【生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ。そのひとこと、ほかのいくつかと一緒に 書き留めておかなくちゃ。】 3
昔から、朝に起きるのが苦手だった。睡眠障害だなんだと医師はどんな症状にも名前を付けたがったが、アオイは、単に自分は夜が好きなだけだと思っていた。それか夜に眠り朝に起き、昼に行動するというルーティンが壊滅的に性に合わないだけなのだと。もっとも、それを医学の世界では睡眠障害というのかも知れない。
高校は母の勧めもあり二部制に通った。授業が遅く始まり学校にいる時間が短い代わりに、卒業には四年かかるという制度だったが、高校生活が一年増えると考えれば文句はなかった。大学にも、イブニングコースがある学部に進学した。朝から始まる講義になんてとても間に合わないし、起きていられないと分かっていたから。
イブニングコースといっても、朝の講義が取れないだけで講師も講義室も代わらない。志願者が少ないので入学が楽になる良い制度だと思った。
本を読むのが好きなアオイにとって、永遠と読書感想文を書くだけのような大学生活は理想的だった。時に哲学し、政治学を学び、また本を読む。それだけで、単位は勝手に認定されていった。単位を落としている学生たちは、そもそも大学に来るべきではなかったような奴らだと思っている。それが学費を稼ぐためにバイトに追われていてだとかで、仕方がなかったと言い訳するような奴らでもだ。学費にも困るような経済状況で、大学の門を叩くこと自体間違っている。勉強がしたいのなら、就職し学費を貯めてから来ればいい。就職予備校として利用するか、キャンパスライフを楽しみたいというのなら、さっさと自殺でもして人生をリトライした方がいい。それか、責任を将来の自分に投げるように借金でもすればいい。
親ガチャに外れた子供が望むには、学費は高すぎる。大学は贅沢品なのだ。
アオイは全てを持っていた。苦労という言葉を知ってはいても、体験したことがなかった。両親に恵まれ、兄妹に恵まれ、親戚に恵まれた。欲しいものも環境も与えられた。買って貰えなかったものを思い出すことに苦労した。
いくら留年しても構わないと、何のストレスもなく大学に通い、好きな勉強だけをして、労働に準じることなく金の掛かる趣味に没頭し、休日は天使と逢瀬を交わした。
自分が幸福の中にいることを自覚し、感謝し、楽しんだ。それが義務であることのようにさえ思えた。世界で最も幸せな人間は誰かと訊かれれば、少しだけ迷ってから自分と答えられるほどに。
「ねえ、アオイって幸せ?」
自分を胸に抱いている、同じゼミの女の子がそう尋ねた。
カーテンを閉め切りあえて薄暗くされた、狭い部屋のベッド。ここで眠ったことがあっただろうか。なかったような気がする。
アオイを抱く彼女には男性経験がなかったが、性行為には誘わなかった。キスをしたときに「ここから先をするなら、ちゃんと告白して」と迫られ、恋人を作る気がないと言ったら殴られた。手のひらではたかれるのではなく、みぞおちを拳で殴られた。肺の中の空気を全て吐き出してしまうほどの鈍痛に苦しみながらも、アオイは彼女を気に入った。
「いや……幸せじゃない」
不幸とは言い切れない。そう口にするには、自分は恵まれすぎている。
「キョウカちゃんは……幸せ?」
聞き返す。ついでに控えめで丁度いいサイズの胸を舌で突いたら、軽く耳をつねられた。彼女の腕の中にいるときは、抱き枕に徹しなくてはならない。
「うぅーん……微妙。今はまあ、そこそこ幸せ?」
青いメッシュの入ったブロンド髪を撫でながら、キョウカは疑問符を付けて言った。この状況自体に疑問を持っているみたいに。
ピュアホワイトのランジェリー姿の彼女は、ベッドでアオイを抱きしめている。アオイはキョウカの家に置いていっている、ペイズリー柄の紫のパジャマを着ていた。ここは彼女の実家のマンションで、母子家庭とはいえ、たまに玄関などで親と遭遇するのが嫌だった。すると決まってキョウカは、「じゃあ私に告白すれば?」なんて意地の悪い笑みで提案した。
キョウカは、そこそこアオイが好きだ。恋愛感情が初めてで戸惑う様、というよりはそれが何なのか確認するように何度かデートをした。彼女はお金がなかったので、多くを家で過ごし、外ではアオイがデートの代金を払った。キョウカは奢られることを嫌がったが、彼女と一緒に遊べるのならデート代くらい払ってもいいと思えるくらい、アオイは彼女の言動を気に入っていた。
しかし最も気に入っているのは、その体付きだ。彼女の細く、栄養失調を疑われるような貧相な身体は天使に似ていたから。抱きしめると心が安らぎ、なだらかな胸やくびれを撫でると懐かしい興奮を味わえた。
けれど残酷なことながら、顔は似ていない。キョウカは丸顔のボブヘアで、丸みを帯びた目はくっきりした二重で瞳孔は赤茶色だった。頬は微かにこけていて、髪型をそれを隠すようにも見える。文句を言えば背丈も脚の長さも足りなかった。しかしこうして胸に顔を埋めれば、顔を見なくて済むし、身体の細部もそれほど気にならない。
「ん」
喉を震わせただけのようなくぐもった声が聞こえる。それは合図で、アオイは顔を上げて唇を触れさせるだけのキスをする。
一回も二回も変わらないからと、キョウカはキスに抵抗しなかったし、求められることすらあった。ただそれよりも、キョウカはベッドで抱き合うことを好んだ。アオイは好きな人と言うよりは、お気に入りの抱き枕のような扱いを受けている。
殴られた後、このまま二度と関わらないのは惜しいと双方が考え、二人は契約を交わした。アオイは彼女の指示以外は何もしない抱き枕になり、キョウカは寝るときにアオイが持ってきたランジェリーを着るという約束だ。キョウカと抱き合っても性的に興奮しにくかったが、それでも射精欲が浮かび上がってきた時は口で処理してもらった。
困ったことに、アオイは自慰行為が出来なかった。昔から、自分のものに直接触れるのが嫌だったのだ。潜在的に汚いモノと考えているのかも知れない。そんな話を高校時代の何人目かの恋人にしたら、「自分で触れもしないものを彼女にしゃぶらせるな」と怒られたことがあった。まったくその通りだと思った。
「……アオイがソフレのままだったら、不幸になるかもね」
とても唐突に、キョウカが呟いた。幸せどうこうの話しは終わったのだと感じた頃を見計らったように。
自分たちの関係には添い寝フレンドなんて呼び名を付けているけれど、それに満足しているのは片方だけだ。キョウカが髪を撫でる手に力がこもるのを感じる。
「人生にはさ……結局のところ、恋愛しかないから」
点字をなぞるように言ってから、「ゴーチエいわく」、とキョウカは付け加えた。アオイも、「ゴーチエ曰く」と復唱する。それはキョウカの口癖のようなものだった。もはや彼女の言葉のようにさえ感じる。
その言葉を聞く度に、彼女は自分にではなく、恋愛という概念に恋をしているのだと思った。ファーストキスの相手と結ばれるような、運命的で情熱的な恋物語に。その物語を自分に与えてくれる存在なら、相手がアオイでなくとも、例え同性だとしても構わないと思っている節がある。ゴーチエの書いた理想的な恋愛小説のように。
キョウカは淡泊なようで、とても夢見がちな少女だから。バイブルはゴーチエのモーパン嬢というくらいで、部屋の本棚に教科書以外で収められているのは、ロミオとジュリエットと、そのモーパン嬢だけだ。きっとキョウカはヒロインになりたくて、アオイからロミオのような台詞が出てくるのを待っているのだ。彼女にとって、初めてのキスは重すぎた。
言葉を考える。「僕が君の姿をしていたのなら、ナルキッソスの死を遂げてしまう。叶うのなら、僕の瞳に君を住まわせて。絡めた指に唇を落とすから」なんて、シェイクスピアっぽい台詞を作ってみれば、キョウカなら喜びそうだと思った。けれど彼女の幸福は、アオイの幸福ではなかった。
「不幸になったら、どうする……」
アオイは尋ねた。21歳のジュリエットに。その返答の方が、とても在り来りな、彼女の羞恥に染まる顔を見るよりも興味があったから。
その時のことをリアリスティックに想像しているのか、キョウカはしばらく考え込むように沈黙を続けてから、「刺しちゃうかもね」と呟く。それは嬉しい言葉だった。
「……やってみてよ。刺されてみたかったんだ」
本心だ。冗談なんかではなかった。死にたくはなかったが、女の子に刺されてみたくはあった。刺されそうだなんてよく知り合いには言われるけれど、残念なことに、まだアオイを刺してくれる女の子は現れていない。
「アオイが私のことを欲しくなって、恋人になったらね……ブルートゥスって呼ぶの」
独り言のように、キョウカが呟いた。実際に独り言だったのかも知れない。
「カエサルでも殺させるのかな」
けれどアオイは呼び名の意味が気になって、独り言を会話に変えてしまった。
「違う。本当はロミオだとか、ダルベールがいい」
「じゃあ、なんでブルートゥス?」
「アオイって、ロミオじゃないでしょ。外見的にも、内面的にも」
言われて、ディカプリオの顔を思い出した。もしかしたらアナキン・スカイウォーカーだったかも知れない男の顔を。ロミオと言われてアオイが思い浮かべたのは彼だったが、確かに似ていない。共通点など、金髪であることくらいだろうか。
「そうだね。ロミオって見た目じゃない」
「だから、ブルートゥス。Blueとかけてね。それに、冥王星みたいに寂しそうだから。あとは、愛の詩とかを口ずさむときに、そっちの方が都合がいい」
何故、冥王星なのだろうかと、アオイは思う。彼女はヴァニーシア・バーニーの話を知らないのかも知れない。けれど英米文学科の彼女が、二つの単語の意味を勘違いしているようには思えない。だからきっと、そこには意味があるのだろう。プルートーと、ブルートゥス。確かに似ているような気もするが、そこに共通点を見いだすことが出来ない。
冥王星は、唯一惑星から外された孤独な準惑星で、プルートーは、ギリシャ・ローマ神話の冥界の神。姿を隠すことが出来る権能を持っている。
ブルートゥスは、カエサルを殺した古代ローマの執政官。シェイクスピアは彼をジュリアス・シーザーの主人公にした。ダンテの神曲では、地獄でサタンに咥えられているユダに続く裏切りの象徴。しかし帝政ローマでは、自由の象徴ともされていた。
姿隠しと裏切りではない気がする。孤独と自由、そこになら微かな繋がりを見いだせた。独りぼっちの自由なんて、欲しいとは思わないけれど。
そこまで考えると、やはり語感のような気もしてくる。冥王星がもしゼウスだとか、パーシヴァルやコンスタンスという名前になっていたら、彼女はブルートゥスの話に冥王星を出すことはなかっただろうから。
「それで、オレは君をなんて呼べばいいんだろう」
ブルートゥスとプルートーの話は訊かない。それは後で訊こうと思った。雰囲気と会話の流れからして、この質問の方が適切だ。
その質問を待っていたと言わんばかりに、キョウカは恥じらうように言葉を溜めてから、呼ばれたい名前を口にする。
「……ジュリエット」
やはり、彼女は21歳のジュリエットだった。14歳の頃に悲劇的な恋が出来ずに、毒を飲み損ねたのだろう。しかしディカプリオを否定された身としては、君はクレア・デインズなのかと文句を言いたくもなる。
「オレはロミオじゃないのに?」
だからそうやって、皮肉っぽいニュアンスで言ってみる。するとキョウカも言われた意図は理解しているのか、二度ほど首を横にふる。
「うんう。それは理想。私も、ジュリエットって感じじゃないから。だから、私に恋してくれる事があったら、その時はアオイが決めて。私の呼び名」
そんな日は永遠に来ないよ。前歯の後ろくらいまで出かかってから、その言葉を噛み砕く。
やはり、彼女は恋そのものに恋をしている。あのみぞおちへの拳は、妄想通りに現実が進まなかった事への怒りが混じっていたのだと、今なら分かる。
思い返せば過去にも、似たような少女がいた。アニメなんかが好きで、低く抑えた声でキザな言葉を使うと喜んだ。彼女もまた、絵空事のような恋愛を好んでいた。自分はそういった、夢見がちな女の子がタイプなのかも知れない。
しかし、彼女とはどうやって別れたのだったか。恋人であった期間がとても短かったから、その強烈なキャラクター意外はよく覚えていない。キョウカとは、どうなるのだろうか。こんな関係が長く続くとは思えないが、自分は彼女のことをどれほど覚えていられるのだろうか。
「今週から夏休みだけど。アオイ、どうするの?」
話題が変わる。デート中なんかは二人して言葉数が少ないのに、抱き枕にされている時はこうして、ピロートークのような会話が永遠と続く。互いに厄介なコミュ力だった。
「さあ……どうするんだろう」
自分でも、よく分かっていない。したことはたくさんあるのに、そのどれも、今の自分には出来そうにないから。
大学生の夏休みは長い。たっぷりと二ヶ月はある。サークルにもあまり積極的ではないアオイには、エマの生存確認くらいしかやることがない。それでも読書だったり、ギターを弾いたり、映画を見たり、ゲームをしたりと、暇つぶしの趣味はとても多く持っていた。家から出なくとも困らないくらいには。また、どうせアウトドアな父親がどこかに連れて行ってくれるだろうという期待もあった。数少ない友人の一人も、外に出る理由をくれるだろう。
「行きたいお店、あるんだけど」
彼女もまた、外出の理由をくれるらしい。
「いいよ。どこ?」
「お城みたいなところ」
「ラブホテル?」
耳を折りたたむように抓られる。どうやら違うようだった。
「ドレスみたいな服が着れるレストラン。写真も撮れるんだって」
「へぇ」
いかにもキョウカが好きそうだ。
「夏休みさ、短期バイトやるから、それが終わったら一緒に行って。アオイはナイト役ね」
「はいはい。お姫様」
断る理由も見当たらない。それに、女の子をエスコートするのは好きだった。手を繋ぐだけで恥ずかしがってくれるような子なら特に。
「報酬とか、必要?」
キョウカが尋ねた。声音からは遠慮がちなニュアンスが伝わってくる。自分たちの関係を考えて、そんな提案をしたのだろう。彼女が持っているもので、自分が欲しいものは思い浮かばない。けれど何かをくれるなら、珍しいレッドブラウンの瞳がいい。
「うーん……ウインクとか、欲しいな」
「そんなのでいいの?」
「じゃあ、処女」
「殴るよ」
今度は耳を抓られない。頭を小突かれるくらいはされると思っていたが、予想とは裏腹に、ブリーチに痛んだ金髪を労るように撫でられる。
「何だかんだ言って、無理矢理したりしないよね。アオイって」
「そりゃあ、犯罪だから」
「変なところで真人間」
「育ちが良いからね」
自分で言うことじゃないと、キョウカは身を竦ませながらクスクスと笑う。アオイは彼女が笑う度に微かに動く、浮き出た鎖骨を見ていた。撫でたくなるが、自分は抱き枕でなくてはならない。今の雰囲気では、何かの弾みで全てが受け入れられそうで怖かった。
「練習しておくね。ウインク」
その日を待ち遠しく思っているように、キョウカが言う。
とても、厄介な女の子のキスを奪ってしまったと思う。あの子と同じで、気に入ってしまったから。罪悪感なんて感じてしまうのだろうか。
――――良いリアクションだ。




