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FREEDOM  作者: Hellmärc
3/9

【ove one anoth あいしあおう】 2

 冷たい。火傷してしまいそうなほどの温もりが遠ざかっていく。もっと焦がして欲しかったのに、羽化した(ちよう)は飛び立ってしまう。

 翼のある青い蝶が飛ぶ夢を見た。冷たく光る鱗粉を薄暗い世界に振りまきながら、月に向かって羽ばたいていく夢を。彼はあの氷河期の訪れた青白い月に行くのだろうか。そこに自身が振りまくための光る鱗粉を補給するために。


 月は真っ青な空に浮かんでいる。太陽の代わりに自分がそこにいることになんの疑いも持たないような自然さで。あるいは太陽なんて光の強すぎるものは、このほの暗い世界には似合わなくて、平和的に交代したのだろうか。それにしては月は怪しく輝きすぎていて、あそこには太陽神を犯す月の女神がいるのだろうなと思った。

 目が覚めると、夢は何かの暗示だったかのように彼はいなくなっていた。

 身体を起こして三度ほどゆっくりと瞬きをする。ここが夢ではない確証を得るために。

 李生は掛け布団をどかして、一応シーツまで剥いでみた。しかし彼はいない。好きな人と身体を重ねたせいで魔法が解けてしまい、翼のある蝶になってしまったのだと思いたかった。そして月に帰ってしまったのだ。古典で読まされたかぐや姫のように。


「……はぁ」


 重くなった息を吐きながら乱れたベッドに倒れる。暫くは片付ける気にもなれないだろう。あるいはここで寝る気にもなれないかも知れない。ベッドは高いから買い換えるのは難しいけれど、シーツと枕くらいは変えてもいい。とにかくこの感情と一緒に、何かを捨ててしまわなければいけないのは確かだ。


「名前……なんて言うんだろう」


 遊ばれただけだとしても、初めての人の名前くらいは知っておきたい。それがどんな思い出として残るにしろ、記憶に留めておきたかった。それに遊ばれたと訴えるには昨夜の李生はいささかばかり大胆が過ぎたし、雰囲気にやられたとはいえ状況的にも言動的にも彼を誘っていたのは間違いない。昨夜を思い返すだけなら悪い記憶ではないのがまた困ったところだ。

 ロマンチックとは言えないまでも、どこかファンタジックな夜だった。思い出にしては上等だろう。目覚めたときに隣にいてくれたなら、文句の付けようがなかったのだけれど。

 スマートフォンの通知音が聞こえる。梨川からだろう。大学で友人と呼べる相手はまだ梨川しかいないし、これから増やせるのかも李生の性格を考えれば怪しいところだ。


 いったい自分は何をしているのだろう。窓の外を見れば太陽が高く、大学はもう始まっている時間だ。しかしこの一週間くらいは休みたい気分だった。

 何か飲もうと再び身体を起こす。返信もしなくてはならない。


「あっ……」


 上半身を起こして、通知音の発信源を探して気付いた。コンセント付きのヘッドボードに、ノートの切れ端のようなものが置かれている。なぜ今まで気が付かなかったのだろうというくらい分かりやすい目印と一緒に。

 指輪が置いてある。彼が纏っていた銀色の輝きの一つだ。

 紙切れの上にはジャスティンデイビスのシルバーリングが、ペーパーウェイトの代わりとして置かれていた。文鎮代わりにするには高価な代物だ。そこにメッセージ性があることを考えずにはいられないくらいに。


 切れ端には「シャシン フォルダ」と甲骨文字のような線のカタカナで二つの単語が書かれていて、コートのポケットから取り出した覚えのないスマートフォンが、不自然にヘッドボードの上に置かれている事実に思い至る。

 スマートフォンはロックを解除しなくとも、写真を撮ることは出来る。

 急いでパスワードを入力して、案の定梨川からのメッセージだった通知も無視して写真フォルダを開く。

 そこには撮った覚えのない、スマートフォンの画面を映した写真が保存されていた。画面にはQRコードが表示されていて、それが何なのかを察するのは簡単だった。

 写真からQRコードを読み取り、メッセージアプリが開く。そこに出てきた名前を李生は迷わず友達登録した。


 指輪と一緒に残されたその連絡先には、『蒼皇伊』と表示されている。一目ではなんて読むのか分からなかった。ソウコウイ、は違う気がする。

 李生はまたベッドに倒れる、空を仰ぐように。だって気付いたから。あの人はきっと、私の好きなものなのだと。


「……アオイ、先輩」


 きっとそうだ。そうでなくてはならない。彼の名前は、私が焦がれるほどに見続けたあの空の色でなければならない。

 あの夜は、仰ぎ見続けた青と出逢うためのものだったのだ。

 











 

 

「ねえ、レスポン番号教えて?」

「ぁっ……ごめんね、聞いてなかった」

「えぇ、何のために講義出てるの」


 少なくとも彼女に出席のためのレスポンス番号を教えるためではない。遅れてきたというのに随分と横暴な態度だったが、それが梨川の普段通りだった。李生が知らないと分かるとすぐに前の席の知り合いでもない相手に番号を聞いている。それを盗み聞きして自分も出席アプリに打ち込んでしまったから、同罪とまではいなくとも似たような罪状だ。

 いつにも増して上の空だ。講義室の窓から空を眺めているのに、その青さではなく別の青のことを考え続けてしまうくらいに。


 まだ一昨日のことだなんて信じられなかった。カレンダーの方がおかしくて、あの日はそれなりに昔のことだったように感じられる。気分的には一ヶ月くらいだろうか。少なくとも一週間は経っていた。

 昨日は大学を休んでしまって、ベランダから一日中空を見ていた。時間の感覚を見失ってしまったのはそのせいかも知れない。真っ青になった頭の中にカレンダーは存在しないのだ。空に時計がないのと同じように。

 李生は徐に鞄に付いているパスケースを見やる。正しくはそこに入れられた定期券と一緒に挟まれたレシートを。それは李生にとって三ヶ月分の定期券よりも大事なものになっている。どちらかしか拾えないのなら間違いなくレシートを拾うだろう。


「……イブ、サンローラン」


 書かれているブランド名を小さく口にした。ノートの切れ端だと思っていたものはレシートだったから。悪い事だと承知しながらも内容を見れば、それはデパ地下でイヴ・サンローランのマスカラを買った時のものだった。安い買い物ではない。そして男性が買うようなものでも。頭の中には飛び切り可愛い女の子にブランドものの化粧品を買ってあげている彼の姿が浮かぶ。それはとても想像が容易な光景だった。けれどあの夜、彼はアイシャドウをしていた。ならマスカラだってするかも知れない。それは自分のために買ったという可能性が残されているということで、李生には仏が垂らしてくれる蜘蛛の糸のようなものだ。


 彼が置いていった指輪とレシートは、どちらも大学に持ってきている。ジャスティンデイビスのリングは鞄の中に入っていた。いつ彼と会うことになっても返せるように。

 あの人は私ともう一度逢う口実のために指輪を置いていったに違いない。それが李生が自分の心を安定させるために出した結論だった。その確証を得るために調べたが、九万円もする指輪を何の理由もなく置いていく訳がない。あるいは彼にとって九万円はペーパーウェイトにするには丁度いい金額だったのかも知れなかったが、そんなことを考え出したら蜘蛛の糸なんて簡単に切れてしまう。過ぎた妄想は心の重量を増やしてしまうのだ。


「今日デートでもあるの?」


 気が付けば講義が終わっていて、梨川がそう訪ねてきていた。


「ぇ……どうして?」

「だって、メイク確りしてるし。服も」


 あからさますぎたかも知れないと、李生は窓に薄く反射する自分を見る。ポール&ジョーのリキッドファンデーションで肌をより白く見せて透明感を出し、ディオールのアイシャドウで目に丸みを持たせマスカラでは毛束を作って、ハイライトも艶やかに入っている。カラーコンタクトは持っていなかったので黒すぎる双眸は気になったが、純欲メイクに仕上がった顔は自分でも満足のいく可愛さだ。そこにアズールの白黒のボーダーニットに、アニエスベーのプリーツスカートを履いている。コートも裾や袖に刺繍の入ったアナスイのPコートで、殆ど付けないイヤリングまでしているくらいだ。

 同じ大学だから、いつ彼に遭遇するか分からない。そう考えてドレッサーの前に座ったら手抜きなんて出来なかった。だからといってやり過ぎたかも知れないとは思う。こうして梨川に勘違いされてしまった訳で、正直に一晩寝た相手に偶然会うかも知れないから気合いを入れてオシャレをしている、などと説明してはあまりに自分が惨めに思われてしまう。きっと彼は違う、なんて言っても恋のうわごととしか受け取られないだろう。李生ならそう受け取る。これは感覚の問題なのだ。


「ねえ、それよりあのあとどうなったの?」

「どうって……」


 家に入れてセックスをした。名前も知らなかったのに、とは口に出来ない。一日泊めた、とぼやかすにも一人暮らしでは決定的すぎる。恐らく彼は始発までは家にいたというのが李生の推測だ。覚えている限りでは三度もしたので、終電はとっくに過ぎていただろうから。


「ラインでも言ったけど、駅まで送って貰っただけだよ」

「ほんとに? あの後すももがお持ち帰りされたって話しで持ちきりだったんだから」


 持って帰ったのはむしろ自分の方なのだけど、反論すると先ほどの嘘が露呈するので止めておく。


「でも、もう入れないかもね。軽音サークル」


 不穏なニュアンスが込められた言い方だった。理由が尋ねられるのを待っている言い方だ。


「どうして?」

「すももが最初に話してた先輩、副会長なんだけどね。去年、武内先輩に振られたんだって。だからかな、ずっとすもものこと愚痴ってたよ」


 名字が武内なのだと知れた。それだけで一連の会話に確かな意味を見いだせる。梨川との会話から有意義な情報が手に入ったのは初めてだった。いつも記憶に留めておけないくらい他愛のない話か、彼氏との惚気しか言わないから。


「嫌な場所だね、サークルって」

「そういうものじゃない、大学って」


 学校というものは、あるいはコミュニティとはすべからくそういうものなのかも知れない。大学までしか知らない二人には、それ以上を言及することは出来なかった。

 五限が終わった李生は早めの夕食を取るために食堂に向かおうとして、やはり家で食べようと踵を返した。大学にはあまり長くいたくない。彼に逢えるかも知れないと考えるのは幸せなことのように思えて、それ以上にストレスだから。

 歩きながらにスマートフォンを眺める。メッセージを打てばいいのに、スタンプの一つでも送ればすむ話なのに。李生には送信マークを押すことが出来ない。メッセージを送って、既読が付かないことが怖かったから。それを待っていたら気が狂うような予感があった。なら最初から送らない方が心の健康には良い。


 それでも李生の指は仮想のメッセージを打ち出してしまう。[何学部なんですか?]なんて大学生として当たり障りのない文章を作ってみて、暫くそれをアリの巣が作られていくのを観察するように眺めた。

 彼のことを知るのが怖い。こんなに思いを馳せて、恋人がいたらどうすればいいのだろう。とてもいないようには見えなかった。むしろ三人くらいはいそうな見た目をしていた。四人目になればいいのだろうか。それとも一人目からその座を奪えばいいのか。後者は臆病な李生にとっては中学生の学生鞄くらい荷が重い。


「はぁ……」


 溜まった息を吐き出す。キャンパスの中庭に出れば、昼はコートもいらないくらいの気温になっていたのに、日が暮れ始めてからは急に冷え込んでいた。コートを羽織ってから先ほどルーティーンのように打ったメッセージを消すために送信マーク下のバツ印を長押しして、電源ボタンを押してスマートフォンを閉じる。

 閉じた後に、手元のスマートフォンを隠された暗号を探す考古学者のように見つめる。確りとメッセージは消えただろうかと。先ほどの自分は、意識的に間違えはしなかっただろうかと。メッセージを消す振りをして、無意識を装って送信マークを押したのではないか。自分に問いかけるのは緊張から逃れるためで、直ぐにメッセージアプリを開けば、やはりメッセージは送られていた。


「ぁ……」


 そしてこれは想定外に、もう既読は付いていた。やっぱり消そうだなんて考えていたのに、送信取り消しはもう出来ない。それはあまりにも不自然すぎる。

 [文学部]という返信を見ながら、既読無視もされなかった事に思考が追いつかない。続けて送られてきた[君は?]という問いに答えるのだって、李生にはとても長い時間が必要だった。会話を終わらせない方法を模索するためには、なんと返すのが正解なのだろう。

 李生は自分が交わしてきた会話を思い返す。会話とはどう進むのだろうかと。聞きに徹してきた自分と話してくれていた人たちは、どうやって自分と会話をしていたのだろうかと。


 [文学部です] [今日、大学に来ていますか?]


 答えと一緒に質問を返す。会話はそうやって進んでいく。李生は赤く染まった、好きではない色になっていく空を仰ぐ。大学生にもなって人と話す参考書を欲している自分が恥ずかしい。もしかすれば自分は、今まで会話なんてしようと思ったことがなかったのかも知れない。

 返すのに5分も時間をかけてしまったためか、既読はなかなか付かなかった。けれど来ていると言われたところで、自分はどうするのだろうか。

 自問する。答えは直ぐに出た。


 逢いに行く。もう駅だと言われたのなら、厚底のスニーカーでアスファルトを蹴って駆けつける。なにか別の用があるのなら、せめて一目見ようと今いる場所だけでも尋ねる。

 空は赤い。私の好きな青はいつだって空にあるのに、時によって見えなくなる。幼い李生は夜の度に地球の裏側に行きたくなった。

 でも今恋をしている青は、きっと夜にこそ美しく見える。


「Perfect time for blond」


 スマートフォンが震える。[来てる]という短いメッセージと一緒に、そんな声が聞こえた。

 パーフェクト・タイム・フォー・ブロンド、ブロンドにぴったりの時間。その言葉が表すように、彼はブロンドの髪を微風に揺らしている。そこには深い青が混じっていて、李生には空の青さがそこに逃げてきたように見えた。

 夜になる前の時間にはブロンドが似合う。そして夜には、月のような青さが。


「オシャレだね。誰かと逢瀬かい?」


 梨川と同じ意味の言葉なのに、語彙が違うだけでまるで別物に聞こえる。それとも彼が言うからだろうか。

 彼はイヴ・サンローランのシャツに黒いロングジレを着ていて、腰には小物入れが付いたコルセットベルトを締めている。下はベルトが幾つも巻かれたベイカーパンツにヨースケのブーツを履いていた。首元には緑の宝石が填め込まれたループタイが見えて、手首には黒革とシルバーの腕時計が巻かれている。以前よりもパンク寄りの服装だ。髪も服装に合わせて襟足がバレッタで短く纏められている。代わらないのは、その肌の白さだけ。


 ゲームの中にいそうな人だと思う。きっと近未来チックなRPGなんかから、何かの間違いで一つ上の次元に出てきてしまったのだ。

 返答を探す。金曜日のキャンパスにはどこか気怠げな空気が漂っていて、人によっては明日も続く講義に辟易としているように見える。そこに退屈そうにスマートフォンを見ながら腕を組むカップルの姿を認めて、答えが見つかる。


「デートがしたくて……」

「へぇ。誰と?」

「あなたと」


 土壇場で大胆になる方なのだと、李生は自分を俯瞰して評価する。そして言葉にしてから羞恥心がこみ上げて来るタイプなのだとも分かった。幸い恥ずかしさは赤い空が隠してくれそうだ。

 李生はアオイの表情を伺う。嫌な顔はしていなかった。しかし驚いた様子もなくて、聞こえていなかったのだろうかと不安になる。もう一度言う勇気は残されていない。


「あのっ……これ」


 一秒でも沈黙が怖くて、ショルダーバックから指輪を取り出す。そして彼の左手を見た。記憶が正しければ、彼はこの指輪を左手の中指にしていたから。

 けれどそこには別のリングが、グッチのウルフリングが填められている。彼の指の上で銀の狼は李生を睨んでいるようだった。


「忘れ物、です……」


 言葉尻は弱々しかった。いらないと言われる気がしたから。

 しかし彼は李生を安心させるように、けれど笑うのが得意ではないのかぎこちなくも微笑んだ。


「忘れた訳じゃないんだ。大切なものだからね」


 そう言って李生の手の中から指輪を受け取り、ウルフリングを外してから中指に填めて、人差し指に付け替えた。それから何かを確認するように何度か手を握ったり開いたりし、手首を確認するように軽く腕を持ち上げている。まるで落としたパーツを取り戻した機械生命体のような仕草だった。


「ありがとう。でもこれは置いていったんだよ。君に逢う理由に」


 彼の視線はまだ指輪に注がれていた。けれど言葉は李生に向いている。

 妄想は現実だったのだ。彼は李生の頭の中を覗いていたのかも知れないというくらいに現実になってしまった。あるいは彼には言って欲しい言葉が分かるのかも知れない。


「デート、明日でもいい?」

「ぇ、ぁっ……はいっ」

「うん。よろしくね」


 明日は土曜日だ。そして、李生は休日が二日欲しくて土曜日に講義を取っていない。


「今日みたいに、可愛くしてきてくれたら嬉しいな」


 それを服装を悩ませる呪いの言葉のように聞こえたけれど、李生には可愛いと言って貰えたことのほうが重要だった。クローゼットの前で悶え悩む少し先の自分を容易に想像できたとしても、今はこの心地良い部分にだけ浸っていたい。

 彼はそれを置き土産にしてキャンパスに戻っていってしまう。追いかけたかったが、それはよくない行動だと思いとどまる。


 明日も逢えるのだからと感情を抑制して、彼の背中を見送った。

 ああ、明日は何を着ればいいのだろうか。

 

 


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