【生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ。そのひとこと、ほかのいくつかと一緒に 書き留めておかなくちゃ。】 1
「ねぇ、嫌いって言わないで」
彼女はその言葉が嫌いだった――――この言い方すら、彼女は好まないのだろう。
「じゃあ、なんて言えばいいの?」
「好きじゃないって言って。そっちの方が優しい言葉」
優しい子だった。こんな世界では生きにくそうだなと感じてしまうほどに。嫌いなものの言い方だって縛られている。彼女のいう優しい言葉と、そうではない言葉。世界にはどちらの方が多いのだろうか。
「好きじゃない言葉ばっかりだね」
「うん。差別とかも、好きじゃない言葉。全部キャベツって言い換えればいいよ」
そういう問題ではないのだけれど、彼女が言えばそういう問題であるようにも思えた。
「キモいとかもダメ」
「■■ちゃんは、よく言うじゃないか」
「■■はいいの。でも、せんぱいはダメ」
「不公平だな」
「そう。ふこうへいなの。だって、せんぱいは■■の王子様だから。■■の全部を分かってくれて、欲しい言葉をくれて、嫌な事をいっちゃダメなの」
天使を見つめる。脆く、折れそうなほどに繊細な彼女を。しかしどれだけ見つめ続けても、彼女の心を覗くことは出来ない。全部を分かってあげられない。
「難しいな」
だからそう呟いたのだけれど。天使は、そんなまさか、とでも言いたげにちょとだけ顔をしかめるのだ。
「頑張って。じゃないと、■■死にたくなっちゃう」
「うん。頑張るよ」
君が死んだら、きっとじゃなくて絶対に、オレも死にたくなるから。
眼球がヒリつく。眠るときには気にならないのに、起きればその存在を主張してくる厄介なやつだと、外すのを忘れる度に思う。コンタクトのせいだ。
乾燥のせいで収まりが悪いのか、右目だけ視界が歪んでいる。窓の外を見る。自分の部屋の窓はタペストリーで塞いでしまっているから、部屋から見える外の光景はそれだけで珍しかった。とは言っても見えるのは薄汚れた、隣に立っているマンションの壁だけだ。右目の視界が歪んでいて良かったと思う。
「カーテン付けろよ……」
この部屋に来る度に言っているのに、借主は一向にカーテンを付ける様子がない。外の世界と自分との繋がりを、布で仕切りたくないのかも知れない。
「忘れちゃった……」
女の子にしては低い声で、彼女は毎回そう言った。そこに哲学的な意味なんて皆無で、面倒なだけなのだと主張するような言い方だった。スナック菓子や、袋ラーメンのゴミが散らばる部屋に住んでいる彼女らしい理由だ。
「可愛いのが欲しいな……買うなら」
低めの声が話しを続ける。寝起きなのもあって、声は余計に低い。彼女はダミ声だと言ってその声を嫌っていた。「言い方の問題だ。ハスキーボイスって言えばいい」なんて言ったのが、隣でうつ伏せに寝ている彼女との、初めての会話だった事を思い出した。
「この部屋には似合わない。君にもな」
「ひっど」
しかし否定はしなかった。この部屋に迎えられたディズニープリンセスが着るドレスのようなカーテンが、ジュースの染みや埃に汚れていく様でも想像したのだろうか。それは想像してみればあまりにも哀愁を誘う光景だった。
上半身だけ起こしているアオイは、視界の歪みが直ってきた為に、カーテンのない窓から視線を外す。とはいってもこの部屋で視界に入るものは、窓の外の汚い壁と大差がなかった。狭いワンルームは多くをベッドが占めていて、限られたスペースを支配している小さなテーブルには、メイク道具やストローが刺さった飲みかけのエナジードリンクが放置されている。クローゼットも開けっぱなしだ。中にはフリルが過多な秋葉原のメイドのような服が、多少シワになったままハンガーに掛かっていて、「喋らなければぼくは姫」なんて自称する彼女のアイデンティティーが詰め込まれている。
シングルサイズなのにセミダブルのマットレスが置かれているベッドは、寝返りの打ち方を間違えると滑り落ちる酷いものだ。明るい時間に、長居したい空間ではない。
アオイは首を鳴らす。左に傾けると、小気味の良い音が鳴った。
「……帰る」
「えぇ、朝ご飯作って」
「冷蔵庫、空だろ」
電気代の無駄を体現しているような冷蔵庫に目をやった。キッチンの横で、学期途中に転校してきた口下手な少年のように肩身を狭くしていた。上には電子レンジが置かれている。電子レンジが主戦力で、下の彼は二等兵だった。役目は主にエナジードリンクを冷やすことだろう。ごく希にアイスを溶かさないでいる大役を担うこともあるが、そのくらいだ。
「ねぇ、背中かいて」
朝食が断られて、彼女はもっとグレードの低い要求に変えた。中古書店で購入したハードカバー本、そこに張られていた半額シールの事を思い出す。260円のシールを剥がすと520円になっていた。その下は610円だった。半額シールのように、彼女がどれくらいおねだりのグレードを下げるのかが気になった。
しかしアオイは彼女の背中に手をやる。あまり虐めるのはよくない。好奇心によるものなら特に、それは子供のように残酷だから。
「爪たてて」
「赤くなるよ」
「いいよ。背中は届かないから。この腕みたいにして」
言いながら、彼女は右腕を伸ばした。手首から肘にかけて、無数の切り傷が刻まれている。どれも薄く、防御創ではない。自傷行為による産物だった。死ぬ気もないのに同情を欲しがる人間がする、最も愚かな行為の痕跡だ。
背中をかくのを止めて、右腕の傷跡を撫でる。左腕も似たような惨状になっているのを、アオイは知っている。定期的にメッセージで送られてくる無数に血の滴る腕の写真は、それなりの数がスマートフォンの中に保存されていた。
不規則な定規のメモリのように並んだ瘡蓋は、撫でると心地が良かった。舌触りもいい。腕の傷跡を使って男性器を擦ってもらったこともあった。紙やすりのようであまり気持ちよくはなかったが、その行為自体に興奮した。
「背中、まだ撫でたくならない?」
「今、何キロだっけ」
「42」
出会った頃は48キロだった。着実に痩せてきてはいたが、平均より低い身長からすれば物足りなかった。背が低いほど、落とさなければならない体重は増える。
「夜食のラーメン止めろ」
「あれがないと生きていけない」
「死ねば」
「あはっ……そういうところ、好き」
身体をアオイの方に起こして、彼女は笑った。顔の片側だけ顔面麻痺を起こしたような、気味の悪い笑みだった。目元を囲むような赤系のアイシャドウと、強調された涙袋の典型的な地雷メイク。シェーリングで輪郭も誤魔化している。それなりの付き合いなのに、ノーメイクの彼女を見たことがない。肌の黄色みを消すための紫ベースのせいで、首から下の身体の色が違う。平均から少し盛ったようなサイズの胸は縮んで欲しかった。最近肋骨が見えるようになったことが、唯一の好印象だ。
「エマ。君に翼が生えることはないよ」
それが彼女の名前ではない。最初に漢字を見た時、エマと読めるものだったからそう呼んだら、彼女はSNSのアカウント名を全てエマに変えるくらいに気に入った。彼女はエマを自分の名前にしたがったのだ。確か出会って間もない頃に本名を聞いたが、漢字も含めて忘れてしまった。このアパートの郵便受けのおかげで名字が生田ということは知っている。
エマは高校生の頃の後輩で、四国の方に転校してから高校を中退したらしく、18歳の誕生日から二週間後に家出をして首都圏に戻ってきた。市川のカラオケ店でバイトをしていて、数ヶ月前まではネットカフェで暮らしていたが、最近になってこのアパートを借りた。賃宅契約のときにだけ、親に保証人になって貰うために電話をしたという。自分が探されていないことを知って、エマは清々したと言っていた。けれど、その日のセックス中に彼女は泣いた。会った頃から心底親を嫌悪している印象だったが、それでも泣いていた。口で言うほど、子供は親を憎めないのだろう。
「もう、悪魔でいい。コウモリみたいな翼の方が、ぼくにお似合い」
エマはおかしな少女だった。出会ったときから自傷行為に熱心で、初めてリストカットをする女の子に出会った興奮と、好奇心にやられて仲良くなった。オタクの女子が痛い時期に使いたがる、「僕」という一人称から卒業できていなかったところも好意的だった。
懐かれてしばらくしてから、不意にラインで告白された。天使のいたアオイはそれを断った。それからリストカットの画像が送られてくるようになって、「綺麗だね」と褒めたら、腕を切り刻む度にエマはそれを送ってくるようになった。夜の電球に照らされる血塗れの腕の美しさや、瘡蓋だらけの腕の心地よさを知るのは、世界にどれだけいるのだろう。
エマとは夜に電話をすることが多くて、毎日オナニーをするという彼女はその音を聞かせたがった。親が隣の部屋にいる状況で、高校の先輩と通話をしながら自慰行為をする。告白を断った代わりに、そのくらいは付き合ってあげようと思った。聞かれていると興奮すると言っていたが、実際はイヤホンをしても殆ど音は聞こえない。エマの鼻息が邪魔だからだ。そんな少女であるのに処女であったところが、予想が空廻ったようで好きだった。
当然に彼女は、天使にはなれない。魂が白くなければ、白い翼は生まれないから。そして人間の心は黒く、醜い翼しか生えることがない。その醜い翼すら、今の人間にはない。悪魔にだって人がなるのは難しい。彼らは子孫でしかないのだ。
「また、泣きそうな顔してる」
エマが言う。自分の顔に触れるが、それは分からなかった。
「今の、惨めな顔した先輩の方が好き。昔は何でも持ってるって風で、傲慢で、グレた金持ち息子って感じだったけど。カラっぽになった先輩の方が、暗くて魅力的」
自分はそんな、ジャイアンとスネ夫を混ぜたような人間だったのだろうか。アオイは過去の自分が好きだ。天使の愛に満たされた自分が。あの頃の自分こそ、最も魅力的だったように思う。だからエマの言葉には納得できなかった。
「なんでだよ……」
「だってそうじゃないと、ぼくみたいな子のところまで落ちてこなかったじゃん」
今度はとても、優しく笑った。雨に濡れた春のような笑みだった。
「傷を舐め合うのって、楽しいね。泥まみれの猫みたいに。あっ、先輩は犬か」
「……どいつもこいつも、オレを犬にする」
最初にそう言われたのはいつだったか。小学生の頃は恐竜だとか、寄せ書きに書かれた覚えがあった。記憶しているのは、高校1年生の時に仲が良かった、二つ上の先輩から言われ時のことだ。あの人は、確かにアオイのことを大型犬と言っていた。身長が高い訳でも際だって肩幅が広い訳でもないのに、何故か彼女たちはアオイを大きな犬にしたがった。最近だとあの子も、よく犬だと言っていた。
寝飽きたというようにエマは起き上がると、アオイにキスをする。唇を割って舌が入り込んできて、犬歯を撫で回した。ひょっとすると、犬だと言われるのはこの犬歯のせいかもしれないと考える。エマは寝起きのキスが好きだ。唾液が粘ついて、いつもより繋がりを強く感じるからだと言っていた。アオイは嫌いだったが、拒否するほどでもなかった。
「はぁ……エッチしよ」
「発情するな」
「先輩も大きくしてるじゃん」
「気分じゃない……」
一度始めるとなかなか満足しないエマの相手は、時間が潤沢に必要だった。昼になりつつある時間帯に始めるものではない。アオイはもうこの部屋を出たかった。
「一人でしてろ。大学があるから、帰る」
「あぁーぁ……そんな扱いだと、他にしてくれる人探しちゃうけど」
冗談交じりにエマが言った。アオイは眉間に皺を寄せ、昔から怖いと言われ続けた目つきで、悪辣に彼女を睨む。意識したものではなかった。自然と顔の筋肉が歪んだ。
「やってみろ。お前に、二度と関わらない」
「あはっ……その独占欲があるから、生きていける」
エマは楽しそうに笑う。生き続けるには難解な性格だったが、死ぬには寂しがり屋で臆病すぎる。病んだ魅力だ。そこが気に入っている。
アオイはゴミや下着が散乱するフローリングに落ちている自分の持ち物をかき集め、服装を整えると、最後にまだ布団に包まっているエマのボブディの髪を撫でた。
「ねえ……」
エマが顔を上げる。手に頭をこすりつけるように。
「なんで、まだ大学行ってるの。もう行く意味ないとか、言ってたじゃん」
その瞳は落莫に揺れていた。電話が好きな女の子は、孤独が嫌いなのだ。
「ここにいれば……ヒモでいいから。部屋の掃除と、ご飯作って」
「金魚の糞を作れるほど、経済力ないだろ」
「キャバ嬢とかやる?」
「ハッ、死ぬぞ君」
あの世界に耐えられるほど、この子の精神は強くない。暗い世界のくせに、適しているのは明るく気丈な人間なのだ。それにこの腕では、いけてコンカフェなどだろう。出来れば彼女自身の将来のために、バイトではなく安定した職業に就いて欲しかった。保険や年金のシステムもエマはよく分かっていないから、余計にそう思う。
「大学に行くのは、君に会いに来てるのと同じ理由」
「なに?」
あえて誤魔化したのに、エマは尋ねた。意味なんて考えもしないで。
アオイは、訊かれたのなら答えない訳にはいかない。
「責任感と……惰性だよ」




