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短編・掌編集

【掌編】落とした自分のお値段は?

作者: 波白雲
掲載日:2026/10/11

 仕事を辞めた。その足で知らない電車に乗り、終点駅まで来てしまった。


 彼の顔に苦笑が浮かぶ。なんと型にはまった男だろう。無人改札を抜けながら、ポケットから出したジッポライターをかしゃりと鳴らした。


 駅前の通りには、意外にも点々と店が並んでいた。頻繁ではないが、車も通る。これくらいが丁度いい。建物の少なさと人影の少なさが釣り合っている。


 物寂しく調和した風景に溶け込むように、彼はあてもなく歩き出した。ジッポを握り、金属が擦れる音を繰り返し鳴らす。たばこは嫌いだ。


 仕事は、彼に丁度いいはずだった。新卒採用で雇ってくれた小さな会社で、簡単な仕事をこなすだけ。職場の人たちはみんな優しく、何も問題はないはずだった。


 入社して一年が経つかどうかのころ、ちょっとした問題に直面した。年に数回は起こるような、ちょっとした問題だ。しかし彼は対処できなかった。対処できないだけでなく、事態を悪化させてしまった。


 大きくなった問題は先輩たちの協力によって解決している。誰も彼を責めなかった。優しい職場だった。


 そして今日、彼は優しい職場を去った。上手くいかないのは自分に合ってないからだ。


 人も車もない交差点に行き当たり、信号待ちをしていた。なかなか変わらないので、ふと近くの角に佇む店を覗いてみた。


 通りに面した大きなショーウィンドウは、実に雑多なもので賑やかに飾られていた。古ぼけた椅子に、ちょこんと座る猫のぬいぐるみ。小机の上には懐中時計やブローチが並び、その脚には絵画が立てかけられている。すべてに値札が貼られているが、どれもかすれて読めなかった。


 木製の扉には『営業中』とかかれた札がかかっている。扉を開けたとき、『営業中』にも値札が見えた。


 店内は埃の匂いで満ちていた。それぞれ装飾の違う棚が並んでいて、人はいない。


 足元に気を配りながら、彼は陳列された商品を眺めた。とにかく統一感がない。よく見ると、棚にすら値札が貼られていた。


 ふと、棚に置かれたピンバッチに目が止まる。年季を感じる万年筆と消しゴムの間に、無造作にそれは置かれていた。


 バイオリンを象った金属プレートに尖った針がついており、留め具はない。表にも裏にも値札が見当たらなかった。彼はそれを手に取り、店の奥に進んだ。


 値札が何枚も貼られたレジスターの横に呼び鈴を見つけ、軽く叩いてみる。錆びついた音が静かな店内に響いた。


 少しして、奥から小柄の老人が現れた。


「すみません、これを買いたいんですが」

「なら、支払いだね」 掠れた声だった。


「あの、お値段はいくらですか?」

「値段? ああ、あんたが決めないと」

「え? いや、教えてくださいよ。払いますから」


 しかし老人に答える様子はなく、ただゆらゆら立つばかりだった。


 彼はふんと鼻を鳴らし、鞄から封筒を取り出す。有志が渡してくれた退職金だった。


 しかし老人は駄目だと言う。


「そんなに高いんですか? ただのピンバッジでしょう?」


 老人の目が初めて彼に向いた。


「ならどうして、ただのそれが欲しい?」


 問われた彼は、手元に置いたそれを見た。バイオリンのピンバッジ。苦い思い出。


 昔、彼は学校一の秀才だった。勉学こそが彼の強みであり、相棒とも言える筆箱を肌見放さず持ち歩いていた。バイオリンのピンバッジが付いた筆箱だった。


 隣のクラスの女子から渡された、ちょっとしたお土産だ。それが海外旅行のお土産だと知っているのは、彼だけだった。


 期末テストの当日、筆箱にピンバッジがなかった。開始ぎりぎりまで探してみるが、どこにも見当たらない。


 ピンバッジはついに見つからず、彼の順位は二桁だった。


 それからは何をやっても上手くいかなかった。余裕と見込んだことに失敗し、目標を変えては失敗し続けた。乗り越える努力なんてしない。才能に合ってないだけだ。もし努力して、それでも失敗したらどうする? あの日のように。そう考えた。努力は怖い。


 本当は気づいていた。些細な挫折を見栄で隠して、治さず今まで生きてきた。見栄さえなければ治せる気がしても、見栄の捨て方が分からなかった。


 ポケットからジッポを取り出す。父を真似て買ったそれを、老人の手元に置いた。


 手に取った老人はかしゃりと一度鳴らし、奥へと消えていった。

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