【ove one anoth あいしあおう】 4
砂糖と卵、温められた牛乳の香り。それから少しの蜂蜜の気配で目が覚めた。
「んっ……」
身体を起こして軽く身震いをする。何も着ていないのと、もう夏だけれどクーラーが効いている室内が、肌寒いほどに冷やされているのが原因だ。けれど暑さで風に当たるより、寒さで布団にくるまる方が好きなユキには丁度いい。
腰と肩を延ばして、下半身に掛かっているタオルケットを剥がす。挿入感と微かな痛みに少しだけ眉を伏せながらも、別のタオルケットに絡まっている下着を見つけて身に着けた。それから枕元にあった、彼が着ていたであろうオーバーサイズのパジャマを羽織る。ジュニパーベリーの香りがした。すっかり好きになってしまった香りだ。
短針はもう10時を回っているが、土曜日にはなんの問題もない。むしろ寝足りないくらいだった。自分の神様は日曜日ではなく土曜日に安息日を設けたのだ。きっと世界も生き物も、一日早く作り終わってしまったのだろう。
寝室から出れば、ボタンを留め忘れたようにシャツを着た彼が、テーブルにお皿を並べているところだった。ホワイトシャツの白さと区別が出来ないくらいに肌が白い。自分よりユキという名前が似合うと思った。雪から生まれたのかも知れない。それか快晴の日の雲から。
「ユキはいつも、どうして朝食が出来ると起きるんだ」
アオイは小首を傾げながらに振り返る。その表情は起こしに行く手間がなくなってしまったことを寂しがっているようにも見える。
「鼻が良いから、かな」
自分でも不思議だったが、理由はそのくらいしか浮かばない。
「確かに、君は小型犬みたいだ」
「アオイ君は大型犬みたい」
「犬種は?」
訊かれて考える。きっと狼のような犬だ。彼はとても犬歯が鋭い。何度目かのセックスの時、うなじを噛まれたときは肌の白さと相まって吸血鬼かと疑ったくらいに。
「シベリアンハスキー」
「なら君はキャバリア・キング・チャールズ・スパニエル」
「それはどんな犬?」
「世話をしないと我が儘になる」
酷い言いようだった。彼は李生をからかうのが殊の外好きなのだ。ユキは意思表示のためにわざとらしく頬を膨らませる。それから「もうっ」と効果音のように拗ねた声を出して、軽く肩を叩きに行った。ついでとばかりにそのままハグをする。
「ほら、冷めるよ」
「キスは?」
「これを食べて君の口が甘くなったら」
少し尖らせた唇には断りを意味する手が当てられる。仕返しに彼の指を軽く口に含んだ。彼とシュガーの混ざった味がする。フレンチトーストよりもこれが食べたい。
「巫山戯てないで座れ」
「はぁーい」
子供っぽく返事をして席に着く。最初はオシャレな彼女を演じようとしたが、彼の前だとどうにも幼児退行してしまう。彼にはそうさせるような母性に似た性質があった。弱音や愚痴を吐きたくなる困った性質だ。甘えさせるのが上手いのだろう。
「ねえ、あーんして」
「そのうち腕が退化してなくなるぞ」
「ちゃんと使うよ。抱きしめたい人がいるから」
最近、彼のキザな台詞が移ってきたなと思う。何でもないような会話の中で不意を突くように言うのがポイントだ。何度もそうされたので分かってきてしまった。残念ながら彼にはあまり効果がないようだったが。
アオイは不承不承といった様子でナイフでフレンチトーストを切り分け、フォークを使ってそれをユキの口元まで運んでくれる。ユキは自分の口からしたらはみ出すくらいに大きく切られたそれを頬張り、染みこんだ卵とミルク、たっぷりの砂糖と少しの蜂蜜の味をゆっくりと舌の上で楽しんだ。最後に頬張ったときに口元に付いた蜂蜜をチロリと舐めとる。
「美味しそうに食べるね」
「好きな人の手製って、素敵な調味料なの。あと、今回は牛乳も丁度いいし」
「前は分量間違って悪かったな」
彼は料理が得意ではない。けれど雰囲気には手間を惜しまない人だった。作るものは行程も少なく簡単なものばかりだったが、盛り付けなどの見た目はとても配慮されている。お皿とテーブルクロスだって自分で持ってきたくらいだ。
そして人をもてなすのが好きだった。自分は盛り付けた時点で満足するようで、以前に生ハムのサンドイッチを作ってくれたときは、それを食べるユキの隣でもそもそと切ったパンの耳を食べていたくらいだ。更に食器まで洗ってくれて、部屋の掃除だってしてくれる。彼と一緒に暮らせば自分は自堕落な人間になってしまうのではないかと危惧してしまうくらいで、専属の執事を手に入れた気分だった。アオイはユキをお姫様のように扱ってくれた。
「ねえ、今日はどのくらいいてくれるの?」
したいことはたくさんある。ゲームに読書、映画を見るのもいい。昼間から身体を求め合うのだって楽しいだろう。どんなことをしていても、混ざり合うほどに隣にいたい。その時間は長ければ長いほどに良かった。
「ユキが望むなら、電車のなくなる間際まで」
「嬉しい。…………今日も、泊まっていかない?」
断られると分かっていた。それでも訊いてしまった。可能性は残されているから、一緒に居たいと深く伝えるために、彼の胸に寄りかかる。
「日曜日は、家にいたいんだ。ごめんね」
けれど答えは変わらない。ごくまれに彼が行きたがるイベントなどを除いて、日曜日は逢ってくれない。彼にとっての安息日は絶対的に日曜日で、家は教会だった。それは宗教上の理由のように頑なだ。日曜日に何かに祈っていると言われても驚かないくらいに。
浮気をしている訳ではないと知っていた。メールを打てば基本的に直ぐに返信が来るし、電話をかければ出てくれて、話したいと言えば長電話だってしてくれたから。ただ家から出てはくれないだけだ。
ユキはこの二ヶ月で自分の愛が重い方なのだと自覚した。彼が他の女性と話していれば息苦しくなり、電話をかけたときに通話中とアナウンスされるだけで軽い鬱になった。サークル活動や知人との予定で逢えないと言われるだけで、その日は気が狂いそうなほどの焦燥で何も手に付かない。
けれど束縛はしないように気を付けていた。嫌われればそれまでだ。どんなに一緒に居たくても、一人の時間だって尊重しなくてはならない。誰にだって介入されたくはないパーソナルスペースがある。彼にとってはそれが日曜日だった。
それだけに土曜日に彼と逢えない週があると、ユキの精神は不安定になった。月経よりもずっと重く、世界が終わるのを待っているように塞ぎ込む。そんなときには父がくれた本を読むことで、いくらか心が楽になるのだから、帰郷した日には感謝しなくてはならないと思う。
「カフェオレ淹れるね。ソファで待ってて」
「ありがとう。ねえ、今日はなにする?」
「前に話した絵本作家の画集を持ってきた。一緒に見よう」
「うん、見る」
アオイは本が好きだ。小説だけではなくて絵本や詩、漫画なんかも好んだ。絵本なんて子供の見るものだと思っていたユキは、彼が見せてくれる奥深い内容のものや綺麗な絵のそれらをとても気に入って、デートの時には原画展にも足を運んだ。物語を表現する芸術は格式高い絵画より理解がしやすく、見ていて楽しかったから。
その日は幾つかの本を一緒に読んで、三度セックスをした。このまま四度目に誘えば彼は疲れて眠ってしまい、明日も一緒に居られるのではないかと企んだが、ユキの方の体力が持たず、アオイは終電の二つ前に帰ってしまった。
「……土曜日が、二日続けば良いのに」
時計を見れば零時を過ぎている。嫌いになった日曜日が来たのだ。
ユキはスマートフォンのカレンダーを見た。明日の彼は、誰と遊ぶ訳でもなかったはずだ。なら起きたら直ぐに電話をして、オンラインで出来るゲームに誘おうと考える。逢えなくても、電波でだっていいから繋がっていたかった。馬鹿にしていたいつかの彼らのような考えだ。
初めての期末試験が始まった。これが終われば夏休みになる。ユキの頭の中は試験よりも、長期の休みでも、アオイは日曜日を安息日にし続けるのだろうか、という疑問で満たされていた。しかし大学がなければ日曜の安息日はそれほど気になることではない。
そうして一つの疑問が希薄になると、また別の疑問が浮上する。
「……ハルカ、今日もいない?」
ハルカとは梨川の名前だ。そして彼女はテスト期間の一週間前から大学に来ていなかった。不真面目な部類に入る彼女は、出席が足りたのでサボっているのだろうと考えていたが、単位取得に必須のテスト日に来ていないのは不可解だった。
しかしそれほど気にすることでもないかも知れない。梨川とはこの一月殆ど会話していないし、メッセージだって最後に送ったのは三週間前だ。互いに好きな相手に夢中になることで精一杯で、友好関係は希薄になっている。それに梨川は、恋人を持っている自分がユキよりも優位にいると思っていた節があった。以前は口癖のように「すももだって早く作りなよ」と言っていた。しかしいざユキに相手が出来たと分かると祝福の言葉どころか、そのことを話題にもしなかった。そんな良いところも悪いところも分かりやすい性格が、ユキは嫌いではなかった。好きとまでは言えなかったけれど。
大学の試験は拍子抜けするほど簡単だ。常に受験勉強の時のような困難さがあると想像していたユキは、入ってさえしまえば学位を取るのは難しくないと知った。だから多くの学生はキャンパスライフを謳歌できるのだろう。
五限の講義が早めに終わり、試験続きで眼精疲労を感じたユキは瞼を押さえようとして、メイクが崩れるかも知れないと思いとどまる。しかし今日は彼に逢う訳でもないと考え直し、遠慮なく瞼を強く押さえた。最寄り駅付近のドラッグストアで目薬を買おう。最近は本も読むようになって、目を使うことが増えたから。
大学を出る、それを見計らっていたみたいにスマートフォンが鳴った。音は消しているから、振動をスカートのポケットから感じる。
画面を見ればそれはハルカだった。酔い潰れて寝坊でもして、今日がテスト日だと気付いたのだろうか。そうだとしてもユキにはどうすることも出来ないし、愚痴を聞いてあげる気分でもなかったけれど、それでも一応の友人だからと着信に出る。
「今日、来てなかったけど。大丈夫?」
『だいじょばない……』
それはそうだろう。しかしそれは彼女の責任だ。そしてユキにはどうすることも出来ない。
『ねえ、すもも……』
「どうしたの?」
声に水気を感じた。それは明らかにテストや単位には関係のない事だと感じ取り、歩きながら聞く話題ではなさそうだと思ったユキは、歩道の端に身体を寄せる。
梨川は小さく荒い呼吸をしていて、今から口に出す言葉をとても恐れているようだった。自分の耳にそれが聞こえるのが耐えられないというように。
『私ね……子供が出来たの』
それは確かに彼女の責任で、ユキにはどうしようもない事だった。
急な告白に目眩がしそうだ。相手は梨川の彼氏だろう。そうでないとしたら、同情の余地もない。そして彼氏ではなく自分に電話をかけている事で、様々な悪い想像が吹いた埃のように思考を舞った。
『彼に話したら、降ろせって言われて……でも嫌って言ったら電話に出てくれなくなって、メッセージも無視されて……家に行っても出てきてくれなくて……叩かれて』
記憶を一つずつちぎっていくように断片的に、梨川は経緯を話してくれる。その間にユキは彼女にかける言葉を探していたけれど、そんな言葉はどこを探しても見つからなかった。世界のどこに行けばそれはあるのだろうかとさえ思った。
『私、私どうしたらいいのかな……まだ一年生で、奨学金だって借りてて……』
「大丈夫、だよ……」
何が? それは無責任な言葉だ。ユキはその言葉になんの責任も持つことが出来ない。しかし何も言わないよりは無情ではない気がした。
「きっと大丈夫だから……変なこと考えちゃ、ダメだよ」
そう言っておかなければ命を絶ってしまいそうなくらい、梨川の話し方には破滅的なニュアンスが含まれていた。そう言ってしまったせいで、自殺という可能性に気付かせてしまいそうで怖かったが、言わない方が後悔する。自分はそういうタイプだ。
『うん……ありがとう』
梨川は、友人と話したことで少し落ち着いたように思う。きっと両親にだってまだ打ち明けられてはいないのだろう。しかし電話越しでは彼女の本当の様子を確認することは出来ない。もっと人と話していた方がいいと思い「今どこにいるの?」と尋ねたが、梨川はこれからまた彼氏に会いに行こうと考えていて、その勇気を貰いにユキに電話をしたのだと言う。その男に会った方がいいのか、もう会わない方がいいのか、ユキには判断も助言もできない。
『すももはいいね……優しい彼氏で』
電話を切る前に梨川はそう言った。小さな声で、しかし確かな羨望を含んで。
彼氏、その言葉はユキの中でトゲを持ったように引っかかる。どうしてだろうと考えて、記憶に鍵が掛かっているように感じた。疑念を抑制していたという方が正しいかもしれない。あるいは壊れないように、触らないようにしていたのだろう。
梨川の言葉で鍵は壊れて、引っかかりの理由に気付いたときには背筋が冷えた。
何かの間違いだと思いたくてもっと深く記憶を探る。幸福という色で染められた思い出を取り出していく。それでも見つからない。そんな大事なことを、忘れているはずがない。
アオイは未だに、ユキのことを彼女とも恋人とも呼んだことがなかった。思い返せばちゃんとした告白もしていない。ただ時間と身体を重ねていくうちに、ユキがそう認識していただけだ。
自分たちは付き合っていないのではないか考えたとき、ユキは内臓が引っ繰り返ったような嫌悪感に襲われる。その吐き気に口元を抑え、様々な想像をする。
彼は自分が妊娠したとしたら、どう言ってくれるのだろうか。寄り添ってくれるだろうか。産んでもいいと言ってくれるだろうか。結婚を誓ってくれるのだろうか。それとも、全ては君の勘違いなのだと言い放って、ユキの知らない何処かへと消えてしまうのだろうか。
どれだけ彼について知っているだろう。家は都内ではないと言っていたけれどそれだけで、彼の友人達にも会ったことがない。友達はとても少ないのだと言っていた。それにしては誰かと出かける事が多かった。家族のことは確か妹について自慢げに話していて、父親と映画に行ったような事もどこかで聞いた。
焦ることではないのかも知れない。まだ二ヶ月だ。これから知っていけば良い。でもそのこれからが存在するのか、ユキの胸の内は不安で満たされていく。
気付けば電話をかけていた。なぜか涙も流れている。
「逢いたい……」
『……テストがある。90分待てる?』
ユキの声から直ぐに何かを察して、アオイはそう提案する。ユキは小さく頷いてから、これが電話であることを思いだして、「うん……」と呟いた。
創設者の立像と人工的に作られた川と噴水があるキャンパスの入り口付近で、ユキはベンチに座る。90分はとても長く、化粧が崩れていないかと手鏡で確認してから、ぼやけたアイライナーの酷い有様に憂鬱になり、彼に逢うと知っていたなら目もこすらずメイクだってもっと可愛くしたのにと思う。すっぴんだって晒したのに、まだ心は初恋の初々しさを残している。
「何かあった?」
アオイの声が聞こえた。周囲を見渡してその姿を探せば、すぐ後ろにグッチのドラえもんTシャツとカーゴパンツを履いた彼がいた。アオイは音もなく近寄るのが得意で、意図したものではないらしかったが、困った特質だ。それにしても珍しく普通の服を着ている。誰が買うのだろうかと思うような、ミスマッチなキャラクターとブランドのコラボ服だったが、彼の普段のファッションからはかけ離れている。変わらないのは右手のシルバーアクセサリーだけだ。
ユキはアオイが来てくれた事に安堵する。それから不安をぶつけるように抱きついた。急なことだったが、彼はその白い腕で抱きしめ返してくれる。セージとラベンダーの香りがした。彼は大きく二種類の香水を使い分けている。どちらかといえば、こちらの香りがすることの方が多い。
「ねえ、家族って何人……あと、どこに住んでるの」
「どうしたの?」
「いいから、教えて……」
梨川のことを話す訳にはいかない。信用していないのだと伝えるようなもので、間違ってもそれは良い印象を与えないだろう。
アオイはユキの言動の所在を探すように暫く思案していたが、顔を上げたユキの黒い瞳を見てそれを止めた。考える意味を見失ったみたいに。そして徐に口を動かす。
「五人家族で、兄さんはもう社会人で一人暮らしをしている。だから家では両親と妹の四人。その家は千葉県にある。あの梨の妖精が住んでいるところって言えば分かるかな。母さんはとても優しくて、けれど少し過保護なんだ。夜遅くに帰ったり外泊なんてするととても心配するから、必ず連絡しないといけない。父さんは博識で、知らない事がこの世界にあるのか不思議に思う事がある。そして多くの文化的な経験を俺にくれる。兄は真面目を絵に描いたようで、宗派によっては聖列されるんじゃないかって考えたくらいだ。そして兄弟思いだ。妹は、少なくとも家ではどんな独裁者だって敵わないようなお姫様。君の我が儘がとても可愛らしく思えるくらいの」
すらすらと、訊いていないことまでアオイは話してくれた。穏やかな口ぶりからは、腕の中の少女を安堵させようという気持ちが伝わってきた。
梨川の言葉を思い出す。『すももはいいね……優しい彼氏で』と、彼女は言っていた。その通りだった。恋人に当たりくじがあるのなら、それは彼のような人なのだろう。
「他に、何か聞きたいことはあるかな」
優しい笑みだ。口角が片方だけ上がる笑い方。堪らなく彼が欲しくなる。肌が混ざり合うほどに抱きしめて、溶けるようなキスがしたい。叶うのならその姿のままに固まって、泥に沈み込むように眠ってしまいたかった。
「私のこと……好き?」
思い返せば、そう聞いたことだってなかった。正直すぎる彼の言葉に傷つきたくなかったから。嫌いとまでは言われなくとも、あまり好きではない、くらいは言ってもおかしくないような人だから。
「好きだよ。分からなかった?」
でも彼は何でもないことのようにそれを言ってくれる。今までそれを言っていないことにだって気付いていないような表情で。
「……分かりにくかった」
本当にそうだろうか。決めつけて、分かろうとしなかっただけかも知れない。彼はいつだって好きだと行動で伝えてくれていたような気がする。キザな言葉やめかしこんだ服装は勿論のこと、ユキのメイクや服装を何だって褒めてくれて、いつ寝ているのだろうかと疑問に思ってしまうくらい何時にメールを送っても直ぐに返事をくれるし、寝落ち電話にも付き合ってくれる。家に来れば丁寧な前戯と、相手のことを考えた、でもちょっとだけ意地悪なセックスをして、最後にはオシャレな朝食があった。そのどれも、好きでなければ難しいことのように思う。
疑うなんて馬鹿な考えだった。自分はとても愛されている。梨川や他の可哀想な女たちとは違う。戸惑うほどの愛を貰っている。
不安が溶けたように涙が零れてきた。それは暖かくて、嬉し涙というものを初めて流した。感情的な方ではなかったのに、彼に出会ってから随分と心の有り様を変えられてしまったように思う。それとも自分を解放できるようになったという方が正しいのだろうか。
彼を見れば、その瞳は不安げにユキを見つめている。見ている方は、その涙が悲しみなのか喜びなのか、分からないのだろう。
「大丈夫……ただ、ほっとしただけ」
話そう。どうしてこんなことを訊いてしまったのかを。そのくらいのことで、彼は自分を嫌いになんてならない。梨川のことも話せば、何か助言できるこを一緒に考えてくれるかもしれない。
「なら、いいんだけど。一人で帰れる?」
心配そうに尋ねられた。その気遣いだって、今までの何倍も嬉しく感じる。このまま彼の優しさに寄りかかってしまいたい。あまり褒められたことではないけれど、今日は彼のいう独裁者な妹よりも我が儘になりたかった。
「……もっと一緒にいたい」
離れたくない。今日はじゃなくて、永遠に。叶うのなら彼を寝室に閉じ込めたい。目の前にいる金色の毛並みのシベリアンハスキーを、首輪を付けて飼ってしまいたい。絶対に切れないような、太く頑丈な鎖で繋ぐのだ。鎖に繋がれた彼の瞳は私だけを見つめ、全ての言葉が私だけに贈られる。想像しただけで悦楽に脳が歪みそうな情景だ。
「……分かったよ」
彼は明日もある試験のことを考えたのか、少しだけ逡巡する様子を見せたけれど、ユキの涙に潤む双眸を見て、迷いを振り払ってくれたようだった。了承の返事と共に頭を撫でられる。その時ばかりはユキが飼い犬だ。彼の指が、ブリーチを知らない黒々とした髪を梳いていく感触を楽しむ。
一頻り撫でて貰ったおかげで落ち着くと、ユキはアオイと手を繋いでキャンパスを出る。しっかりと指を絡めて、簡単には解けないような繋ぎ方だ。同じ家に帰るのだと実感して胸が弾んだ。いつだってそうなるように出来ないだろうかなんて考える。
「ねえ、アオイ君。私って、良い彼女できてるかな?」
彼の横顔を見て、また嬉しい回答を期待してそう尋ねた。彼はいつだって欲しい答えをくれるからと。
そうして、尋ねられたアオイは、何でもないことのように言う。今までそれを言っていないことにだって、気付いていないような表情で。
「君は、俺の彼女じゃないよ」




