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覚えているのはそこまでだ。どうしてそこで記憶が途切れているのか、いつの間に眠ったのかも記憶がない。気がつけばエイベルは北の塔の中にいた。服は軽装に着替えてあり、思い出そうとすると頭に痛みを覚えた。
国を守るため賢明な選択をした自分が、なぜこの塔に入れられているのか。全くもって納得できなかった。
子爵家の人間であるロザリーがこの塔に入れられることはないだろう。自分のように捕らわれているとしたら、地下牢に入れられているかもしれない。今頃どんな目に遭っているだろうか。それを思うだけで胸が苦しくなるのに、助けに行くどころか自分もまた囚われの身になっている。王子でありながら自分の無力さに歯がみした。
しばらくして、侍女が食事を持ってきた。
黒縁の眼鏡をかけ、化粧もせず、薄茶色の髪を二つ分けにして結んでいるが左右はアンバランスで、髪を縛る紐は太さも色もそろっていない。ずいぶん無頓着な性格らしい。
「ロザリーはどうしている?」
エイベルの問いに、侍女は素っ気なく
「知りません。早く食べてしまってください」
と答え、食事をトレイごと机の上に置いた。
「後で取りに来ます。では」
開いているドアを見て、立ち去ろうとした侍女を突き飛ばして部屋の外に出たが、外には衛兵がいてすぐに捕まった。
「離せ、俺が誰かわかっているのか!」
衛兵は二人がかりでエイベルの腕を捕らえ、強引に部屋に投げ込んだ。これまでこんな雑な対応を受けたことのなかったエイベルは、床に尻をついたまま呆然としていた。兵は自分を守るための存在だった。それなのに自分を見張り、捕らえ、突き飛ばしたのだ。
衛兵の手を借りて立ち上がった侍女は膝から血を流していた。自分が突き飛ばしたせいだ。わかっていたのに謝罪の言葉が出てこなかった。うつむき、目をそらしたエイベルに、侍女はワゴンに載せていた水差しを手に取ると、エイベルの頭上から中の水をぶっかけた。
「っ、何を…」
「目ぇ、覚めた?」
エイベルの言葉を押しとどめるほど、睨みつける侍女の目は鋭く冷たかった。二人いた衛兵も驚きを隠せない様子だったが、エイベルを守ることも、侍女を罰することもなかった。
侍女は逃亡劇のはずみでひっくり返った食べ物を拾い集め、スープと水はそのままにして部屋から出て行った。
一人残された部屋は、目覚めた時以上に寒々としていた。
三十分ほどして、雑なノックの音がしてさっきの侍女が再び現れた。着替えをベッドの上に放り投げるように置くと、
「とっとと着替えてください」
と言って背を向け、床に散らかるスープと水の片付けを始めた。そのそばで衛兵がエイベルを監視していた。
服と一緒に用意されていたタオルで髪を拭き、侍女が掃除に集中しているうちに着替えた。伺いをたてながら服を選ぶ者もいない。着替えを補助する者もいない。着替えくらい一人でできないわけではなかったが、当たり前のようにいた者達がいないことに不安を覚えた。
掃除とベッドメイキングを終えると、侍女はシーツと脱いだ服をまとめて部屋を出た。その後を追って衛兵もいなくなった。あの衛兵は侍女を守るためのものだ。自分ではなく…。
頭にかぶったタオルは柔らかく、ほんのりといい香りがした。
二人の文官が事情聴取に来た外、訪れる人はなかった。外は天気がいいようで、騎士団が訓練をしているのか、遠くで号令が聞こえた。
日付を聞くと、夜会から二日経っていた。ずいぶん寝ていたようだ。
文官達にロザリーのことを尋ねたが、
「今、事情を聞いているところです」
としか答えなかった。
「まさか牢に入れられてはいないだろうな。ちゃんと食事はとらせているのか? 粗末に扱っていないだろうな。彼女には何の罪もない。早急に解放してやれ」
矢継ぎ早に言葉を並べ、ロザリーの処遇を聞き出そうとしたが、何を聞いても
「殿下には一切お答えできません」
としか返ってこなかった。
「ロザリーは聖女なんだ。この国を守るために必要な存在だ。父上に誤解のないよう説明をしたい。エリザベスはロザリーに嫌がらせを」
「陛下はお会いになりません」
文官のあまりに淡々とした回答に、エイベルは立ち上がって机を拳で叩いた。
「俺を誰だと思ってっ」
エイベルの態度に若い文官は怯えていたが、ベテランの方は冷静な目でエイベルを観察し、書類を片付けると早々に聴取を切り上げて部屋から出て行った。
誰も自分を王子として見ていない。そのことに苛立ちを覚えた。
食事を届けるのは起きた時と同じ侍女だ。愛想もなく、王族に敬意も払わない。言葉遣いもぞんざいで、侍女のお仕着せを着てはいるが、正式な侍女ではなく下働きの者なのかもしれない。
食器もカトラリーも全て木でできている。さっきのような騒ぎを起こしても割れることなく、破片であろうと武器になる物を手に入れさせないようにするためだろうか。まさに犯罪者扱いだ。
昼はさほど空腹感がなかったが、さすがに夜には少し腹が減っていた。
侍女はトレイごと食事を置くと早々に出て行き、十五分ほどして再び部屋に着て、食べ終わった食器を引いた。
「お薬です」
トレイに代わって置かれた木のカップには濃緑色の液体が入っていた。あまりいい臭いがしない。もしかしたら毒を盛られているのではないかと疑い、カップのある机から離れようとすると、侍女が廊下にいた衛兵を呼んだ。衛兵は二人がかりで躊躇することなくエイベルを押さえつけると、薬と称するものが入ったカップを手に侍女が近づいてきた。
「ま、待て、なにを!」
「口を開けて」
侍女の指示で衛兵に無理矢理口を開かれ、否応なく口に流し込まれた薬は臭いだけでなく味もひどかった。幼い頃からちょっとした毒には慣らされてきたが、訓練で含んだ毒でもなかなか味わったことがない、味覚で人を殺せそうなほどのひどい味だった。
むせて咳き込むエイベルを放置して、衛兵も侍女も出て行った。
朝使ったタオルで口元を拭った。服についた薬を見て、汚れたものをそのまま着ている自分が恥ずかしく、ひどく惨めな気分になった。普段なら汚れれば即座に着替えが運ばれてくるのに、侍女が戻ってきそうな様子はなかった。
薬が効いてきたのか眠気が襲ってきて、ベッドに横になると何を考える隙もなくエイベルは眠りについていた。いつも繰り返される夢さえも見ないほどに深い眠りだった。