第25話 【外部視点】あの娘は、まだ踊っている
王都イグニスタを包む闇が、二度目の夜を迎えようとしていた。
戦闘開始から、三十六時間が経過していた。
王城の城壁の上には、何千もの市民や避難民、そして傷を負った騎士たちが詰めかけ、息を呑んで中央広場を見つめ続けていた。
誰一人として、その場から立ち去ろうとする者はいなかった。
食事を摂ることも忘れ、眠りに就くことも忘れ、王都中の人々がただ一つの「光景」に釘付けになっていたのだ。
「……まだ、踊っておられる」
老宮廷魔導士バルツァーが、震える声で呟いた。
城壁の手すりを握るその指先は、戦慄と敬畏で白くなっている。
眼下の広場。
黒煙と紫黒の瘴気が渦巻く死の舞台で、夜色のドレスを纏った令嬢――エルセリア・ヴァン・ノクティスは、昨日と何一つ変わらぬ優雅さで扇を翻し続けていた。
三十六時間。
丸一日半の間、一睡もせず、一歩も乱れず、一秒の遅れすらなく。
遠目に見ても、大盾を構えるガルドの屈強な両肩が筋肉の限界で小刻みに震え、ミリアの蒼白い頬を大粒の汗が伝っているのが判る。それでも二人はただの一歩も崩れることなく、夜色の令嬢が冷徹に刻む秒針の拍に魂を同調させていた。
チ、チ、チ。
広場から風に乗って届く、規則正しい三拍子。
山のような巨獣がどれほど大地を叩き割ろうと、毒の嵐を巻き起こそうと、三人は一度たりともその円運動の軌道を乱されることはなかった。
「……恐ろしい」
第一近衛騎士団長が、兜を脱ぎ捨てて呆然と呟いた。
「敵を一撃で消し去る大魔法や、奇跡を呼ぶ聖光の輝きなどよりも……あの、一秒たりとも狂わぬ時計の針のように命を削り続ける令嬢の方が……遥かに、圧倒的に恐ろしい」
それは、広場を見守るすべての者たちの共通の思いだった。
大声で派手な必殺技を叫ぶ勇者などではない。
微笑みすら浮かべず、ただ淡々と、機械のように正確に、八百年分の厄災の命を削り落としていく「真実の裁定者」。
「見ろ……魔力計器の針が、半分を割り込んだぞ……!」
若い魔導士が悲鳴のような歓声を上げた。
――経過時間:三十六時間。
――累計損耗:千六百四十五万九千二百。
――残存生命量:千六百五十四万八百。
三千三百万あった怪物の生命力が、文字通り半分まで削り落とされていた。
ヴォルグレイドの漆黒の外殻は、幾重にも走る黄金の亀裂によって砕けかけ、背中の無数の触手も半ばが黒い灰となって崩れ落ちている。
「神様……どうかあのお嬢様をお守りください……!」
瓦礫の下から助け出された若い母親が、幼い娘を抱きしめながら涙を流して石畳に膝をついた。
かつて「撃破数ゼロの無能」と蔑まれ、夜会から追放された令嬢の背中に向けて、いまや数万の王都市民たちが手を合わせ、真摯な祈りを捧げていた。
近衛騎士たちが一斉に胸に拳を当て、誰からともなく最敬礼を捧げる。
だが――その時だった。
ドクンッ……!
王都の大地全体を揺るがすような、不気味な重低音が響き渡った。
外殻の第二層が削り落とされ、防護を失った核が、生存本能から体内に溜め込んだ八百年分の圧縮魔力を限界突破させて暴走を始めたのだ。
「……何だ?」
ガルドが大盾を構え直して身構える。
ヴォルグレイドの全身の亀裂から、黒紫の光が間欠泉のように噴き上がり始めた。
残された触手が一斉に天へと鎌首をもたげ、周囲の魔力を狂ったように吸い上げ始める。
「ガルド様、ミリア様、下がって……!」
エルの鋭い声が飛んだ。
ヴォルグレイドの無数の赤い眼が、白熱するような白銀の閃光を放ち始める。
これまでガルドに固定されていた敵意の糸が、プツンと音を立てて白紙へと戻った。
――敵意の強制リセット。
――全方位壊滅攻撃:《浄化の咆哮(厄災の劫火)》の詠唱開始。
「グオォォォォォォォッ!!」
怪物の胸郭が真っ赤に焼け爛れ、王都全体を灰燼に帰すほどの極大の熱量が、その口元へと集束していく。
王都が捧げてきた「偽りの聖光」を逆流させた、皮肉極まる消滅の光。
城壁の上のバルツァーが、顔から血の気を引かせて叫んだ。
「いかん……! あれは、蓄積した全魔力を一斉に解き放つ自爆的な全方位消滅波じゃ! 逃げろ……王都全域が焼き尽くされるぞぉぉっ!」
絶望の光が、再び王都を呑み込もうとしていた。
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