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目覚めるとエイベルは、王城の北の塔の一室にいた。
窓は高所にあって部屋は薄暗く、絨毯は敷かれていたが石造りの部屋は寒々としていた。
ここは王家の罪人を幽閉するための場所だ。
ルージニア王国の第一王子として生まれたエイベルは、この国の有力な貴族シーウェル公爵の令嬢エリザベスと婚約を結んだ。公爵令嬢と王子との良縁を誰もが羨みつつも王子に最もふさわしい相手と評価し、来るべき王太子妃の誕生が待ち望まれていた。
王子の婚約から一年足らず、国の南端の小さな領で、養護院で暮らす身寄りのない娘が数々の奇跡を起こしたと噂になった。
瀕死の者が生き返った。
立てなかった馬が走り出した。
凶暴化した野犬がその姿を見ただけで逃げていった。
領内に魔物が現れなくなった。
やがて娘は聖女なのではないかと言われるようになり、領主であるバーギン子爵はその娘ロザリーを養子として引き取った。
この世界では時折特別な力を持った女性が現れ、敬意を込めて「聖女」と呼ばれた。聖女がいる国には厄災や魔物が寄りつかなくなり、国に安寧をもたらすといわれている。その力を確実に国に留めるため、国策としてその国の王族が聖女と婚姻を結ぶのはよくあることだった。
しかし今回は王子と聖女との婚約は検討されなかった。この国には三人の王子がいたが、年齢的に釣り合うエイベルにも弟のブライアンにも既に婚約者がおり、もう一人の弟リチャードはまだ七歳。婚約者を決めるにはまだ早いと王が判断したのだ。
期待していた王家との婚約が果たせなかったバーギン子爵は、ロザリーを王都にある王立学校に進学させることにした。
ロザリーは貴族としての礼儀もままならなかったが、婚約者のいない聖女を取り込もうとする貴族家の男子生徒がロザリーの機嫌を取り、何とか自分の家に取り込めないか画策した。自然と貴族令嬢からの評判は悪くなったが、ロザリーには変わろうという意欲が見られなかった。
王都に来てから噂されていたような奇跡は見られず、本当に聖女なのか疑わしく思う者も少なくなかった。するとロザリーは貴族令嬢達の冷遇が怖くて治癒の力がうまく使えなくなったと泣きだし、信じる者は同情を寄せ、むしろ魔物や流行病がない現状こそ聖女の恩恵なのだとロザリーをかばった。
しかし信じない者はますます反発を強めた。
つまらないいじめは徐々に激しくなり、いつしかそれを煽動しているのは第一王子の婚約者エリザベスだと噂されるようになった。聖女に婚約者を取って代わられることを恐れているのだと。
そんな中、二階の窓からロザリーに向けてバケツの水がかけられる事件が起きた。近くを通りかかったエイベルが気付き、ロザリーをかばって大半の水をかぶった。即座にエイベルの側近が犯人を捕らえたが、ロザリーと同じ学年のレストン子爵令嬢だった。令嬢は震えながら答えた。
「エ、エリザベス様から頼まれたんです。…殿下にかけるつもりなんて…」
その後は泣きじゃくるばかり。被害を受けたのは王子だったが、エイベルは事を荒立てることを望まず、学校の中で起こった事件は学校に任せることにし、令嬢のことは教師に委ねた。
令嬢は取り乱して事情を聞くこともままならず、一端家に帰らせたが、翌日、令嬢は学校から処罰を受ける前に自主退学していた。王家への不敬を罰せられることを恐れた子爵が処分が下る前に早々に娘を修道院送りにしたのだが、秘密裏に国外に逃亡したともささやかれ、背後にさぞかし強力な伝手があるのだろうと噂になった。
聖女を守らなければいけない。
エイベルは犯人と思われる自分の婚約者エリザベスを牽制するため、極力ロザリーのそばにいるようになった。側近達は王子がすることではないと止めたが、エイベルは自分のせいでロザリーに害が及ぶのを忍びなく思ったのだ。
エリザベスを遠ざけ、時間が合う限りロザリーと共に過ごすようになると、自然と二人は親密になっていった。助けた礼にともらった揃いの腕輪を見るとエイベルはロザリーを思い出して胸が高まり、授業が早く終われば待ち合わせして共に過ごし、誘われるまま街に出たこともあった。
このままロザリーが何事もなく過ごせるようになればいいと願っていたが、エイベルがいない時を狙って嫌がらせは続いた。私物の紛失、実験中の事故、植木鉢の落下、階段からの転落未遂など、いたずらでは済まされない内容にエスカレートしていった。
エイベルはエリザベスに直接これらの事故のことを尋ねたが、エリザベスは表情一つ変えずに答えた。
「そうした事故があったとは伺っております。ですが、それと私にどのような関係が?」
可哀想なロザリーに同情を寄せるような気配さえなく、自分の無関係だけを主張するエリザベス。その姿にエイベルは腹立たしさを覚えた。
「しらばっくれるのか」
らしくなく声を荒立てたエイベルに、
「身に覚えのないことで責められるのは不本意です。ですが、殿下が私よりバーギン子爵令嬢をお選びになるというのでしたら、私に異存はありません」
エリザベスは全く動じる様子もなくそう言い切った。婚約継続に執着しないならこんな嫌がらせをする必要はない。しかしそれが本心なのかどうかはわからなかった。
その週末の王家主催の夜会に、エイベルは婚約者であるエリザベスをパートナーに選ばず、ロザリーをエスコートした。エリザベスとは口論したばかりで気まずく思っていたところに、初めての夜会参加を不安がるロザリーにすがるような目で頼まれ、ドキリとする心のままに思わず承諾してしまった。
白をベースに緑の飾り襟、淡い緑の刺繍の入ったタイにエメラルドのタイピンをつけたエイベルと、緑のシフォンのドレスにペリドットのネックレスとイヤリングをつけたロザリー。並ぶ二人は互いの思いを周りに知らしめるかのように揃いの装いになっていた。
他の女を連れた婚約者を前にエリザベスは顔をこわばらせたが、ゆっくりと二人の視界に入らない場所へと移動した。
エイベルがロザリーと離れて来客と歓談している中、ガラスの割れる音がした。周囲の視線の集まるその先には、ドレスに赤いワインがかかり、立ちすくむロザリーがいた。
「ひ、ひどいわ、エリザベス様」
その前に立っていたのはエリザベスだった。
それを見たエイベルは二人の元に駆け寄った。何があったのか確認するつもりだったのに、赤いワインの色が目に映った途端、スイッチが入ったかのようにいつにない怒りの衝動が走った。
「エリザベス・シーウェル嬢、聖女ロザリーに対する数々の嫌がらせ、目に余る。おまえとの婚約は破棄だ!」
気がつけば、そう叫んでいた。
ロザリーはエイベルの後ろに隠れ、背後から両手でエイベルの腕をつかんでいた。自分の婚約者とそろいの格好の女が婚約者にしがみつく姿を見てもエリザベスは動じていなかった。エイベルは言葉を続けようとしたが、それを遮るようにエリザベスが口を開いた。
「承りました」
瑠璃色のドレスを両手で持ち上げ、深々とエイベルに礼を向けた。