【ove one anoth あいしあおう】 3
手首を見る。腕時計がカチカチと時を刻んでいる。遅刻の時間をどんどんと延ばしている。電車はまだ付かない。公共交通機関は個人のために急いではくれないから。
先ほどメッセージで遅刻の旨と謝罪を伝えたが、彼からは耳の短いウサギのスタンプが送られてきただけだ。予想よりそういったものを多用する人だったけれど、そのせいで余計に何を考えているのか分からない。既に30分も待たせてしまっている李生は、もう電車から飛び降りて走り出したい気分だった。その方が遅くとも、ただ揺られているだけの状況は何もしていないようで気分が良くなかった。
寝坊なんてしなかったのに、どうしてこうなったのか。李生は今朝のことを振り返る。6時に起きてシャワーを浴びて、昨日の夕食にしようとして結局食べなかったサンドイッチを食べた。メイクをして髪を巻いてダメージケアのオイルを塗って、納得がいかなくて巻き直して、服も夜のうちに決めていたはずなのに二度ほど着替え直した。そうしていたら時計は11時半を過ぎていて、12時に待ち合わせているのにまだ家を出ていない自分に気が付いた。
また腕時計を見る。12時半だ。30分もあればドラマかアニメを一話見られる。それだけの時間彼を待たせてしまった。それも自分から誘っておいてだ。誘われたのなら遅れてもいいという訳ではないが、それでも幾らか罪が軽くなる気がした。
李生は渋谷駅のホームを早足で出て、彼が既にいるという西口に向かった。けれど改札を出る前にタイル張りの壁に映る自分を見て最終チェックをする。
メイクはいい。可愛いと褒めてくれた昨日のものと殆ど代わらないから。アイシャドウの赤みが増したくらいだろう。ミディアムロングの髪は昨日よりも緩く巻いてふんわりとさせていたが、これも目を引く変更点ではない。問題は服だった。着るものまで同じにする訳にはいかなくて、似たようなテイストか全く違うコーディネートかで随分と迷った。反射する自分はジバンシィのリボン・タイ付き白ブラウスにアズールのフェイクレザーのジャンパースカート、そこにアンクルージュのセーラー襟のブルゾンを着ている。ポシェットはマルニだ。
少しガーリーにし過ぎただろうかと、李生の眉毛が不安げに下がる。メールで服の好みを尋ねるのは憚られたし、行ってみたかったカフェのリンクを張ってから会話を続けるのが李生には出来なかった。梨川たちはどうやってあれだけ長い時間メッセージを送り合えるのだろうか。その会話にどのような意味も含まれていないとしても、昨夜の李生にはその無意味な会話を生み出す能力が欲しかった。
考えすぎたと、李生はタイルに映る自分を置いてホームを出る。彼は直ぐに見つかった。彼の周囲だけ空気が異界のように違うから、見つけるのは簡単だった。彼がウォーリーなら誰だって瞬く間に見つけられてしまうくらいに。もしかすれば時間の流れ方だって違うのかも知れない。忙しなく動き続ける駅の住人達を小馬鹿にするように首が軽く傾げられているのが、その感想の源だった。
彼は柱の一つに背と片足を付けている。右手だけポケットに入れていて、左手にはスマートフォンではない何か四角い箱を持っている。
「あの、ごめんね……」
こわごわと近づいた。そして聞こえるか自分でも不安になってしまうくらいの声量で謝る。時計は38分になっている。何を言われるのだろうと構えていたが、彼は特段何かを見ていた訳でもなさそうな双眸をゆっくりと李生に向けると、音楽を聴いていたのかイヤホンを外した。謝罪は聞こえていなさそうだ。
「おはよう」
「ぇ、うん……おはよう」
おはようと言うには時間が遅い気もする。しかしそう言えば「遅いのは君だけれど」なんて返されそうだった。彼はそういった嫌味を言いそうに見える。
「いこうか。道は分かる?」
「うん……」
「どうしたの?」
目が合う。今何を思っているのか感情を抜き取られてしまうような見つめ方だった。とても目力の強い人だ。そして気怠そうにしている時と比べるとかなり印象が強張った。
「あの、ごめんね……私から誘ったのに、遅れちゃって」
もう一度謝る。けれど彼は謝罪の意味を理解できないかのようにゆっくりと首を傾げた。電池の消耗した自動人形のような動きだった。それか歳をとったフクロウに似ている。
「時間をかけて、可愛くしてきてくれたんじゃないの?」
「そう、だけど……」
それは言い訳にはならない。少なくとも世間一般には。
「40分くらい、待たせちゃったし……」
「服、可愛いね。それを選ぶまでに迷った?」
「それなりに……」
嘘だ。とてもとても迷った。その「可愛い」という言葉を聞くために。
「俺が昨日ああいったから。君は迷ってくれたんだろうね。なら俺が君から奪った時間の方が長い。それに、ここで人を眺めるのは悪くない時間だった」
「私も……今日の服を迷うのは、楽しい時間だった」
昨夜の鼓動を思い返せば、それは心地の良い高鳴りだ。セットリストに入れたくなるリズムだった。
彼の手が李生の髪に触れる。それは自然な手つきで、クローゼットから服を選ぶときのような触れ方だった。けれど形を崩さないように、古い本のページを捲るような慎重さがある。
「巻き方、昨日より緩やかだね。好きだよ、この質感」
「ありがとう、ございます……」
もうずっとこの巻き方で生きていこうと思った。
「あの……アオイ先輩も、かっこいいですね」
「うん。よく言われる」
褒められ慣れている。その反応は少し不服だったけれど、自分が褒められることに不慣れすぎるだけかも知れない。
二人で目的のカフェまで歩く。会話は特になくて、横目にアオイのことを眺める李生はまた手を繋げないだろうかと考えていた。
意味ありげに自分の手を見つめる。手持ち無沙汰だというアピールにちょっと手を揺らしてみる。反応はなかった。そもそもこちらを見てもいないかも知れない。これで気付いて貰おうというのは無謀だっただろうかと李生は内心で溜息を吐き、スマートフォンのメモ帳を開いた。
東京の大学に通うのだからと、李生は随分と前から行ってみたいカフェをリスト化していた。インスタグラムを覗けば行ってみたくなるカフェなんて直ぐに見つかる。しかし一人で行くには気が引ける場所ばかりで、もう少し時間が経って仲の良い友人が出来たら一緒に行こうと妄想していたけれど、妄想より良い相手になるとは思っていなかった。
「ここで、いいですか?」
「いいよ。君が行きたい場所なら」
アオイは興味がなさそうに言う。口の中にドロップスを放り込みながら。左手に持っていたのはドロップスの缶だった。藤子不二雄のドラえもんの絵がプリントされている。何故だろう、話題にしても良いかもしれない。
「それ、好きなんですか?」
「好きだよ。小さな頃から」
その好きはドロップスに対してなのかドラえもんに対してなのか、よく分からなかった。彼の話し方は水彩絵の具のようで、いつもどこかがぼやけているような気がする。「私のことは?」なんて続けて訊ければ良かったのだけれど、会話はもう終わっているように思えた。
あまり歩きたくはない、というのが彼の要望だ。それ以外は特に何も言われなかったので、くつろげるカフェを選んだ。
照明は暗く、膝より少しだけ高いくらいの丸テーブルの中央にはキャンドルが置かれている。彼は最初に壁側に置かれていた本棚を見ていたが、それが本ではなく小物を飾る為に置かれているのだと分かると興味を失ったのか自分の手首を見つめていた。
注文をする。李生はオリジナルブレンドの珈琲を頼んだ。アオイはアイスティーだと呟く。それから旬の果物を使ったケーキを二つと。店員の女性は注文を取りながらアオイのことを興味深そうに見ていて、その気持ちは痛いほどに分かった。
ヨウジヤマモトのドレープコートを着ていて、和装テイストのシャツに袴パンツを履いている。髪は襟足が右側だけ編まれているから、腰のベルトにライトセーバーでもぶら下がっていそうな格好だ。彼は今日も惑星コルサントから来たのかもしれない。
飲み物とサクランボのケーキが運ばれてきて、静かに食べる。アオイは殆ど音を立てずにアイスティーを飲んだ。そのせいで李生も静かに飲まざるをえなくて、自分たちの席だけあまりに静かだから、ここだけフレンチのテーブルだったのではないかと訝しんだくらいだ。
「…………あの」
何を訊きたかったのだったか。昨夜の妄想では鬱陶しいほど質問が浮かんできたのに、沈黙に隠れてしまったみたいだった。アオイは気にせず何処かを見ている。
どこを見ているのだろう。その視線は李生を見ているようでその後ろの壁に注がれている。そんなに面白い壁なのだろうか。後ろを振り向く。良い壁紙だけれど、見続けられるような壁紙ではない。彼はシミュラクラ現象と睨めっこしているみたいに思えた。
「話すの、苦手?」
彼の方から話しかけてくれる。けれどそれはイエスかノーで答えられる簡単なものだった。
「……はい」
「沈黙も?」
「けっこう……」
「ふぅん」
自分たちは相性が悪いのだと暗に言われた気分だった。そうかも知れない。
「面白い話、いや俺にとっては興味深かった話しなんだけど。聞く?」
「聞きます」
勢い余って前屈みになってしまう。会話がないことを不安に思う李生を思っての話だとしたら、それはどんな内容でも素晴らしいもののような気がしたから。
「尾骨は、人に尻尾があった名残なんだって説がある。鯨の骨盤みたいにね」
「鯨の骨盤……」
聞いたことがあった。鯨は何千万年も昔、四足歩行で陸を歩いていたのだと。でも海に帰ってからは前脚はヒレになって、邪魔になった後ろ脚は消えてしまったのだ。
「そしてこれは与太話だけれど、人の肩甲骨には翼があった名残が見えるなんていう話がある。殆ど神話に近い嘘だけれど」
「翼、ですか?」
「そう、翼。でもそれは綺麗なものじゃなかったと思うんだ。きっと黒くて、邪悪に歪なものだったんだよ。だから人はそれを嫌って飛ぶのを辞めて、翼はいつの間にか無くなってしまった。鯨の後ろ脚のように消えてしまったんだ。名残を置いてね。もしかしたら、イカロスは祖先の翼を夢見た男だったのかも知れない。あるいはダ・ヴィンチやライト兄弟も」
アオイはアイスティーを眺めている。溶けた氷と冷たい珈琲の境界線を決める審判みたいに。
「どうして、そう思うんですか?」
「肩甲骨に翼があるなら、きっと尾骨にも尻尾があったんだ。そして翼と尻尾を持つ生き物なんて、オレには一種しか思いつかなかった」
それはなに? と視線で訪ねる。アイスティーの氷が溶け砕けて、沈んでいく音がした。それは境界線を越えてしまった闖入者で、そのせいで氷水と珈琲の世界は混ざり合う。アオイはそれを見届けると、低く抑えた声で言う。
「――――悪魔だよ。オレたちは皆、悪魔の子孫なのかも知れない」
カフェは三つ回った。二つ目ではパフェを食べて、そこでアオイはサンデーとパフェの違いを話してくれた。「完全なスイーツだとは言い難いから、サンデーの方が良い。でもアメリカよりフランスの方が好きだから、やっぱりパフェの方が良いのかも知れない」なんて最後に付け足す辺りが彼らしいと思った。じゃあアラモードは何なのかと尋ねれば、あれはそもそもが日本発祥なのだという。そんなことまで知っているから特別スイーツに詳しいのかと思ったが、尋ねれば何でも答えてくれたので、きっと何にでも詳しいのだろう。
会計の時に、遅刻したお詫びご馳走しようとしたら、アオイは自分の分だけ置いて先にお店を出てしまった。置いていった三千円は少し多かったのでお釣りを返そうとしたけれど、それだって彼は受け取らなかった。二件目のカフェも同じで、彼はおおよその金額を出して会計を李生に任せた。細かい金額まで割り勘するのは嫌いなのだという。梨川とファミリーレストランに行ったときは一桁までキッチリと計算されて、面倒だなと思ったので、李生からしたらアオイの対応は楽で良かった。
アオイは一見すると一言だって喋りそうにないのに、話し出せば静かに饒舌で、見た目に寄らずよく喋る人だった。そして全ての会話に、何らかの意味を見いだそうとしている節がある。質問に答える以外で話すのが極端に少ないのはそのせいなのだろう。
それからまた喉が渇くまで渋谷の街を歩く。幾つかのお店に入って、アオイは金具の厳ついベルトなんかを買った。腰にたくさん付けているのにまだ欲しいのだろうか。いずれ彼は体中を拘束したいのかも知れない。
三つ目のカフェで李生はアイスティーを頼み、アオイはカフェオレを飲んだ。そこでは桃のタルトを食べる。李生はフォークでタルトを口に運ぶアオイを眺める。昼食抜きのカフェ巡りに付き合ってくれているけれど、彼は楽しいのだろうかと疑問に思った。
「楽しいですか?」
素直に訪ねた。本当に何でも答えてくれるから、李生も気兼ねがなくなってきていた。
「つまらなくはない」
アオイは自分の事に関しては逆説的に答えた。捻くれていると思う。今だって楽しいと言ってくれれば良いのに、あえて二重否定にしている。それとも楽しくもない、という意味なのだろうか。
「君はどう。楽しい?」
「とても……」
恋人とこうしたデートがしてみたかった。なんて言おうとして、まだ彼がそうなっていないことに気付いて口を噤む。もうとっくに付き合っている気分になってしまっていたが、ただデートをしているだけだ。先に一番最後にするべき事をしてしまったせいで、どうにも感覚が狂っている。
「私と一緒にいて、楽しいですか?」
今度はもっと明確に言葉を選んだ。
「そうじゃなかったら、ここにいないかな」
また楽しいとは口にしない。まるで間接的にものを言うゲームでもしているみたいで、それを言葉にすることを恐れているようですらあった。
李生は不満を隠すようにアイスティーをストローでかき混ぜる。SDGsだとかでストローが紙製になっているせいで、繊維が水に溶けてふやけていくのが手に伝わる。もっと克明な言葉が欲しかったのに、返って来たのがあれでは不機嫌にもなる。
李生は紙ストローから手を離すとアイスティーを一口のみ、今度はタルトを見て、今日はよく果物を食べる日だなと思う。最初のケーキはサクランボで、次のパフェは苺をふんだんに使っていた。そして今は桃のタルトを食べている。彼のことが知りたい李生は、そこに置いてあったような質問を見つけた。
「果物、なにが好きですか?」
「スモモ」
「っ……そう、なんだ」
心臓に悪い冗談だ。意地悪そうに笑っている彼を見てそう思う。それが今日、最初に見たアオイの笑みで、そんな性格の悪い笑みだったけれど、李生は安堵する。楽しんでくれてはいるようだと。そして先ほどの不機嫌さも何処かに行ってしまった。李生は我ながら単純だなと思う。しかし嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。
カフェを三つも回って話し込めば、太陽は急ぎ足で黄道を駆けてしまう。とても長く話していたようなのに、思い返すと瞬く間だったように感じて、最後のカフェを出た李生は、日の暮れた時間が似合う彼の背中を見つめる。
まだ帰りたくない。そう言ったら彼はどんな表情になるだろう。困るだろうか、笑って誤魔化すのだろうか。それともまた、自分の欲しい言葉をくれるのだろうか。
「ここ、駅から遠いんだね。どこで別れようか」
地図アプリを開いて現在位置を確認している彼は、今日するべき事を終えているのだと疑っていないようだった。事前に決めていた予定の殆どを消化したけれど、李生は今日をずっと長く想定している。
「ねえっ……」
両手で彼の右手を掴む。彼は直ぐに目を合わせてくれる。
「夕食……食べない?」
「いいよ。どこがいいかな」
一も二もなく了承してくれて、李生は続く言葉に迷う。言うべきか、今日はもう帰るべきなのか。かなり多めに入れてきた財布の中身のことを考え、彼の様子を伺う。
何を考えているのだろう。その表情から多くは読み取れないが、お腹は減っていなさそうだった。李生もあまり減っていない。それから今日はどれだけ準備しただろうかと考える。母に買い与えられた服の中でもお気に入りを選び出し、けれどハイブランドで固めないように良い物は二点ほどに務めた。フェラガモのローファーを入れれば三つだけれど、男性は靴までは気にしないように思えた。服が好きそうな彼なら気付きそうではあったが、あえてブランドを尋ねるような人でもない。
財布の中には八万円準備した。全部自分が出すつもりだったけれど割り勘になったカフェでは一万円ほど使って、残りは今から口にする目的のために。土曜日というのは李生の目的にとって運命的ですらあった。だから気兼ねは少なく、彼に言える。
「ホテル、とか……」
「それ、泊まるの?」
至極真っ当な質問だった。真っ当すぎて彼が言いそうではなかった。だから予想外に過ぎて、答えを準備していない。けれどもう止まれない李生はあざとさを意識して、「いやですか?」と上目遣いに尋ねる。
「いや、着替えがない」
「わっ、私が買います……から」
必死すぎる。自分でもそれが分かって恥ずかしいでは効かない。
しかし李生には重要なことだ。次のデートに誘う口実はない。指輪は返してしまって、今日別れれば自分から誘う勇気もない。そして彼と付き合うのなら、どうしてもして欲しいことがあった。
彼の手を掴む力を、少しずつ強くしていく。彼への感情の分だけ、強く握る。
「あの日の夜を……やり直して欲しいんです。目が覚めたとき、隣にいてくれたら……」
朝目覚めて、貴方が隣にいてくれさえしたら。順序がおかしいものにはなるけれど、恋を告白できたかも知れない。過去も出逢いも変えられないのなら、せめてやり直しを願うのだ。
アオイの目と瞳孔が大きく開いている。驚いていると言うよりは、より詳細に観察しているような目だ。まるで李生の瞳の中に映る自分を見つめているようだった。
そして首を傾けてから言う。
「李生ちゃん。オレ、尻尾を隠した悪魔だけれど」
「本当にそうなら……そんなこと言いません」
そう信じたいだけかも知れない。けれど今見えているモノだけが真実だ。見えていないモノは、まだ真実になっていない。
「それと……名前で呼んでくれたら、嬉しいです」
「……それなんだけど」
彼は心底気まずそうに眉を歪めてから、一度空を仰いだ。あるいはその先の宙を。それはエーテルに思いを馳せているような表情だった。そして驟雨のようにぽつりと呟く。
「知らないんだ。聞こうとは思っていたんだけど、聞けば君は落ち込むだろうから」
彼の中で、李生は未だにカサブランカのままだった。名前を知らない花。仕方なく似ている花の名前を当て嵌めていたのだ。
李生はほろ苦く笑う。自分の人生に突然現れた彼に、まだ自己紹介もしていなかったのだと分かって。いつまでも別の花や、君と呼ばれる訳にはいかないのだから。
「ユキって言います。李生ユキ、文学部教育学科の」
これが初めての自己紹介だ。遅すぎた名乗りだった。
そして、彼にとっては何かの琴線だった。
「あぁ……」
アオイは頭を抱えるように右手で顔の半分を覆っていて、左手は心臓に添えられるように胸を掴んでいた。その双眸には今までになく感情の炎が揺らめいている。
様子がおかしい。明らかに動揺していた。彼は何かの可能性に気が付いたような、ユキの言葉のニュアンスから何かパンドラの箱のようなモノを見つけてしまったようだった。
「漢字は……なんて書くんだ、それ」
事故に遭った家族の安否を確かめるように重く、彼が尋ねる。それを答えれば最後、何かに罅が入るような気がする。それは小さくとも、心という水圧でいつしか割れてしまう切っ掛けになる、そういった類いの罅だ。
けれど名前を答えない訳にはいかない。答えてはいけない理由を、ユキはまだ真実にしていないから。
「悠遠の悠に、来るって……書きます」
笑っている。どこまでも悲愴な笑みだ。決して悲壮ではない。果てしなく打ちのめされたような笑い方だった。
「ゆき……ユキ、悠来……良い名前だ。とても、とても……空にだって描きたくなるくらい」
スペルを一つ一つ確認するように、漢字が綴られていく線を確かめるように、彼はユキの名前を呼んだ。そこには名前以上の意味が込められているように思えた。
「……部屋でいいかな。君の」
恐ろしいけれど、その恐怖は魅力と背中合わせであるように思える。
「今度は、夢から覚めても隣にいるよ」
ユキは頷いた。それが願ったことだから。
ただ隣にいてくれるのは、自分が見ていた彼だっただろうか。




