16 エリザベス 7
自分が蹴り倒した手前、目が覚める所は見ておかないと。
夜会を抜け出したエリザベスは公爵家に戻ることなく、動きにくいドレスを脱いで侍女のお仕着せを借り、数人の衛兵と共にエイベルの眠る北の塔の一室にいた。
気絶している間は良かったが、夜中になってエイベルはひどく暴れた。すぐにエイベルを縛らせ、あのまずい薬をスプーンで少しづつ飲まそうとしたが、飲むより出す方が多い。
「押さえつけて」
エリザベスはエイベルの前髪をつかみ、顎を押さえさせると無理矢理薬を口に入れた。何口か含むと徐々に大人しくなり、やがて眠りについた。
しかし今度は夢の中でうなされていた。
「ロザリー、…ロザ」
愛しい人の名を呼ぶ割にはうなされ、苦しそうだ。
腕輪が妙な光を放っているのに気付き、エリザベスは腕輪を取り上げた。手に取った腕輪に痛みを感じて思わず放り投げたが、代わってつかもうとする衛兵を止めて持っていたハンカチで挟み、トレイの上に置いた。
腕輪は小刻みに震え、呪いの呪文を思わせる不気味な音が聞こえてきた。腕輪の内側には怪しげな呪文が彫り込まれ、エイベルの腕には呪文が痕になってついていた。むやみに触れないよう声をかけ、部屋から持ち出させた。
毎晩あんな呪いを受けていたのだろうか。これほどまで薬やら呪いやら受けながら、よく持っていたものだ。
エイベルはどちらかというと大人しく真面目で、感情表現も豊かではない方だが、意志は強い。こういう人間が洗脳されるとやっかいだが、自分を取り戻せるかどうかはエイベル次第だ。
翌日は目が覚めてもロザリーを求めて暴れ、薬で眠らせる、その繰り返し。目を見ればまともじゃないのはわかった。急に薬を止めた反動だろう。腕輪がないのが気になるのか、腕をかきむしろうとする手を抑えるとしっかりと握られ、そのまま寝てしまった。大人しくなったならいいか、と深く眠るまでそのまま手を握り、子守歌代わりに鼻歌を歌った。
次の日には、脱走を試みられ、突き飛ばされて不覚にも転倒してしまった。寝不足とは言え、受け身も取れないとは。エリザベスは自分の修行不足を感じながらも、むかついて頭から水をぶっかけてやった。品行方正な王子などどこにもいない。人に危害を加えるような奴に容赦するものか。
しかし自分もエイベルに問答無用で回し蹴りを喰らわせている。当人は気付いていないだろうが、仕返しされたと言えなくもない。
膝の痛みに腹立たしさを感じ、次同じことをされたら、足をへし折ってやることを決意した。
膝の治療を終えると、エイベルの着替えを受け取り、部屋の掃除に戻った。顔も見たくなかった。さっさと片付けて立ち去り、護衛の詰め所で仮眠を取った。
王と公爵へ状況を報告し、今日の薬を受け取りに行く。二つ受け取り、ブライアンの分はキャサリンに渡した。ブライアンはまずい薬に顔はしかめるが、キャサリンの言うことは聞いてくれるらしい。無理に飲ませなくていいのは羨ましかった。
護衛の仕事では侍女に扮することもあり、そうした訓練も受けている。今でこそ公爵令嬢を名乗っているが、元々は父と二人で町中の小さな家に住んでいた身だ。掃除だって、ベッドメイキングだって自分でやっていた。
自分を世話してくれる公爵家の侍女を思い出してみる。熱すぎず冷たすぎず快適な温度のお湯、時々精油を入れてくれている時があって、ほのかな香りが嬉しかった。エイベルの侍女ヘレンからサイプレスの精油を借りて入れてみた。いつも使っている柔らかで上等なタオルを準備する。北の塔にはそぐわない、何て贅沢な幽閉だろう。
暴れることは徐々に少なくなっていったが、聖女様への妄信は収まらなかった。
散歩と称して部屋を出たがり、賄賂をほのめかされた。銅貨の一枚も持っていないくせに。エリザベスが指摘すると、恥ずかしそうにしていた。ざまあみろだ。
昼にはここを出せと大暴れしていたが、誰も相手にしないよう厳しく言っておいた。やがて収まったが、激しくドアを打ち付けた手から血が出ていた。まだ薬が抜けきっていない。食後に痛々しい手の治療をした。
どんなに抵抗されてもあの薬だけは飲ませると決めていた。あの薬を飲めば深く眠れるようで、翌日調子が良い。
医者から別の薬が出た。肝臓が弱っているらしい。せっかくの薬も飲まなければ効かない。エリザベスは無理に飲まそうか悩んだが、本人も飲まなければいけないと思ったようだ。意外と早く聞き分けが良くなってくれて助かった。
護衛のフランクにエイベルの部屋にあった本を持ってきてもらい、差し入れた。退屈しのぎになるかと思ったが、本の受け渡しは外部とのやりとりに使われることがあり、時には不利な証拠をねつ造されることもあって北の塔では基本禁止されているようだった。しかし今回の幽閉は薬の影響が抜けるまでの仮の処分だ。
フランクの選んだ本は数学にお堅い歴史物語。どちらもエリザベスは読みたいとは思わなかった。
途中部屋を覘くと、エイベルはもう眠っていた。深い安らかな眠り。額に手を当てたが熱もない。エリザベスは安心して部屋を出て、その夜は使用人用の一部屋を借りて眠った。
次の日はおやつも用意した。おやつは心の安らぎだ。
上の階にいるブライアンと、その日も付き添っているキャサリンにも届けた。
ブライアンは治療が進むごとにキャサリンへの溺愛心を無くし、あまり会話も弾まなくなったようだ。ブライアンの方が先に北の塔から出られるだろう。それがキャサリンとの別れの時だ。
呪いで愛されて、呪いが解けたら愛も冷める。それはなんて悲しいことだろう。それでも父親の罪を償うためブライアンが治るまで付き添うと決めたキャサリンを、強い人だとエリザベスは思った。
その翌日、ブライアンは北の塔を出た。
エイベルにはもう少し時間が必要だった。
体を拭くための湯とタオルを用意したが、背中に届かず困っていたので代わりに拭くと、恥ずかしそうにされた。
恥ずかしいものなのだろうか。護衛の連中はしょっちゅう上半身裸になって汗を拭いている。こんなことに恥ずかしがっていては護衛など務まらない。この王子は思った以上に女性が苦手なのかもしれない。よくこんな男と婚約していたな、と自分のことながら不思議に思えた。
名前を聞かれ、侍女ごときに関心を持つようになったのに驚いた。ロザリーだけに縛られていた視野が広がっているのはいい傾向だ。とっさに昔の名前が口をついた。よく似た愛称で呼ばれていたのに、エリザベスのことを思い出しもしない。薄情なものだ。
その夜、一度薬を止めて様子を見ることになった。
案の定うなされ、何かと戦っているように見えた。悪い夢を見ているのだろうか。寝汗を軽く拭き取っていると手をつかまれた。落ち着かせるために軽く手を添えて、力が緩まるのを待った。
ここに来てすぐの時に比べればずいぶんよくはなっているが、まだ薬の影響が抜けきっていない。薬師の想定より時間がかかっているが、もう少しの間薬を飲み続ければ元のような落ち着きを取り戻せる日は近いはず。
何かのはずみで、緩んでいた指がぎゅっと締まり、エリザベスを引き寄せた。
背中に手が回り、エイベルに抱きしめられているのに気がついた。殴りも蹴りもした相手だが、自分より太くてしっかりとした腕が緩やかに締め付けを増し、頬に触れる胸はエリザベスにとって未体験の感覚だった。
父は褒めてくれても、頭を撫でる程度だった。伯父や伯母、従兄姉達にはそんな愛情表現を求められるものではない。乳母に抱きかかえられたことはあったかもしれないが、そんな記憶も消えていた。
困りながらもほどけない。そんな矛盾した気持ちを抱えたエリザベスを正気にした言葉。
「…ロザリ…」
即座にエイベルを突き飛ばし、ぶん殴っていた。
この男が求めているのは自分じゃない。婚約者のエリザベスでも、世話を焼く侍女のリジーでもない。何を勘違いしていたのか。
寝ぼけて間違えられただけだ。わかっていた。自分が必要とされていないことくらい、わかっていたのに。
エリザベスは衛兵を呼び、殴られてもうろうとしているエイベルに薬を含ませた。薬で汚れた口元を拭くことさえせず、それでも眠ったのを見届けてから部屋を出た。
前日のことをエイベルは覚えていなかった。
朝の世話を終えると、エリザベスは一度公爵家に戻った。
「今日で、殿下の護衛を終えます。…明日、修道院に行きます」
公爵は、王子の世話を通して二人が良好な関係を取り戻すかもしれないと淡い期待を抱いていたが、気丈にしながらも目を腫らしていたエリザベスを見て、これ以上無理を強いるのはやめ、当初の約束通り王家からも公爵家からも解放してやることにした。
普段通りに、最後のお世話役をこなす。
エイベルは明日には北の塔から出られることになった。今日がこの塔での最後の日。自分がいなくなるには丁度いい。本人にはそれを伝えることなく、いつも通りの手順でおやつを出し、食事を出し、薬を出した。
「この薬、ちゃんと一人で飲めますよね?」
もう無理に飲ませることはないだろうが、何となく心配で聞いてみた。
黙って二つの薬を飲みきり、水を渡すと顔をしかめながら一気に飲み干した。
本の差し入れも、もう必要ない。
もう眠った頃かと部屋の様子を見に行くと、すやすやと寝息を立てていた。
ずいぶん手間のかかる人だった。これでもう会うこともないだろう。
「…おやすみなさい」
さようなら。
エリザベスは北の塔を出て、王城を離れた。




