれる大口径の拳銃。
トレーラーのタイヤに狙いを定め、グレイが発砲する。
突然の轟音に、マイミは耳を塞いで絶叫した。
「弾は無いって言ったじゃないですか!?」
「予備が無いって意味だよ」
道路交通法違反の次は、銃刀法違反。だが罰則について考えている暇は無かった。
銃撃を受けたトレーラーが、ぐらりと揺れる。
右に、左に、蛇行をはじめた。
グレイが静かに口を開く。
「あのトレーラーは四十フィートコンテナをけん引していて、車長はおよそ十六メートルだ」
トレーラーの運転手は、何とか態勢を立て直そうとしていた。だが、一度ぐらつき始めた大型車の揺れを止めることは困難だった。
「レインボーブリッジの幅員は二十九メートル。さて、あのトレーラーが横転したとして、こちらの走行車線を塞いでしまうかどうか、計算してみないと……」
二枚目の長ゼリフを遮って、マイミは絶叫した。
「塞ぐに決まってるでしょうよ!」
グレイが床までブレーキを踏み込んだ。
前方で、虚ろなダンスを踊っていたトレーラーが、いよいよ横転する。
こちら側の走行車線は全て塞がれた。
ああ、神様。
最期の瞬間を前に、マイミは考えた。
三年履き倒したきったない毛玉だらけのレギンスを、官舎の窓の外に干したままなのです。朝までに部屋に帰れば、取り込めると信じていたから。
あんなみっともないレギンスを私が履いていることを、周囲に知られるわけにはいかない。
どうか、強風をお願いします。私が部屋に戻れないのなら、元寇の時にモンゴル軍を追い返したような、凄まじい風でレギンスを吹き飛ばしてください。
そこまで考えたところで、ぱっと視界が塞がれた。
激突音と、強い衝撃。
ポルシェ・カイエンに装備された六個のエアバッグが全て開いたのだ。
マイミは全身の骨がばらばらに砕けたと直感した。身長わずか百五十センチの痩せっぽっちなこの体が。
カンパニーの訓練と称して、築地警察署の柔道場に連れていかれた時の事を思い出す。マイミは交通事故実験に使うダミー人形のようにポンポンと投げられ、一週間ほど寝込んだ。
霧崎マイミの本領は頭脳であり、肉体ではない。
こんなシルベスタースタローンまがいのアクションを強要されるのは、非常に不本意だった。
誰かがマイミの手を掴んだ。
「早く、車の外に出るんだ」
グレイだった。
ピンピンしている。
どうやらあの二枚目の体は、アダマンチウム合金でできているに違いない。そしてマイミに思い出に浸る時間は与えてくれなさそうだ。
「奴が、出てきてしまった」
グレイの言葉を聞いたマイミは、ビクリとなった。慌ててひしゃげた車体から這いずり出る。ポルシェ・カイエンはトレーラーに激突してボンネットが潰れていたが、コクピット部分は無事だった。
「奴は、どこに」
車から這い出したマイミが言うと、グレイは無言でトレーラーのコンテナ後部を指差した。横転した拍子にコンテナの扉が開き、中に収容していた物が外へ出ようとしている。
マイミは息を呑んだ。
「……ちょっと、大きくないですか」
「思っていたよりも、大型だったな」
視線の先にあったのは、ゆっくりと蠕動しながらコンテナの外へと這いずり出す環形動物。直径は二メートルほどもあり、長さはどれほどあるのか想像もつかない。全身には太い針金のような毛が生えており、ヒクヒクと蠢いていた。
「あれが、ノヅチ?」
「そうだ。奈良県の吉野地方に生息すると伝承されていた、日本原産のクリーチャーだ。一説には口ばかりで徳の無い破戒僧が生まれ変わった化け物だとも言われる。眼も鼻も無く、口だけだから、とな」
「ずいぶん、動きが鈍いみたいですけど」
「何か薬物を投与して弱らせたんだろう。だが薬が切れて暴れ出せば厄介だ。奴は人を食う」
マイミはノヅチの方を振り返った。目も鼻もなく、どちらが前で後ろかも不明だが、確かに先端には鋭い牙のついた筒状の口があった。無数の牙は管状になっているノヅチの体内にもびっしりと並んでいて、獲物を生きたまま飲み込み、嚥下する過程でかみ殺すのだということが分かった。
「あいつにだけは食われたくないですね」
「同感だ。さっさと始末しないと」
言うとグレイはポルシェ・カイエンの後部座席から大型のガンケースを取り出した。
「すいません、それは何ですか?ビリヤードのキューか何かですか?」
「バーレットだ。五〇口径のアンチマテリアルライフル」
「それ、合法なんですか?」
「すまんが霧崎さん、緑の箱を探してもらえないか?座席の下にあると思うんだ」
言うと、グレイはガンケースから大口径のライフルを取り出した。銃身部に装着されたバイポッドを広げると、カイエンのボンネットに乗せて狙いを定める。
マイミは再び冷や汗が流れ出るのを感じていた。この男はどこまでも好きなように物事を進めるだろう。
幾らでも法律を破るに違いない。
彼が気にしているのは、銃と、銃弾と、獲物のことだけなのだから。
グレイはマイミの方を向くともう一度言った。
「緑の箱を探してくれないか?それなら奴を殺せると思うんだ」
「・・・・・・どうしても、殺しますか?」
「話し合いで決着がつくとでも?」
マイミは引きつった笑みを浮かべた。
その通りだ。
この事態を収拾するまで、あとどれくらい法律を破ることになるだろう。
そう考えたマイミは、背中にべっとりと汗を感じていた。
つづく