第1話 婚約破棄は、夜会の光の下で
王城の大広間は、光で満ちていた。
水晶のシャンデリアが三百の燭光を落とし、聖光の術式が大理石の床に金の紋様を描く。
炎と雷の余興が天井近くで花開き、拍手が起きる。
三百年前の大戦以来、このアルディア王国では華やかな魔力こそが夜会の礼儀だった。
私は、その円舞の輪のいちばん外側に立っていた。
夜色の黒髪をまとめ、扇と銀の懐中時計だけを手にして。
蓋を一度だけ開く。銀の針は、正確に午後九時を指していた。
「エルセリア・ヴァン・ノクティス!」
第二王子アルヴィス殿下の声が、音楽を止めた。
広間の中央。金の髪を怒りに逆立てた殿下が、私へと指を突きつけている。
その隣には、純白のドレスを纏った令嬢が寄り添っていた。
リーゼロッテ・シュタール。聖光魔法の名門の娘であり、学園中が「聖女の再来」と讃えるお方だ。
「貴様との婚約を、この場で破棄する!」
ざわ、と広間が揺れた。
扇を止める音、息を呑む音、それから――隠そうともしない嘲笑。
「理由は明白だ。卒業実技試験の結果は学園中が知っている。撃破数、ゼロ! 決着までの時間、計測不能! 攻撃魔法の瞬間火力、測定値ゼロ! 火力なき魔導士など穀潰しも同然だ。そのような無能を、次代の王家に迎えられるものか!」
――ゼロですって。まあ。
――ノクティス伯爵家も落ちたものね。弱体だの呪詛だの、陰気で辛気くさい術ばかり。
――今の時代、魔導士の価値は一撃で魔獣を薙ぎ払う殲滅力で決まりますのに。
嘲笑は、いつものこと。
この国では、「一撃で敵陣を薙ぎ払う火力」だけが魔術の価値とされてきた。
じわじわと効く毒も、消えない呪いも、化け物の異常な再生を止める術も、すべて「決め手に欠ける補助」と切り捨てられる。
王立学園の実技試験ですら、巨大な的を一撃でどれだけ派手に粉砕したかを競う欄しかない。
三日かけて確実に相手を仕留める術のための欄は、採点表のどこにもないのだ。
たとえ試験用魔獣が暴走しかけ、その制御術式を誰かが裏で解体して大事故を防いでいたとしても――表に出る記録には一行も載らないように。
「殿下、わたくし……」
リーゼロッテ様が、聖光のように澄んだ声で殿下の腕に手を添えた。
慈愛に満ちた瞳を潤ませ、殊勝に首を振る。
「エルセリア様を、あまり責めないでさしあげて。あの方なりに頑張っていらっしゃいましたのよ。……ただ、結果が出ませんでしたけれど」
まあ、本当にお上手。
庇うふりをして、頭を優しく撫でる手つきのまま踏みつける。
伏せられた長い睫毛の奥、私にだけ向けられた微かな嘲りの光。慈愛の仮面の下で、獲物を仕留めた愉悦が確かに歪んでいた。
この方は昔から、観客の視線を味方につけて相手を陥れる一手にかけては天才的でいらした。
私は視線だけを彼女へ向ける。
――視える。
リーゼロッテ様の胸の奥、黒い澱が幾層にも沈んでいるのが。
他人から奪った手柄の数だけ、裏で陥れた相手の数だけ、澱は静かに積み上がっている。夜会の光の下でも、それは決して隠せない。
ノクティス家の直系にのみ発現する秘術――《罪量刻印》。
人が積み上げた罪の重さが、私には量りにかけたように視えてしまう。
視えるだけ。裁くことは、許されていない。
だから今日まで、微笑んで黙ってきた。
ちなみに、殿下の胸にも澱は視えている。
ただし、リーゼロッテ様ほど深くはない。あちらが底の見えない井戸なら、殿下のは足首も浸からない浅い水たまり。
ご自分で悪事を組み立てる頭もなく、隣で微笑む方の描いた筋書きを、ただ大声で気持ちよく読み上げているだけ。
――殿下。あなたはまだ、引き返せる側にいらしたのに。
「ノクティス伯! 貴公も異存あるまいな!」
殿下の声に、壁際に控えていた私の父――グレアム・ヴァン・ノクティス伯爵が一歩前に出た。
そして、一拍のためらいもなく深く頭を下げた。
「……殿下の、御心のままに」
庇いの言葉は、ただの一言もなかった。
予想通りでしたわ。父はずっと前から、家に伝わる古い術を恥じている。時代遅れの、日陰の術だと。
さて。
反論は、いたしません。
卒業試験の記録がどう書き替えられたのか、誰の功績がどこへ移されたのか――申し上げたところで、この広間の誰が信じるでしょう。
記録はすでに「そういうこと」になっているのですから。
それに。
天秤は、もう傾いております。
私はドレスの裾をつまみ、教本どおりの完璧なカーテシーを披露した。
「かしこまりました。婚約の破棄、謹んでお受けいたしますわ」
「……ずいぶんと、あっさり受け入れるのだな。泣いて縋る気力すら湧かんか」
拍子抜けした顔の殿下に、私は扇を静かに広げて微笑んだ。
「ええ。殿方に無様に縋り付くのは好みませんの。――ですが殿下、ひとつだけ」
「なんだ」
扇の陰で、ほんの少しだけ笑みを深める。
「さあ、私とワルツを踊りましょう――と申し上げたいところですけれど」
「……は?」
「まだ前奏ですの。拍は、もう刻まれ始めておりますわ」
「何の話だ」
「いずれ、お分かりになります。『拍を乱すな。罪は必ず、利子をつけて戻る』――我がノクティス家の家訓ですの」
殿下は苛立たしげに眉を寄せた。
しかしその隣で、リーゼロッテ様だけが微笑みの角度を寸分も崩さぬまま、扇を握る指先をわずかに強張らせた。
ああ、この方は本当に勘がよろしい。
私は背を向け、大広間を歩き出す。
数百の嘲笑を背に受けながら、靴音で正確に拍を刻んで。
一歩、二歩、三歩。――ワルツと同じ、三拍子で。
後に、王都の誰もが思い知ることになる。
火力ゼロと嗤われた令嬢の「消えない毒」こそが、この国に残された、ただ一つの切り札だったことを。
そして私が次にこの広間へ足を踏み入れる日――床に膝をつき、頭を垂れるのは彼らの方だということを。
翌朝、実家から一通の書状が届いた。
冷たい銀の盆に載せられた紙に、記されていた用件はたったの二文字。
――除籍。
私は静かに書状を置き、机の上の銀の懐中時計を手に取った。
蓋を開けば、秒針が規則正しく、冷徹に拍を刻んでいる。
まるで、誰かの破滅までの残り時間を測るように。
「ええ」
誰に聞かせるでもなく、私は小さく微笑んだ。
「ここからですわ」




