【ove one anoth あいしあおう】 1
白い花と青い空。特に見つけるのが難しくないそれらが、李生の好きなものだ。
小さな頃はよく空を見上げていた。両親からは雲の数でも数えているのだと思われていたみたいで、あまりに空ばかり見ているから転んでしまうのは日常的なことだった。雨の日には白い花を探していたけれど、それは雲が大きすぎて数えられないからだと思われていた。
両親のそれは大きな勘違いで、別に雲なんて好きではない。嫌いでもないけれど、わざわざ首を上げて見るようなものではない。もし目線と同じ高さにあれば見るかなという程度だ。彼女は空にあるものではなくて、ただ空の青さを見るのが好きだったのだ。一日中空のことばかり考えていたくらいで、空の青さに魅了されすぎてしまった彼女の頭の中は、真っ白というよりは真っ青だった。
中学生の頃まではそれで良かったのだが、高校に上がるとそうもいかなくなった。空ばかり眺めていた彼女は、運動部でもないのに綺麗な小麦色に日焼けしてしまって、美白だなんだとよく書かれている化粧品を級友たちが手に取り出す年頃になると、意味もなく焼けた肌が恥ずかしくなった。念入りに日焼け止めを塗りだしてからも暫く空を見続けたが、YouTubeでメイク動画を見始めた頃にはそれも止めた。
元々色白だった李生はみるみるうちにその白さを取り戻していって、受験に差し掛かる頃にはクラスで一番肌の白い女の子になっていた。その頃だって空は好きだったけれど、それを見続けるのは自ら病にかかりにいくようだと感じてしまってからは、意識して空のことを見ないようにした。
色白の李生は、自分を花に例えるのならそれは白百合だと思っていた。詩的な人が周りにいなかったので、実際に例えられたことはなかったけれど、青い空を失って白い花になりたかった彼女は自分を白百合にしたかった。鏡を見ればいつでも白い花が見られる。そこにはナルシスト的な片鱗が見られたけれど、自分を好きなことは素晴らしいことだ。少なくとも嫌悪している連中よりはマシだろう。
そんな李生でも、もし自分の見た目に文句を付けるとするなら、それは黒すぎるほどに真っ黒な一対の瞳だった。自分が気に入っていないのとは裏腹に、多くの人たちにその大きく黒い瞳は褒められた。
「まだ決めてないの? もう五月も終わるっていうのに」
いつの間にか講義が終わっていて、友人が話しかけてきていた。それはサークルのことだった。
李生は何度か首を振って意識を現在へと持ってくる。退屈すぎる講義は人を回想に誘うからだ。あるいは空想へと。小学生の頃からその傾向が強かった李生は、大学生になって余計に空想に囚われることが多くなっていたが、講義中に教授に隠れてゲームをしたり、出席しない連中よりは幾分かマシだと自分に言い訳をしている。
「あぁー……うん。ちょっとね」
何がちょっとなのか、自分でもよく分からない。けれど友人はそこまで追求せず、李生との会話よりも優先するべき事に気付いたのか、李生と違って入学から脇目も振らずに作った彼氏にインスタグラムでメッセージを送っていた。
大学進学では特に苦労することはなかった。地元にはろくな大学がなかったので受験はしたが、気分的にはエスカレーターのように進学した。大学機関に行ってまで学びたいことと言われても思い浮かばなかったけれど、高校を卒業して自分が働くというビジョンがどうしても湧かず、また両親がともに学士を取っていることもあって、進学は生まれたときには決められていたことのように滞りがなかった。
自分はおおよそ両親の計画通りに生きているように思える。中学受験して私立の中学に通い、そのまま地元ではそこそこ有名な女子校に進み、こうしてそれなりの知名度と偏差値を持った大学に進学した。敷かれたレールを歩くなんてよく言われるけれど、李生はそれが嫌ではなかった。むしろ何の目印もなく人生を歩いている人たちよりずっと幸せだと思っていた。自分が踏みしめているレールは、両親が一人娘に用意してくれた愛なのだと理解できていたから。感謝だってしていた。
けれど時々考える。習い事も学校も、何か自分の意思で決めて努力したことがあっただろうかと。ない訳ではないけれど、それは限りなくゼロに近いというのが答えだ。大人になるにつれてそれは増えていくものだと考えていたけれど、成人式を二年後に控えながら、法律上は大人である18歳になった今でも、李生の意志は希薄なものだった。最近自分で決めたことと言えば、一人暮らしの部屋の家具くらいのものである。それだって母親と一緒に選び、自分だけで決めたとは言いがたい。
友人はまだメッセージをスワイプしている。その四角い電子機器の中に本来、口から発するべき言葉を全て封印してしまったみたいに。顔も見ないで電気のオンオフだけで送られてくる言葉の何が面白いのだろうか。李生には理解できなかったが、幼い自分が空を見ているときにも、他の皆はそれの何が面白いのだろうかと思っていたに違いない。
多数派になっているスマートフォン信者たちを批判するのは、友達を減らす行為だと分かっているので李生は特に何も言わず、まだ次の講義まで20分ほどあることを確認してから、友人の意識が再び自分に戻ってくるのを待った。
「軽音ってさ、興味あったっけ?」
唐突に話すのが友人の癖だった。それも目を合わせないで。もう少し言動に脈略というものを付けて欲しいとは思っていたけれど、そんなところにケチを付けられるほど自分が生真面目な話し方をしている自信はない。
「ある、かな」
殆どないというのが本音だ。全くと言い換えても特に問題がないくらい。しかしそう言わなければ友人が次に用意している言葉を遮ることになるからと、李生は簡単な嘘を吐いた。
「軽音サークルなんだ、彼氏が。その飲み会に誘われたんだけど、すももは行く?」
友人は李生をそう呼んだ。自分の名前が梨川だから、果物コンビだと言って名前という木から果実だけをもぎ取ってしまったみたいに。
「うぅーん……ちょっとね」
「何か弾けるんだっけ?」
「ピアノが少しだけ」
予備校などに行った訳でもなく、気持ちばかりの受験勉強を始めた頃に辞めてしまった中途半端なものだったが、そのくらいの中途半端さが軽音楽には調度いい気もした。そう考えている自分の指は見えない鍵盤を探すように動いていて、自分が考えているほど興味がない訳でもないのだと分かる。
「今日の六時からだけど、どうする?」
梨川は首を傾げた。勢い余って染めてしまったかのような色ムラのある茶髪が目に垂れて、そこには不安の色が見て取れる。
李生は自分が彼女の飲み会の誘いを断るのはこれで何度目になるだろうかと考える。複数のサークルをウィンドウショッピングのように覗き見しては飲み会に参加している彼女は、大学生になってからそのような場に行った数は二桁を超えているだろう。最初の講義で席が隣になって以来、勇気を振り絞った李生から話しかけて友人となり、それから幾度となくそのような席に招待された。そしてその度に断ってきた。お酒が飲める年齢ではない自分がそういった席で雰囲気に流されてしまうのが怖かったからだ。両親にも二十歳になってからと重々注意されていたし、ルールというものは多少頑固なくらい守った方がいいというのが李生のモットーだった。
「行こう、かな……」
ニュアンスに曖昧なものを持たせながらも、肯定的な返事をする。これを断れば次の機会が永遠に失われるのだと梨川の表情から読み取ったから。あるいはそんな考えは杞憂で、彼女はこれからも李生のことを誘い続けてくれるかも知れなかったが、断りすぎていることは李生の心に少なからず罪悪感を積み上げていたし、今回でその罪悪感を一度帳消しにしてしまいたかった。そして大学生になったのだから少しばかり冒険してみたいという気持ちも、李生の背中を押した。
「よかった。連絡しておくね。あっ、お金ある? 三千円くらいだけど」
「うん、大丈夫だよ」
お小遣いは潤沢だ。食費を除いても、高校生のバイト代より幾らか多いくらいには貰っていた。それなりのブランドの化粧品を集めることが趣味だが、それでも有り余っている。
梨川はまだ講義が残っていることも忘れたように、楽しそうに手鏡を取り出して化粧をチェックしていて、その反応に李生の心は幾つかの重しが落ちたように軽くなった。彼女を失望させずに良かったと。一人暮らしの大学生という環境において、友人とは精神的にとても重要なものだから。
「すももって可愛いから、彼氏出来ちゃうかもね」
矯正器具が見える歯を見せて、梨川は李生にはとても真似できない笑顔になる。そのチャーミングな笑顔が梨川の好きなところで、また羨ましところでもある。どうしても愛想笑いのような笑顔しか浮かべられない自分にはない魅力だ。
「うぅーん、どうだろう?」
合コンに行くわけでもないのに、と李生は思った。梨川にとっては、飲み会と合コンの区別はないのかも知れないけれど。その言葉でもう男性がいる環境なのだなと改めて実感する。
小学校以来経験していない共学だったが、現実の男性に雲程の魅力も感じたことのない李生には女子大だろうと問題はなかった。進められた大学が共学だったというだけだ。暇つぶしにボタンを押すだけのアプリゲームのキャラクターたちの方が、まだ恋心に近い感情を抱けた。抱き枕だとかアクリルスタンドを買うまでには至らなかったが、コラボの化粧品が出たときには何となく買ってみるくらいには好感を持っていた。
それでも印象は良いに越したことはないと、次の講義が終わったら化粧室に行こうと考える。今日は特段メイクに気を遣ってはいないが、崩れているだろう化粧を直すくらいはしておかなくては。
「なんか、珍しい先輩が来るらしいよ」
講義室を移動する前に、梨川が独り言のように呟いた。大学という場所には珍しい人がたくさんいるものだと思っていて、この一月でそんなこともないなと結論を出しそうになっていた李生にはいささか嬉しい情報だったが、単になかなか飲み会に来ないだけの人かも知れない。
それでも少し、興味のあることは見つかった。行く理由の足しにはなるだろう。
アルコールと油の匂い。空気はどこか粘性を帯びているように感じてしまう。どちらも好ましいものではないが、別の匂いや空気であったなら、この場所に合ってはいないだろう。
李生は居酒屋というものに初めて来た。まだお酒が飲めない李生にとってそれは当たり前といえば当たり前であったが、周囲のまるでもう大人のように振る舞う学生達を見ていると、自分がその当たり前からハブられた人間のように思えた。
剥き出しの冷房の下で、どれだけ世界が退屈なのかを議論しているように見える彼らは、間違った解釈をした自由を謳歌している。身震いがしたのはその姿が悍ましかったからだろうか。単に冷房が効き過ぎていただけだと考える。
梨川は誰に勧められる訳でもなくビールを頼んでいる。壁に妙にキッチリと張られている女優を真似るみたいに。同学年の学生達もその多くが酒類を飲んでいる。大学近くの居酒屋にある大部屋で、その光景は確かに間違っていないもののように見えた。
視線を落として見えるのはあまり触りたくはない古びた机で、ネッシーに見えなくもない傷がある。手元には自分が頼んだウーロン茶があって、一口飲んでからオレンジジュースにすれば良かったと後悔した。ジュースはあまりにも子供っぽすぎるかなとウーロン茶を選んだが、果たしてウーロン茶とオレンジジュースにはどれだけの差があるのだろうか。少なくとも子供と大人ほどの差はないように思う。
「ねえ、あなたって何学部?」
正面の席の、恐らくは先輩であろう金髪になりきれなかった茶髪の女性が尋ねてきた。右手はレモンサワーのグラスに添えられていて、左手で頬杖を突いている。
体型は痩せ型なのに頬だけがふくよかで、少し訛ったイントネーションも相まって和やかな人のように見える。服装はまだ寒いのに肩がレースになっているベージュのニットだ。座っているので下に何を履いているのかは分からない。しかしスカートであるのは間違いないと思った。あのニットにパンツは合わない。
「えぇっと……文学部の、教育学科です」
居酒屋の喧噪の中で人に聞かせるには声量が足りなかったと思ったが、彼女は聞き取ってくれたようだった。三度ほど顔を縦に振っている。なんだか良く喋りそうな人だ。
「じゃあ同じだね。パートはなんなん?」
言われてここが軽音サークルの飲み会なのだと思い出す。
「まだ決まってなくて……でもピアノが少しだけ」
「キーボードかぁ。うちには少ないから、たくさん声かかるかもね」
別にライブに出たいわけではない。とはこの場では言えない。梨川が早々に彼氏の元に行ってしまったせいで李生は居心地の悪さを感じていたし、先輩という上の繋がりがあったほうが大学生活は何かと便利に進むだろう。話し相手として目の前の先輩は適任に思えたし、よく喋りそうな外見というのも好印象だ。李生は自分から話すことを得意とはしていないし、会話というのは聞く方に回るのが楽で穏便なのだと、これまでの経験から知っている。
けれどその先輩は李生のウーロン茶が注がれたグラスをじっと見つめて、その中身が見間違いではないと確認すると、一応の確認のように尋ねる。
「お酒、飲まないの?」
「えっと……」
視線を逃がすようにウーロン茶に目をやる。反射したサントリーの赤い提灯が見える。そういえば天井に掛かっていた。「未成年なので」なんて真面目な回答をしてもいいのか、苦手という嘘を吐けばいいのか、李生には決めきれなかった。
けれど対面にいる先輩は逡巡を待ってくれなくて、沈黙が最も苦手というように、黙ってしまった李生の前に自分のグラスを突き出してくる。
「私の、少し飲んでみる?」
結構です、という言葉は形を成す前に喉の奥で消えていって、そのせいなのか妙に喉が渇いた。その渇きを潤すために自分のウーロン茶を飲むのか、眼前に差し出されたレモンサワーを飲むのか、李生には選択が必要だった。それは先輩の誘いを断ることと好意を受け取ることの二択と同義だった。
「じゃあ……少しだけ」
断り切れなかったのと、多少の好奇心に負けて、李生は人生で初めてアルコールを口にする。若干口に張り付くような液体が、苦みと酸味と共に流れ込んでくる。不味くはなかった。美味しいと思えるかどうかは別として、飲めない味ではない。
「それ、あげる」
そう言うと先輩は同じものを注文し、サークルについて話し始めた。まるでお酒を飲むのが仲間である合図であったみたいに。
思った通りよく喋る人で、彼女は李生が黙っていても何も問題がないほどに喋った。むしろ彼女の話の邪魔をしないように、口を閉じているのが最も適切な対応のように思えた。李生の口が動くのは微かな相づちと、ちびちびと舐めるようにレモンサワーを飲む時だけだ。
彼女はサークルの中で中心にいる人物らしく、話の途中に多くの人が寄ってきて、気が付けば李生の周囲には男女が複数人座っていた。囲まれているようで落ち着かなかったが、離席するのも憚られた。そのせいなのか、段々と美味しく思えてきたレモンサワーが進む。気が付けば手には二杯目が握られていた。
「ねえねえ、君なに学部なの?」
大学ではまず初めに学部学科を聞くのが決まり事なのか、李生に話しかけてくる先輩たちの多くが多少語彙を変えながら全く同じ質問をした。そして李生もまったく同じ答えを返した。もう受け答えが面倒で、学部学科を書いたプレートを顔に貼ってしまいたい気分になる。
その先輩たちの多くは李生があまり喋らない人間だと分かると、時間の無駄だったとでもいうように一度無表情になって何処かに行ってしまったが、長身で長髪の男の先輩だけはしつこく質問を続けてきた。少し頭がクラクラしてきた李生は無視するわけにもいかなかったので一応答えはしたが気分が悪く、もうこの場を出て行きたかった。
「そろそろ別の飲めば?」
三杯目のレモンサワーが半分を切った頃、長髪の先輩が何か別のお酒を注文した、白黄色の知らないお酒だった。これ以上飲みたくはなかったが、受け取らない訳にもいかない。しかし一口飲むと明らかに先ほどのレモンサワーよりアルコール度数が高く、味も李生の嫌いなグレープルフーツだった。グラスの縁に粒の荒い塩が付着している。何故だろう。
「あの……」
「なあ、今度のライブは決まってる?」
今日はもう帰りますと言いたくて、助けを求めるように視線を梨川の所に持って行くが、彼女は下品な笑いを吐き出しながらグラスを空にするのに夢中のようだ。話しがどこか遠くで聞こえているような感覚になり、隣の長髪の先輩が何を言っているのか分からなくなる。
いつの間にか肩を抱かれて、背筋にナメクジでも這っているような気色悪さが悪寒となって身体を襲った。粘性のある欲望を向けられた気がして吐き気がする。今すぐに隣の男の腕をこの世界から消してしまいたいとさえ思った。しかし振り払う勇気もなくじっとして、言い訳を探しながら周囲を見ると――――
「また、後輩に飲ませてるのか。芸のない奴」
珍しい先輩がそこにいた。
一目で、彼がそうなのだと分かったのは何故だろう。理由を探すように酔って重くなった瞼に力を入れれば、この場所があまりにも合っていないからだと分かった。
白いシャツに控えめに柄の入ったバレンティノのネクタイを締めていて、シャラリとした質感の黒いジャケットを羽織っている。七分袖に捲られたジャケットからは光を反射するほどに色白な腕が伸びていて、黒と調和するシルバーのブレスレットと指輪が見えた。下はチャックが幾つも付いているスキニーパンツと細い腰を締めるダブルピンベルト、そこからはウォレットチェーンが伸びている。居酒屋にいるにはいささかオシャレが過ぎる服装だ。歌舞伎町なんかにいればしっくりくるだろう。
どうしてこんなにも服装が頭の中に入ってくるのだろうと思った。それに周囲が薄ぼんやりとしているのに、彼だけは8Kのテレビを通して見ているように鮮明に見える。
「言っただろ。酒じゃなくて、自分に酔わせろ」
癖のある髪質のブロンド髪が揺れる。左の前髪と毛先が青く染められていて、微かに見える左の耳たぶにはシャネルのイヤリングが見えた。
「その子にはソルティドッグじゃなくて、冷えた空気の方がお気に召すさ」
長髪の先輩は彼に気が付いたときから李生から離れていて、存在するだけで他の学生達の視線を集める、青メッシュが入ったブロンド髪の彼はゆっくりと李生の隣に来て、シルバーの指輪が填められた右手を差し伸べてきた。座っている李生に、まるで騎士が馬上からどこかの姫にするかのように。
何がどうなっているのか分からないまま手を取れば、筋肉を操られたように手を引かれて立たされる。自分の意思で立った気がしなかった。
少し躓けばキスが出来そうなほどの距離。爽やかなジュニパーベリーの香りがして、見た目だけではなく匂いまで、彼だけが違う空間にいるようだった。もしかすれば自分の手を取っている人は初めてのアルコールが見せた幻想で、ここは夢の中なのかもしれない。違うと分かるのはあまりにも、握るその手が暖かかったから。
「お前なぁ、たまに顔出したと思ったら横取りかよ」
長髪の先輩が愚痴のように言う。しかし特段恨めしい目をしている訳ではなく、どこか仕方がないと諦めているような言い方だった。
「お前に温室育ちの花の扱いが分かるのか。そこらの狗尾草でも見繕え。知らないだろうが、白百合は日陰を好む」
「ぇっ……」
白百合とは、それは私のことなのだろうか。そう訊きたかったけれど、「白百合って私のことですか?」なんて自意識過剰に取られても仕方がない言葉は酔っていても言葉に出来ない。
手を引かれて大部屋を出て行き、途中で目が合った梨川はその光景を酔いが覚めたように唖然として見ていた。
急勾配の階段を登って外に出ると、まだコートが必要な晩冬の空気が肺に流れ込んできて、堪った淀みを晴らしてくれるようだった。けれど冷たい空気を深く吸ったことで身震いをしてしまい、肩を抱くと丁度グレーのステンカラーコートがかけられた。
いつ持ってきたのか、それは李生のコートだった。
優雅な誘拐犯のように思える彼は捲っていた袖を直していて、終わるとその冷気の似合う白い顔を李生に向けた。面と向かったのはこれが初めてだ。
「カサブランカ。君に与えられる水にアルコールは早い」
意味は伝わるが、何を言われたのか理解するのには時間が掛かる言葉だった。
カサブランカ、それは有名な白百合の名前。いつからか誰かに言われてみたかった花の名前を言い当てたこの人は、李生のことをそう呼んでいる。詩人なのかも知れないと思った。それか女性を生花にしてしまう魔術師か何かで、先ほどの言葉は呪文なのかも知れない。彼の見た目からしても自分の想像はあながち間違いではないように思える。
それは、夜に浮き出るような白さを持った青年で、青いほどに白く、黒に包まれて銀の輝きを纏っている。ニヒルな印象の垂れ目と左目の涙黒子が特徴的で、若干前髪に隠れてはいるけれど、覗くその双眸は朽葉色をしている。目元には薄く黒いアイシャドウが施されていた。背丈は自分より10センチは高く170前半といったところで、きっちりと第一ボタンまで止めて緩みなくネクタイを締めているのに、どうしても軟派に見えてしまう。新宿で出逢えば間違いなくホストだと勘違いしただろう。実際にそうなのかも知れないが。
「えっと……」
私はこれからどうなるのだろう、と李生は思った。そのままそれを口にしても良かったが、あの場所から助けてくれた人に、まずはお礼を言わなければいけない。
「……ぁの」
身体がびくりと揺れる。未知のものに触れた猫のように。
ありがとうの言葉を探している時に、彼が李生の手を取ったからだ。見た目とは裏腹に確かな温もりを持ったその手は、末端冷え性の李生には心地よかった。同時に彼の手を冷やしてしまわないかと不安になる。緊張による手汗のことも気がかりだ。
しばらく彼の手と合わさった自分の手を、他人の身体の一部のように見つめて、言葉が上手く出てこない李生は黙りこくってしまう。
「駅まで送る。タクシーがいい?」
「ぃ、いえ……電車で」
第一印象よりも若干声が高い。それが彼を不思議なくらい幼く見せた。口ぶりからして二十歳は超えているのだろうが、大人には見えない。もしかすれば一歳差ほどしかないのかも知れない。
左手を緩く握られたまま、駅までの道を歩いた。大学に行くこの一ヶ月と少しの間に何度も通った道だったが、夜だからなのか、隣を歩く人が李生の知らない別世界から来たような格好だからなのか。店や外灯の光はより眩く、通りをすれ違う人々の存在はより希薄になった。なんだか透明な繭の中にいるようで、スキップをすれば身体が浮き出してしまうような危うさがある。いつもは興味がない車の展示場も、いつか自分たちが乗る馬車を飾っている場所のように思えて、テラス席のある喫茶店を見れば、そこに彼と座る自分を想像する。どうしてか不動産屋やラーメン屋などは視界に入らなかった。
自然と車道を歩いている彼は、それが偶然なのか意図的なのかを悟らせまいと無言でいるようだった。ただ繋いだ手のせいで車道側になってしまっただけかも知れないけれど。
「君、向いていないだろうから。ああいった場所にはまだ行かない方がいい」
あえて重心を落としたような声に起こされて前を見れば、駅の入り口が目の前にある。大学まで徒歩5分ほどしかないのだから、居酒屋からここにたどり着くまでに大した時間を必要としないのは当たり前だった。けれど今だけは、もっと遠いキャンパスを願ってしまう。それも別の星にまで歩けてしまうような。
彼を見た。歩いている間ずっと横目で見続けていたけれど、改めて黒い一対の瞳に映す。
月が似合う人だ。月光からでないと光合成が出来ない夜の花のように見える。ジュニパーベリーの香りは長く嗅いでいくと段々と甘くなり、アルコールよりずっと李生の頭をクラクラとさせた。
そっと手が解かれる。今まで繋いでいたのが間違いであったみたいに。李生の指はその手を追って何度か空を撫でて、右手の産毛が逆立った。まるで毛の一本に至るまで彼から離れたくないと主張しているようだった。
「またね」
解かれた手が控えめに振られる。ばいばいと口ずさむようなリズムで揺れる。その長いメトロノームを止めたくて仕方がない。
反射的に手を伸ばした。あるいは衝動的に。そうでないと「またね」という言葉はただの挨拶になってしまって、本当の「またね」の機会が永遠に失われると直感が叫んでいるから。
ふわりとジャケットの裾を翻して李生に背を向ける彼に、手は届かない。李生の伸ばした手はおもむろに過ぎて、彼の背中に指だって届かせることが出来なかった。
それでも手を伸ばす。背伸びをするように踵を浮かせて、肘も指の関節も出来うる限り伸ばして。一歩踏み出すまでの勇気がないから、せめて腕だけはありったけ伸ばした。
必然的に体幹が優れている訳でもない李生はバランスを崩し、伸ばされた手と共に彼へと倒れていく。その体験は重力が月と同じ6分の1になったみたいにスローに感じた。
それを知っていたのか、あるいは視野が後ろにまで及んでいるのか。月の重力の中で緩やかに振り返った彼は李生の肩を抱き止め、李生は慣性のせいで彼の鎖骨の辺りに顔を埋めてしまう。毛先が青く染まった髪からはグリーンアップルの匂いがして、彼は他にどんな香りがするのだろうかと色々な場所に鼻を近づけてみたくなった。反対に自分の方は香水も何も付けていないから、おかしな匂いがしないかと心臓が逸る。
「飲み過ぎたのかな」
李生がどのお酒を何杯飲んだのかを彼は知らない。それを確かめるように高い鼻を近づけて、それから耳まで真っ赤にした彼女の顔を確認した。
「酔ってる」
「……あなたに」
自分の状況をそのまま口にした。アルコールの酔いも潤滑油になって、その言葉はスルリと出てきてしまった。
「……悪酔いだね」
後から思えば、それは断りの言葉だったのかも知れない。李生が彼から離れなかったから、たっぷりと1分ほどは時間をくれた後に、言葉を外灯の光から隠すように耳元に口が寄せられて、秘密の合い言葉を教えてくれるように提案される。
「送ろうか、家まで」
冷たい吐息と一緒に、微かに湿った声が蠱惑的に囁いた。
この提案を受ければ、自分は何かを失う気がした。それは処女かも知れない。ファーストキスくらいで済むとは思えなかった。
彼を見る。その双眸に色欲の色はないのに、冷たい色の炎が揺らめいているように見える。けれど、アレは実際どのくらい熱いのだろうか。赤い炎よりも、青い炎の方が熱いように。灰も残して貰えないかも知れない。それでも冷気さえ感じる彼の中の炎に、自分をくべてみたくなる。
李生は返答の意を込めて彼の手を握る、今度は自分から。そして離すのも自分から決めるのだと、そのひ弱な握力の限りを尽くして強く握る。跡が残るようにと祈るように、とても、とても強く。
パスワードを入力してロックを解除し、二重になっている広尾のマンションの扉をくぐった。まさか最初に部屋に上げるのが男の人になるだなんて、ここを借りるときに予言的に両親に話していたらどうなっただろうか。
二人で電車に乗って、最寄りの駅に付いても握った手を離さなかった李生は、リードの付いた犬のように引っ張られてくる彼をここまで連れてきてしまった。最寄り駅に付いてから幾度も連絡先を訊こうと努力したが、自分の口から出てくるのは「ぁの……」とか「ぇっと……」なんていう言葉にもならないような、殆どうめき声でしかない何かだった。
すれ違ったことしかない隣人達の存在しない視線が肌を刺す。どう思われたっていい人たちからどう思われるのかを気にしてしまうのは、きっと自分が、今からいけない事をしようとしているのだという自覚があるから。
エレベーターが来る。これに一緒に乗ったら最後、部屋に入れない方が不自然かも知れない。まるで自分から逃げ道を塞ぐように思考が回っていて、黙って付いてきてくれる彼は相変わらず何を考えているのか分からない。だというのにその表情からは思案しているような様子がうかがえるのだから、好奇心を揺さぶる表情だと言えた。連絡先よりも「何考えてるんですか?」と訊きたい気持ちの方が強くなってしまうくらいだ。
エレベーターを降りて、部屋に付く。403。それが李生の為に両親が用意してくれたマンションの部屋番号だった。女の子の一人暮らしだからとセキュリティの堅い場所を選んでくれたから、それなりに家賃の掛かる部屋だった。それは娘の身を心配した親心だろう。なのに自分は、間違いを引き入れようとしている。
「ぁっ……」
部屋の前まで来て、李生は惨状という程でもないが好意を持っている男性に見せたくはない状態の部屋のことを思い出す。
「ちょっとだけ……待っててくれますか?」
「……喉が渇いた」
半時ぶりくらいに聞く声は、飲み会に来たのに何も口を付けずにここまで来てしまった彼の状況を思い至らせる。そしてこれ以上待たせるという選択肢を李生の中から消してしまうものだった。
「……どうぞ。汚いですけど」
カードキーを差し込んで扉を開けながら、一応の予防線を張っておく。
廊下はまだ綺麗で、幸運なことに多少脱ぐのに時間の掛かるブーツを履いている彼を置いてリビングに向かった。靴下のせいでフローリングを滑りながらも電気を付けてハンガーに掛けずに放置されている衣服をロッカーに放り投げ、干しっぱなしの下着を寝室に投げ込んだ。ゴミ袋は台所の影に隠して、昨日食べて放置していたスナック菓子の空き袋は隣にあったファッション誌を上に置いて見えないようにする。我ながら無駄のない身のこなしで完璧な隠蔽だったと李生は思う。間違えたのは廊下とリビングを遮る扉を閉め忘れたことで、その一部始終を確りと彼に見られてしまったことだろう。
「あのっ……違うんです」
人が来るだなんて思っていなくて、なんて言葉は釈明になるのだろうか。胸をなで下ろした丁度その時に目が合ってしまった彼は、奇怪な生き物でも見つけた学者のような表情をしていた。目の前で言い訳しながら片付けた方がまだ救いのある印象になったかも知れない。
「良い本棚だね」
最初からそんなものは視界に入っていなかったと主張するように、彼はそう言った。少しの笑顔を添えて。別のものを見ていたのだと。
その視線が部屋の左側にあると分かった李生は、32インチのテレビが置かれているデッキの隣を見た。
それは本棚だ。父親が時間があったら読みなさいと言って30冊ほどのハードカバー本と数冊の単行本とを一緒にくれた、年季の入った焦げ茶色の本棚。白を基調とした家具に水色と空色の小物で統一されている李生の部屋において、それは妖精の森の中に佇む老臣のようだった。この部屋にあるには誰が見ても異質で、貰っておいてまだ一冊も読んでいない李生からすれば時々邪魔だなと感じてしまうくらいのものではあったけれど、彼には違って見えたらしい。
廊下を進んで李生を通り過ぎて、真っ直ぐに本棚へと足を運ぶ。
「帆船の少女、海底2万マイル、蟹工船……他はアレグザンダー・ケントにセシル・スコット・フォレスターばかりなんて、海と船が好きなんだね。それと……冒険も」
冒険、その言葉は妙に李生の耳に馴染んだ。今日の出来事がまさにそれだと感じているからだろうか。
けれど本は全て父親のものだから、当然それらは父親の趣味だ。李生の父の趣味はヨットで、休日のサーフィンも好きだった。小さい頃はよく連れて行って貰っていたけれど、日焼けを気にするようになってからは行かなくなってしまった。
「パパ……父のなんです。まだ、ぜんぜん読めてなくて」
引っ越したばかりだからと言おうとして、それは嘘になるから止めた。父親の呼び方を言い直すのとは違う。なぜだかこの人の前では、嘘を吐くのが憚られる。
「そうだね。蟹工船以外は、暇な時にでも読むのがいい」
「じゃあ、蟹工船は?」
「あまり暗くない時間に、溢れるほど時間のある休日に読むのがいい」
その二つの何が違うのか。李生には分からなかったが、それは明確に区別されているような言い方だった。
「長いんですか?」
それは薄い単行本に見える。
「短いよ。ただ、重いかな。油の詰まった樽みたいに」
どうして水ではないのだろうか。彼との会話は短いのに、疑問符ばかり出てきてしまう。まるで答えを書き忘れた単語帳のようだ。
撫でるように軽く本に触れながら棚を見つめる彼の背中を見て、李生は急いでキッチンにいって冷蔵庫を開ける。麦茶は飲むだろうか。天然水が当たり障りがなくていいだろうか。オレンジジュースという選択肢はあるのだろうか。同時に幾つもの答えが視界に映って、伸ばした手はどれを取ろうかと迷う。
「あの……好きな飲み物って、ありますか?」
言ってから、聞いたこともないオシャレなドリンクの名前でも出てきたらどうしようかと考える。彼の口からはエキゾチシズムのある名前しか出てこないような気がした。稚拙なものや雑多な言葉は彼の辞書に登録されていなくて、あってもそのページを開くことがない。そんな雰囲気がある。
「オレンジジュース、ある?」
しかし勝手な想像とは裏腹に、それは聞き馴染みのあるものだった。あまりによく知っている言葉なので、オレンジジュースというカクテルでもあるのかと考えてしまうくらいに。
彼と自分の分で二杯、底のガラスが空色になっているグラスにオレンジジュースを注いで持って行く。いつの間にかテレビ前のソファに座っていた彼にそれを手渡すと、間違いではなかったのか普通に飲んでくれた。しかし彼のシルバーアクセサリーが輝く手の中にあるだけで、オレンジジュースはまったく別物の、オレンジ色のカクテルに見えてしまう。
李生も一口飲む。いつも通り、濃縮還元のオレンジジュースだ。遠い国からタンカーに乗ってやってきた味がする。でも彼が持っているものは違うかも知れない。きっとそこにはジュニパーベリーが含まれていて、微かなアルコールがある。そして最後にはグリーンアップルの味が残るような気がした。
「ふぅ……」
わざとらしく溜息を吐く。自分の部屋なのに居心地が悪い。
これからどうしよう。どうするのが正解なのだろう。およそ男の子という生き物と関わってこなかった李生には次の展開を予想することは難しかった。一方で彼はそれを格別によく心得ていそうで、窓の外を見ればオレンジジュースを飲むだけで終わるような時間帯ではないのだと、暗さが訴えているようだった。
「青、好きなの」
初めからそこにあったみたいな質問に、微かに首を傾げる。水色も空色も、それは空の青さと同じ色をしている。だから部屋中に飾っていた。他の色は白ばかりだ。けれど彼が部屋の中を見渡している様子もないのにそう言ったから、どこを見ているのかと視線の先を追ってみる。
「っ……」
息が詰まるくらい喉が締まって、李生は悲鳴だって出なかった。彼女は寝室への襖型の扉を締めていなくて、放り投げただけで安心していた幾つもの下着がそこには散乱していたから。それは水色と空色が多くて、後は全て白かった。無意識ながらも内装とまったく同じ配色だ。
扉を閉めに行こうとして駆け出して、しかし真新しいフローリングのせいで靴下を履いた足が滑る。転びはしなかったが地団駄のような事をしただけの自分が恥ずかしくて、隠す気力も失せて、帰ってきてから焦りっぱなしの李生をつまらなそうに眺めている彼を、少しばかり恨めしく見つめた。そして二人がけのソファに自分も座る。視線を合わせたかったのと、単に隣に座ってみたくなったから。けれど彼の横顔を見る勇気はなくて、李生は足下を見つめる。マキシ丈のロングスカートと、白いリボンの付いたソックスが見えた。人は意外と、自分がその日どのような靴下を履いているのかも覚えていないのだなと思った。
「酔い、覚めたかな」
また質問だ。いったい自分は彼の質問にどれだけ答えただろうと、李生は思い返した。あまり答えていないように思う。そして今のは何に対して言っているのだろうと考える。単にアルコールの酔いについてなのか、彼に対しての酔いについてなのか。ニュアンスから、それは両方であるように思えた。
「……まだ、それなりに」
意識は明瞭になっている。むしろ普段よりもハッキリとしているくらいだった。普段は取り留めなく色々なことに意識が散ってしまうのに、今は一つのことを考えているからだろうか。
隣の影が動く。立ち上がるようで、ジュースのおかわりかも知れないと李生も足に力を入れる。けれど身体が持ち上がらない。肩に手が添えられているから。
「君は、もっと真っ白なのかと思っていた」
いつの間にか影は、LEDの明かりを遮るように李生に覆い被さっていた。太股に軽く体重が伝わる。彼はソファに膝立ちになっていて、彼女を押し潰さないように膝に乗っている。
何が白いと思われていたのだろう。そりゃあ肌はあなたの方が白いけれど、と李生は思う。そして今の自分はまったく白くないのだと、高まった体温で分かる。
視界が、網膜が溶けてしまったみたいに熱い。なのに李生を見つめる湖の底に沈んでいる流木のような色の瞳だけは、異様なくらいの明度を保っている。彼と自分の間の空気だけは何よりも透明であるみたいに。
「確かめ、ますか……?」
何を? と自答する。私には分からないけれど、彼はその答えを持っているように思える。
影の中でその白さが分かる彼の白貌がゆっくりと降りてきて、瞬きを止めてしまった李生の睫毛に彼の睫毛が触れた。それは蝶が触覚で挨拶するみたいで、何かの求愛行動のように思えた。それから、唇が触れる。
後味のオレンジジュースはどちらのものだろうか。自分の中で蘇ったものなのか、彼から分け与えられたものか。どこかジュニパーベリーの味がしたように思えるから、それは彼のものかも知れない。
内ももを探し当てるように動いた腕でスカートがたくし上げられる。そうして自分が白に青いレースが施されたショーツを付けていたのだと知った。靴下と同じだ。自分が何を履いたかなんて、あまり覚えていない。
けれど、その後のことはよく覚えていた。短いキスをたくさんされて、それを真似てキスを返して、そうしているうちに衣服を脱がされる。けれどリビングでは下着は残された。「光に君が見られないように」なんて彼は言っていて、電気を消してから寝室に入った。
暗闇で布がこすれる音と、ベルトが外される微かな金属音。ベッドの上で初めて触れた男性用の下着。合意の確認なのだというように李生に下ろさせたそれは、まだ目が慣れていなかった暗闇でも不思議とよく見えた。
カルバン・クライン。彼の細いウエストに張り付いていたそのロゴが、ひどく印象的だった。




