10 エリザベス 1
エリザベス・シーウェルは、生まれたその日に両親の不仲の原因になった。
難産の末にようやく生まれた子供。しかし男の子の誕生を待ち望んでいた父は、母をねぎらうこともなく、子供を見るなり一言
「女か…」
と言ってしまった。
そのつまらなそうな顔に、一瞬にして母は父への愛情をなくした。子供に罪はないのだが、夫への愛と同時に子供への愛も消え去り、産後の体調不良を理由に育児放棄は続き、代わりに雇われた乳母がエリザベスを育てた。
エリザベスが四歳の時、討伐中に負った怪我が原因で父は王城の騎士団をやめることになり、それを機に父と母は別れた。母は父からもらった服や宝石は全て持って行ったが、エリザベスは置いて行った。母がエリザベスにくれたのは命と名前だけだった。
その後父は王都から離れた西部の街で商家の護衛をするようになった。
使用人を雇えなくなると、父は娘を育てるのをやめた。エリザベスは普段はリジーと呼ばれ、お古の男物の服を着て髪も短く切り、野原を走り回っていた。体を鍛え、父から剣を学び、乗馬もお手のもの。誰もがエリザベスが女であることを忘れていたが、一番忘れていたのは当の本人かもしれない。
周りに同じ年頃の女の子が少ないうえ、女の子達にとってエリザベスは意地悪な男の子から守ってくれる完璧なナイトだった。女の子は一緒に遊ぶ友達と言うより守るべき相手。人形遊びも知らず、おしゃれにも関心を寄せることなく、気がつけば十歳になっていた。
祖父が亡くなり、久々に父の生家であるシーウェル公爵家を訪れた時、「エリザベス」という名の男の子にしか見えない子供の存在に親戚一同はそろって危機感を持った。幼い今はともかく、これから先、体型も変わり、やがて恋の一つもするだろう。それなのにドレスはおろかスカートをはいたこともなく、大股で走り回り、片膝を立てて座り、大口を開けて笑う。公爵令嬢に向かって「姉貴!」と呼びかけるなど、公爵家一族の娘がそれでいい訳がない。
新しく公爵になった伯父の命令でエリザベスはそのまま公爵家に残り、従姉である令嬢パトリシアについて行儀見習いをすることになった。父も公爵である兄には逆らえず、自身の生活の支援と引き換えに兄の元にエリザベスを預けることを了承した。
父がエリザベスを男として育てたのは男子を望んだこともあったが、それ以上に女として育てればあれこれ金がかかることを厭ったのだろう。怪我をした元騎士に金銭的なゆとりなどあるわけがなく、葬式に来てまで金の無心をしたくらいだ。母がいなくなってからは頻繁に酒を飲むようになり、子供の教育費をケチって酒代に回していた。それでも父との暮らしでエリザベスがひもじい思いをすることはなかったし、剣が上達すれば褒めてくれた。商家の馬の世話がてら乗馬を教えてくれたのも父だ。皆無な母の思い出に比べれば、父との暮らしはそう悪いものではなかった。
公爵家では一日中丈の長いスカートでいなければならなかったが、着慣れないエリザベスには動きにくくて苦痛だった。自分の体にぴったり合わされ、高級な素材でごわつきのない服は着心地は良かったが、父との暮らしでは手の届かない品に慣らされてしまうのも怖い気がして、早朝や自由になる時間は自分の服を着て剣の素振りをし、本来の自分を忘れないようにした。
文字や計算は父が教えてくれていたが充分ではなく、公爵が家庭教師をつけてくれた。エリザベスは伯父の配慮に感謝し、期待に応えられるよう勉強にも力を入れたが、幼い頃から家庭教師について学びを深めていた従兄姉達に比べるとどうしてもできは良くなかった。行儀作法はさらに進まず、所作の型を学んだところでドレスを着ても女装をしているようにしか見えず、意識すればするほど機械仕掛けのように動きはぎこちなくなった。
護衛に混じって剣を振る姿の方が様になる。それは自他共に認めるところだ。エリザベスは公爵には悪いと思いながらも、令嬢として生きることは早々に諦めていた。
一年後に迎えに来る。そう言って別れた父は半年後旅先で強盗に襲われ、商家の主人は守りきったものの、自身は深手を負い、命を落とした。
帰るところをなくしたエリザベスは、そのまま伯父に引き取られることになった。
父を亡くしたことが信じられず、ひどく落ち込み、食事も喉を通らない日が続いたが、伯父夫婦や従兄姉達に励まされ、公爵家の家令や護衛とも仲良くなり、エリザベスは少しづつ悲しみを乗り越えていった。
従姉のパトリシアは王太子エイベルの婚約者候補の一人で、しばしば王城に出向いていた。
エイベルはパトリシアより五歳年下で、お茶会に呼ばれても会話が長く続かず、困ったパトリシアはエイベルと同い年のエリザベスに一緒についてきてほしいと声をかけた。
王城のような礼儀に厳しい場所に行くのはどうしても気が引け、渋るエリザベスにパトリシアは
「そばにいてくれるだけで心強いの。お願い、助けて。私の護衛になってちょうだい」
と両手を取り、しっかりと握りしめながら頼んだ。そんな風に頼られるとエリザベスは断ることはできなかった。
しかし実際に王城に行く時はドレスを着せられ、剣のような武器を持つことは許されず、頼まれた護衛役とは程遠かった。
突然現れた婚約者候補の従妹にも、エイベルは礼儀正しく接した。
まずは王子であるエイベルへの挨拶だ。
筋力はエリザベスの方が上だが、パトリシアは挨拶中に体を揺らすことはなく、作法の先生がいつも言うような角度でぴたりと動きを止めた。
パトリシアに続き、エリザベスもドレスをつまみ、深く礼をした。優雅さはなかったが、パトリシアと同じ角度でぴたりと体が止まり、ふらつくこともなくその姿勢を維持した。
「先日お話ししました、従妹のエリザベスを連れてまいりました」
「…、……、エリザベス、です」
「気楽にしていい。まあ、かけてくれ」
言葉をそのまま受け取らないこと。そう言われていたエリザベスは、慎重に気楽モードには切り替えずパトリシアの頷きを確認し、パトリシアの後について歩き、手で合図された通り隣に座った。
エイベルとパトリシアとのお茶会はいつも話題に事欠き、沈黙が続いていたのだが、この日は早々にパトリシアが話題を振った。
「この子の話、とっても面白いんですのよ。ほら、この前聞かせてくれたあの話…」
エリザベスはリクエストされるまま、父と一緒に熊を倒した時の話をした。以前公爵家で話したことがあったのだが、都会の貴族には物珍しいらしく、エイベルもまた興味を持って聞いていた。
薄桃色のふんわりとしたシフォンのドレスを着た令嬢は王子の目の前で
「があおおお」
と唸り声を上げると立ち上がり、爪を立てるように半分握った手を胸の前で構えた。熊の登場だ。
時に父や周りの大人の様子を演じ、死闘を再現してやられた熊さながらその場にバタッと倒れた。服や髪が乱れても気にもせず熱く語る姿に、部屋に控えていたエイベルの護衛も笑いをこらえきれていなかった。優雅な所作の貴族令嬢を見慣れたエイベルにはなかなか新鮮だったが、その反応は珍獣を見たようなものだった。
家に帰ってからやり過ぎだとパトリシアと侍女に叱られたが、王子へのはじめの挨拶の出来と、一日ドレスで我慢できたことは褒められた。出されたお菓子は今まで食べたことがないもので、パイ生地の中に新鮮なイチゴと二種類のクリームがいっぱいに詰め込まれ、それが実においしく、それだけでもエリザベスは今日のお茶会に参加できて満足していた。
王子の受けが良かったことに気を良くしたパトリシアは、行儀作法の実習としてその後も時々エリザベスを王城に同行させるようになった。それには、自分には若すぎる王太子を別の令嬢に、出来れば公爵家に縁のある令嬢に目を向けてもらいたい意図もあった。しかしエイベルもエリザベスも互いを異性として意識することはこれっぽっちもなかった。




