【生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ。そのひとこと、ほかのいくつかと一緒に 書き留めておかなくちゃ。】 2
頭痛がする。聴覚野が無為な情報に悲鳴を上げているようだった。馬鹿と喋っているといつもそうだ。特に自覚のない馬鹿との会話が苦痛だ。阿呆はいい。そこには可愛げがある。エマなんかはそれが顕著だった。
「それでさ、その子ってば彼氏の自慢ばっかりで、インスタも匂わせが酷くて」
「へぇ」
「ねえ、もっと楽しそうにしてよ」
眼前の女性が不満げに言った。よく手入れされたロングヘアの似合う美人ではあるのに、その口だけが不満な女だった。形ではなく、意味もなく詰まらない言葉を生産する口だからだ。しかしこのカフェは彼女の奢りで、池袋までの往復の電車賃まで貰っている。詰まらなそうに頬杖を付いているアオイに、彼女が不満を持っても仕方がないだろう。
「君、人の悪口聞いて楽しかったことある?」
そう言うと、彼女は更に表情を険しくした。
「私と喋りに来たんじゃないの?」
「なら、君のことを話して。その方が、君の友人の話より興味があるな」
彼女はあからさまに機嫌をよくした。アオイも嘘は言ってない。どんな人間のものでも、人生観や記憶に残っているようなエピソードを聴くのは面白いものだった。ただ、彼女自身には興味が持てない。
彼女の高校生の頃に入っていた陸上部の話なんかを聞きながらに、アオイは窓の外を見る。スーツパンツによれた茶色のTシャツというおかしな服装の男性と、派手髪の女が横断歩道ですれ違っていた。彼らは今後の人生で、すれ違う以上の関わりを持つのだろうか。
このカフェは特段眺めが良いわけではない。そんなところが落ち着く。渋谷のメインストリートからは外れた、窓の大きい小さなカフェだ。上から見れば歪な三角形に見えるだろう店内には、ソファ席が窓側の二つしかなくて、カウンター席が四つある。細身の黒人男性と、アルバイトなのか共同経営者なのか判別が付かない、20代後半の女性が店員をしている。
膝より少しだけ低い高さのテーブルに、ダークチョコレートで蓋をされたバニラアイスが入ったグラスと、その蓋を溶かすための熱いエスプレッソが運ばれた。直ぐにでもその工夫されたデザートを口に運びたかったが、頬杖を辞めずに1分ほど待つ。彼女の撮影のためだ。
それが法律で定められているかのように、彼女は画角なんかに拘って写真を撮り始める。それからアオイの手を映り込ませた写真も、何枚か撮影した。それらはインスタグラムに上げられるのだ。先ほど彼女が文句を言っていた、匂わせという虚栄心の充実のために。自分のシルバーアクセサリーに彩られた手を見つめる。気分はハンドモデルだ。
「その手、ゴツくて好き。青く血管が浮き出てるのが特に。そのリングっていくらするの?」
「どれ?」
「中指の」
「9万」
「バイト代消し飛ぶ」
改めて、左手の中指に填められたシルバーリングを眺めた。クロムハーツなんかではない。あそこは名が売れすぎてしまって、当たり障りのないものばかりを作っているから。しかし大学生には高い買い物だったように思う。もっとも、アオイはそれを親から貰っているお小遣いで購入してはいない。
もう付き合いはないが、それは別の女の子に買って貰ったものだった。ご飯なんかを奢らせる代わりに、高価なアクセサリーや服を買ってくれる子だった。デートの時だけは愛されている彼女の気分を味わいたいのだと、この指輪を買ってくれたときに言っていたのを思い出す。カフェやレストランの会計で、愛なんかが計れる訳もないのに。自分と違って真摯にバイトをして9万円を稼いだ彼女は、何を思ってこれを買ったのか。
彼女とはセックスをしなかった。もう処女ではなかったからだ。一度でも他の男のものが入り込んだ場所に、自分のものを入れるのは心底気色が悪いと感じてしまう。歪んだ潔癖症のようなものだと自分では思っていた。彼女には最後、添い寝を求められて、ベッドの中で襲わない理由を訊かれた。だから理由を伝えると、泣いて、それから連絡は来なくなった。何人かの女の子は性的な関係を嫌悪しているくせに、何故かその関係に至ることが永遠にないのだと分かると嘆く。アオイには理解できなかった。あの清らかな関係に、彼女たちは何の不満があったのだろうか。
「アオイって、なんでそんなに飄々としてるの?」
エスプレッソでチョコレートの蓋を溶かしていると、彼女が尋ねた。飄々と、なんて言葉を使う人間だとは思っていなかったので、少しだけ好感度が上がる。
「さあ。他の人間に落ち着きがないだけじゃないかな」
「あと、性欲ないよね。そういう目で見ないし」
君に性的な目を向けるほどの魅力がないからだ。とは言わない。嘘は嫌いだが、言葉にしない方が良いことが世の中には都度ある。そのくらいは棲み分けなければならない。
目の前の彼女も、処女ではなかった。確か半年くらい前に彼氏と別れてから、性欲ってものに嫌気が差したのだと言っていたのを覚えている。だから自分とデートなんてしているのだろう。何があったのかは知らないが、可哀想な彼氏だと思う。そして哀れな彼女だと思った。
「なんか、凄く大事にされてるって感じる。元カレとは大違い」
彼女が笑う。嫌いな笑みだ。自分が作り出した、偽物の笑顔。
君が一人暮らしをしている家に行かず、ホテルにも誘わないのは、君を大事にしているからじゃない。君の中身にも外見にも興味がないから。どうでもいいと思っているから。きっと君が文句を言う元彼の方が、君に魅力を感じて、君のことを想っていた。
これも、言葉にはしない。余計な言葉だ。講義前の退屈な時間に、カフェなんかで珈琲を奢ってくれる相手が一人減る言葉だ。
「君の恋人じゃないよ。オレ」
「あぁ、そうだった。ほんと連れないね。いいけどさ、友達でも」
「友達じゃないけど」
「はぁ?」
じゃあなに? と目が語っている。その目はアオイがしたいくらいだった。この関係を友達という言葉に当て嵌められる方の気が知れない。それに友達とは、友情とは、アオイにとってとても重い言葉なのだ。軽々しく口にすることは出来ない。
君はせいぜいが知り合いに過ぎないよ。という言葉を作ってから口の中で吟味し、直球が過ぎると思い、曖昧に伏せることにする。
「さあ……なんだろうね」
勝手に想像していてほしい。そしてそれを確認しないでほしい。
彼女も曖昧な方が都合がいいと考えたのか、追求はなかった。アオイは少しだけ機嫌の悪くなった彼女を視界に入れながらも、細長いスプーンでバニラアイスをすくい口に運ぶ。エスプレッソのかかったバニラアイスは、クリーム状のコーヒーゼリーみたいだった。
「それ美味しい? 一口ちょうだい」
機嫌取りもかねて、アオイはビターにコーティングされたバニラアイスを、彼女の口まで運ぶ。
「普通」
あまり美味しくはなかった。
キャンパスには幾つもの館があり、文学部の多くは6号館に講義室を持つ。新設されたばかりの館内は埃があれば目立つくらい掃除が行き届いていて、五階には何故かガラス張りの会議室が二つあった。しかし使われているところを見たことがない。下層の学生たちを見れて眺めはいいが、同時にこちらも丸見えだからだろうか。アオイも、ここで真面目な話しをしたいとは思わない。
「それで、妊娠したって言われちゃって……どうすればいいですかね?」
韓国ドラマに出てきそうなサイドを刈り上げた短髪の、まだ高校生臭さが抜けきっていない青年が、アオイの機嫌を伺うように言った。彼が機嫌を伺うべきは、その子供が出来てしまったかも知れない彼女だろうに。
「付けなかったのか。コンドーム」
「いや……外で出したんですけど」
「中学生からやり直せ」
アオイは、中学校は不登校だった。スマートフォンにもフィルタリングがかかっていて、結局この歳までアダルトサイトにアクセスしたことがない。そのせいか性教育が抜け落ちていて、中学3年生の冬に、最初にセックスをしたときは避妊具の存在を知らなかった。
自分と同じような言い訳を、相談者が持っているのか考えてみる。どうにも持っていなさそうだった。彼は軽音サークルの後輩で、特別仲が良い訳ではない。何故自分が相談相手に選ばれたのかを考えた方が良いかもしれない。しかし尋ねた方が早い。
「オレに話してどうする」
「いや、先輩なら知ってそうかなって」
ヘラヘラとした軟弱な声で、彼が言った。大凡の予想はついた。
「何を?」
「逃げ方? とか」
殴ってやろうかと思う。顔は駄目だ、傷が見える。腹部か胸部あたりに、正中線に抉り込むように一発。しかしアクセサリーが付いた手を眺めて、自分の手が痛むだろうと考え直した。なにより、彼を殴っても爽快感なんてない気がした。
「好きなのか。その子のこと」
尋ねながら、ジャケットのポケットに入れたグミのパッケージを取り出して、ハリボーを口に放り込む。固形のコーラの味がする。どうせ此処は、真面目な話しをする所ではない。
「いや、あんまりって感じで」
「じゃあ、知らない。オレたちの若さでも確立は30パーセントくらいらしい。間違いであることを祈れ。無神論者なら今から信じろ」
「そんな無茶ですよ。何度もマンションにまで来てて、どうしたらいいのか」
ここで、自分は彼になんと言えば正しいのか。牧師や教師のような説教を始めて、人生哲学と愛について語り、最後に責任を取って一生面倒を見ろと背中を叩くことだろうか。
これっぽっちも好きではない女の子を妊娠させて、結婚しろと言われたときのことを考えてみる。今のアオイはそんな子とセックスはしないが、仮定の話だ。
「さあ……放置じゃない」
責任なんて取れっこない。愛していないのだから。高校1年生の頃、付き合っていた彼女に妊娠したかも知れないと言われたとき、自分はどうしたのだったか。あの頃は本当の愛なんて知らなかったから、無関心に務めた気がする。何処かに逃げたいと考えていたのも覚えていた。時間とか、どうしようもない隔たりのある何処かへ。
しかし、彼にタイムマシンを用意してあげることは出来ない。また固形のコーラを口に入れる。顎が痛くなるくらいの歯ごたえが好きだった。
「そんなに嫌なら関わるなよ」
「……殴っちゃったんですよ。顔が腫れて……いま、家にいるんですけど」
嫌な情報が追加で入った。その子を追い出したいのかと聞けば、彼は返答に迷っていた。自分では見つけられない答えを求めて、アオイの手元を見ている。別にグミが食べたい訳ではなくて、視線だって迷子なのだろう。
彼は、きっとどうして欲しくもないのだ。そんな経験珍しくもない、お前だけじゃない、なんとかなるだとかの無責任な励ましが欲しくて、金欠のくせにアオイにハリボーを買ってまで相談に乗って貰っている。そう言ってくれそうな見た目をしているという理由で。
至って真面目な学生だったのに、馬鹿だなと思った。彼はサークルで羽目を外すことはあったが、勤勉に勉学に励み、献身的にボランティアを行い、バイト代の殆どを学費に充てている。親は当てにならないと、自立した思考と行動力があった。どれも両親の優しさに甘え続けているアオイにはないものだ。しかし、彼を尊敬したことは一度もなかった。家族に恵まれなかった可哀想な奴だとは思っていた。
「話し合え。無理なら、親に話せ」
「殺されますよ……」
深い溜息と共に、彼は言った。アオイはハリボーが残り三つになったことに気付いて、もうここから出たくなった。
彼の親は、孫が出来たというのに息子を殺すらしかった。
つくづく、恵まれなかった奴だ。
読んで、面白かったなら星をくれ。ああ、評価って意味だよ。別に、空に手を伸ばして光ってるアレを取ってきてくれなんて、無理な話じゃないさ。
ただ君の指で、画面の何処かを押すだけでいい。面白かった分だけスターをくれ。それはオレの勲章なんだ。




