【掌編】落とした自分のお値段は?
仕事を辞めた。その足で知らない電車に乗り、終点駅まで来てしまった。
彼の顔に苦笑が浮かぶ。なんと型にはまった男だろう。無人改札を抜けながら、ポケットから出したジッポライターをかしゃりと鳴らした。
駅前の通りには、意外にも点々と店が並んでいた。頻繁ではないが、車も通る。これくらいが丁度いい。建物の少なさと人影の少なさが釣り合っている。
物寂しく調和した風景に溶け込むように、彼はあてもなく歩き出した。ジッポを握り、金属が擦れる音を繰り返し鳴らす。たばこは嫌いだ。
仕事は、彼に丁度いいはずだった。新卒採用で雇ってくれた小さな会社で、簡単な仕事をこなすだけ。職場の人たちはみんな優しく、何も問題はないはずだった。
入社して一年が経つかどうかのころ、ちょっとした問題に直面した。年に数回は起こるような、ちょっとした問題だ。しかし彼は対処できなかった。対処できないだけでなく、事態を悪化させてしまった。
大きくなった問題は先輩たちの協力によって解決している。誰も彼を責めなかった。優しい職場だった。
そして今日、彼は優しい職場を去った。上手くいかないのは自分に合ってないからだ。
人も車もない交差点に行き当たり、信号待ちをしていた。なかなか変わらないので、ふと近くの角に佇む店を覗いてみた。
通りに面した大きなショーウィンドウは、実に雑多なもので賑やかに飾られていた。古ぼけた椅子に、ちょこんと座る猫のぬいぐるみ。小机の上には懐中時計やブローチが並び、その脚には絵画が立てかけられている。すべてに値札が貼られているが、どれもかすれて読めなかった。
木製の扉には『営業中』とかかれた札がかかっている。扉を開けたとき、『営業中』にも値札が見えた。
店内は埃の匂いで満ちていた。それぞれ装飾の違う棚が並んでいて、人はいない。
足元に気を配りながら、彼は陳列された商品を眺めた。とにかく統一感がない。よく見ると、棚にすら値札が貼られていた。
ふと、棚に置かれたピンバッチに目が止まる。年季を感じる万年筆と消しゴムの間に、無造作にそれは置かれていた。
バイオリンを象った金属プレートに尖った針がついており、留め具はない。表にも裏にも値札が見当たらなかった。彼はそれを手に取り、店の奥に進んだ。
値札が何枚も貼られたレジスターの横に呼び鈴を見つけ、軽く叩いてみる。錆びついた音が静かな店内に響いた。
少しして、奥から小柄の老人が現れた。
「すみません、これを買いたいんですが」
「なら、支払いだね」 掠れた声だった。
「あの、お値段はいくらですか?」
「値段? ああ、あんたが決めないと」
「え? いや、教えてくださいよ。払いますから」
しかし老人に答える様子はなく、ただゆらゆら立つばかりだった。
彼はふんと鼻を鳴らし、鞄から封筒を取り出す。有志が渡してくれた退職金だった。
しかし老人は駄目だと言う。
「そんなに高いんですか? ただのピンバッジでしょう?」
老人の目が初めて彼に向いた。
「ならどうして、ただのそれが欲しい?」
問われた彼は、手元に置いたそれを見た。バイオリンのピンバッジ。苦い思い出。
昔、彼は学校一の秀才だった。勉学こそが彼の強みであり、相棒とも言える筆箱を肌見放さず持ち歩いていた。バイオリンのピンバッジが付いた筆箱だった。
隣のクラスの女子から渡された、ちょっとしたお土産だ。それが海外旅行のお土産だと知っているのは、彼だけだった。
期末テストの当日、筆箱にピンバッジがなかった。開始ぎりぎりまで探してみるが、どこにも見当たらない。
ピンバッジはついに見つからず、彼の順位は二桁だった。
それからは何をやっても上手くいかなかった。余裕と見込んだことに失敗し、目標を変えては失敗し続けた。乗り越える努力なんてしない。才能に合ってないだけだ。もし努力して、それでも失敗したらどうする? あの日のように。そう考えた。努力は怖い。
本当は気づいていた。些細な挫折を見栄で隠して、治さず今まで生きてきた。見栄さえなければ治せる気がしても、見栄の捨て方が分からなかった。
ポケットからジッポを取り出す。父を真似て買ったそれを、老人の手元に置いた。
手に取った老人はかしゃりと一度鳴らし、奥へと消えていった。




