夜の鳥
初めての夜だ。無理矢理初めてを詰め込んだような、そんな夜だった。
私はこの日のために全てのファーストを取っておいたのだと、そんな宿命的な気分ですらあった。
初めて男の子と手を繋いで、初めて異性を部屋に入れて、初めてキスをされて、初めて裸体に触れられて――――初めてセックスをしている。
彼は今も私の上で、その艶やかで艶やかで艶めかしい白い身体を動かし続けている。それは蝶が繭の中から翅を伸ばす仕草を連想させる動きだった。いや、翅ではなく羽で、もっといえば翼だろうか。何故か私の空想上の蝶は鮮やかな青い翼を持っていて、それは昆虫類ではなく鳥類のそれだった。翼を持った蝶のことを私は不思議と違和感なく受け入れられていて、しかしその違和感がないと言うことが違和感ではあった。不思議ではないけれど、それは不自然ではあるのかも知れない。
「――――」
まただ。また彼は、誰かの名前を呼んでいる。私はそれに過剰なくらい与えられる快楽から発せられる嬌声で返すしかなくて、文句を付けようにも意識は空想以外でろくに働かない。
彼の顔が見たかった。光を嫌うように歩く暗い人だから、何度かその白貌を目を見開いて見たはずなのに、まだ明瞭には見ていない気がしている。
手で彼の頬に触れる。長めの襟足が鎖骨にかかっていて、痛んだ毛先がチクチクと手を刺した。光のない部屋では朧気にしか見えない表情を確かめるように触って、彼の輪郭を手に覚えさせようとした。
分からない。笑っているのか泣いているのか、今していることに何の感情もないみたいに無表情なのかも。
仕方なく窓を見た。ベランダに続く大きな窓を。一人暮らしを始めてからとても気に入っている窓を。彼の首筋を透かすように眺める窓からは月が見える。いつもはもっと黄色いのに、今日は妙に青白く見える月だった。薄氷でも張っているのだろうか。誰も生きていけない冷たい世界に無理矢理に神様が水を与えてしまって、誰も困らない氷河期が始まったのかも知れない。
いつもは気にならないのに、冷蔵庫のコンプレッサーの音が妙に大きく聞こえる。色々な感覚が敏感になっているからだ。今、彼の首筋を舐めればとてもしょっぱい気がするし、陰影ばかりで色の乏しい暗い部屋からは、まだ誰も知らない新しい色を見つけられる気がする。
「っ、ねぇ……」
空想中に殆ど無意識に、私は彼に呼びかけていた。きっと心も敏感になってしまったせいだ。
「名前、呼んでよ……」
それは基本的人権くらい当たり前の権利に思えたから。だから呼びかけたときに止まってくれた彼にそう訴えた。
しかし彼は何も言わなかった。基本的人権だってあまり守られてはいないのだと言うみたいに。
「…………」
その沈黙には表情があって、見えない彼がとても困っているのが分かったから。私は基本的人権を要求するのに必要な書類を出し忘れていたことに気が付く。
私はまだ、彼に自分の名前を打ち明けてもいなかったのだ。




