果たせなかった約束 番外編
携帯がメールの着信を告げる。持ち主がいない携帯を充電し、電源を入れておくのは、あの子のことを、今でも待ってくれている女の子のためだ。
メール画面を開く。送信は唯子ちゃん。おそらく、潤南にとって特別な女の子なのだろう。
――今までありがとう。潤南と出会えてよかった。元気でね。
それを読んで、ついにこの日が来たと思った。唯子ちゃんの中から、あの子の存在がなくなる日が。でも、唯子ちゃんを引き留めることはできない。彼女はこれからも、いろんな人に出会い、生きていくのだから。潤南が生きることの出来なかった未来を、彼女は生きていくのだから。
「これでよかったよね」
写真の中で笑うあの子に問いかける。もう、携帯は必要ない。電源を切った。
潤南が亡くなって、初めての春を迎えている。
***
潤南が体の異変を訴えたのは、中二の冬休みだった。
「足が痛い」と言う。それを聞いて、私は「成長痛じゃない?」と返事したのだった。同じように男の子を育てるママ友から、聞いたことがある訴えだと思った。中には夜眠れないほどの痛みが出ることもあるらしい、と聞いていたので、私もそうだと思った。
そして、三学期に入ってすぐ、今度は「バスケ部を辞めたい」と言い出した。潤南は小さい頃から、地元のミニバスケチームに入るくらい、バスケが好きだった。テスト期間中、部活が休みになると勉強もそこそこに、マンションの裏の公園に行き、ボールを触っていた。
それくらい好きだったはずなのに、なぜ突然、辞めたいと言うのか。私が思い当たったのは、〝いじめ〟の可能性だった。
「どうして辞めたいの?」と訊くと「だって、足が痛くて仕方ないから。前は、部活や体育で動かすと痛かったけど、今は何もしていなくても痛い」と言う。それを聞いて、もし、いじめのような目に遭っているなら、心理的なものから来る痛みかもしれないと私は思ったのだった。
「何か困ってることとかない?」
そう訊くと、潤南は不思議そうな顔をした後、
「だから、足が痛くて困ってる!」
と、ふてくされるように言った。
***
なぜあの時、すぐ病院に連れて行かなかったのだろう。後悔してもしきれない。
主人にも潤南とのやりとりを伝え、部活を辞めさせ、しばらく様子を見ようということになった。もし、いじめなら、何かしら他にもサインを見せるかもしれない。足の痛みが酷くなるようなら、病院に連れて行くことも考えようと。
それから一ヶ月が経とうとする頃のことだった。様子に変化は見られないものの、足の痛みは続いていたようだ。ある日、お風呂上がりに、潤南が足を引きずるように歩くのを目にした。
「そんなに痛いの? どの辺りが痛むの?」さすがに気になって訊いた。
「この辺」と膝をさする。ルームウェアのスウェットを潤南がたくし上げると、右膝が腫れぼったく見えた。
「腫れてるんじゃない?」潤南の膝に手を当てると、何となく熱を持っているようにも感じた。「腫れてるのかな?」と潤南は首を傾げる。
この時に、病院に行ってみようと、ようやく思ったのだった。
***
翌日、私が仕事から帰るとすぐに、近所の整形外科へと連れて行った。診察室で問診され、患部を見せると、医師はどことなく慌てた様子になった。レントゲンを撮り、そして言われたのだった。
「S医療センターに紹介状を書いて、日程を調整しますので、決まり次第すぐに行って下さい」と。
それを聞いて、頭の中が真っ白になった。湿布なり痛み止めの薬なりをもらって終わりではないのか。潤南がどんな顔をしているのか、怖くて見れなかった。
日程はすぐに決まった。翌週の水曜日から三日間、検査入院をすることになった。S医療センターは、子どもの難しい病気の治療に特化していて、私達の暮らすこの街から、新幹線に乗らないといけない場所にあった。
そのホームページを見て、主人と私は絶望の淵に立たされた。〝癌〟という言葉を見つけてしまったのだ。まだ、確定した訳じゃない。そう思うも、もしかしたら癌なんじゃないか。夫婦二人で、声を殺して泣いた夜もあった。
そして、検査入院の日、私と潤南は一緒にS医療センターへ向かった。その頃、潤南の足の痛みは、大腿骨辺りまで広がっているようだった。CT、MRI、レントゲン、病理検査、血液検査……ありとあらゆる検査を受けた。
潤南はあの時、どんな気持ちでいたのだろう。淡々と検査を受け、検査の合間には普段と変わらない様子でテレビを見、出された病院食を黙々と食べていたけれど、本当は心細かったんじゃないだろうか。
***
検査の結果〝骨肉腫〟という、骨の癌だということがわかった。検査結果を聞く日は、弟の聖南と潤南を両親に預け、夫婦二人で出かけた。覚悟はしていたけれど、癌だと確定した時のショックはとんでもなく大きかった。
すぐに入院治療が必要とされた。そして、告知を受けた翌週に入院することが決まったのだった。私達二人は、病院で思い切り泣いた。家に帰った時、潤南の顔を見ても、涙が出ないように出し切っておきたかった。でも、泣いても泣いても、涙が枯れることはないような気がした。
二人で話し合って、潤南には膝に腫瘍ができているので、入院して治療をする、と伝えることにした。私が付き添うということ、手術を受けること、入院が長引く可能性があるということも。
家に帰り、主人が潤南にその話をした。潤南は落ち着いて話を聞いていたようだ。そして、聖南にもそのことを、伝えておかなければならなかった。
聖南には私から話した。「わかった」と意外にもあっさりとした返事が返ってきた。それが逆にありがたかった。「どんな病気なの?」とか「どれくらい入院するの?」とか訊かれていたら、私は泣いてしまったかもしれない。
息子達の落ち着いた態度に救われたのだった。
***
学校への連絡、職場への休暇申請を一度にしなければならず、その間は少し潤南の病気のことを、頭の隅に追いやることができた。
桜の木がピンク色に染まっている。本来なら進級に向けて、心がそわそわと落ち着かない時期だろう。でも、今年の春は、そんな例年通りの落ち着かない気持ちを抱くことはできない。
せめてもの救いにと、潤南に携帯を買ってあげた。これから始まる過酷な治療と、孤独な入院生活が少しでも楽になるなら……と思って。
そして、入院。その時に、担当医から追い討ちをかける事実を告げられた。
「肺に転移が見られる」
と。
「そのために呼吸障害が出てくる可能性がある」
と。
なぜ。なぜ、潤南なのか。この子が悪いことをしたというのか。いや、私の育て方に何か間違いがあったのか。ちがう、もっと早くに病院に連れて行くべきだったのだ。打ちひしがれていると、年配の看護師さんが、言葉をかけてくれた。
「病気は、お母さんのせいではないですよ」と。その言葉に救われた。
***
治療は付き添っている私自身が疲弊してしまうほど、過酷なものだった。
入院して三ヶ月間。まず薬物療法を受けた。その副作用による吐き気や嘔吐、口内炎に苦しむ様子は、側で見ている私も辛かった。
吐き気と口内炎の痛みに耐え、潤南は毎日を頑張って生きていた。携帯がメールの着信を告げると、どんなにしんどくても、潤南はそれに手を伸ばした。
ゆっくりと文字を打ち込む。きっと、短い文しか書けなかっただろう。でも、それが精一杯だったはず。
そして、薬物療法の後、手術を受けた。唯一救いだったのは、足の切断を免れたことだった。それにほっとしたのも束の間、またしても奈落の底に落とされる出来事に見舞われた。
肺の転移巣切除手術の結果、潤南は広範囲に渡る肺転移巣があることがわかった。それは、効果的な治療が難しい、ということでもあった。
それでも、手術後の薬物療法は続いた。入院した時、満開の花を咲かせていた桜の木は、今はすっかり葉を落としていた。
その頃、潤南は皮と骨だけという形容しかできないほど、痩せてしまっていた。
どんなに痛い検査も、辛い治療も、手術も、涙を見せなかった潤南が、一度だけ泣いたことがある。
ある日、メールの着信があった。潤南はその文面を読んで、悲しそうな表情になった。そして、いつも通り、辿々しく返信の文字を打つ。
今までで一番長い時間をかけていた。自分の気持ちをそこに込めているようだった。そして、送信するとふぅとため息をつき、「あっちいってて」と私を追い払うように手を振った。
潤南に言われた通り側を離れて、仕切りのカーテンの向こうに、私は出た。するとすぐ、嗚咽の声が漏れてきたのだった。
あの瞬間、潤南は何か大切なものを手放したのかもしれない。
あんなに治療を頑張ったのに、潤南の体の中の癌細胞は言うことを聞かず、どんどん体を蝕んで言った。医師に言われた通り、最期は呼吸をするのも辛そうだった。
そして、桜の花が再び咲き始める頃、潤南は亡くなったのだった。最期まで本当によく頑張ったと思う。ベットに横たわる潤南に触れた時、この子が生まれてきた瞬間を思い出した。
何があっても守る。そう思った。それなのに。私はこの子を守ってあげられなかった。
***
潤南が亡くなったのは、卒業式の前日だった。受験を控えている同級生に、動揺を与えないように、担任には、みんなには伝えないで欲しいとお願いした。
空はこんなにも優しい水色なのに。私がいる世界は、真っ暗闇だった。私達夫婦は、子どもに先立たれるという、とてつもなく、不幸な状況におかれたのだ。
でも、聖南がいる。親がいつまでも暗い顔をしていてはいけない、と言い聞かせた。
潤南の遺品を整理していた時、携帯を見つけた。充電が切れていて、画面は真っ暗だった。
ふと、潤南は誰とメールのやり取りをしていたのだろうと思った。早速携帯を充電し、電源を入れた。
潤南が泣いた、あの日以来、メールの着信はない。メール相手の名前は〝唯子〟と登録されていた。前から、相手はもしかして、女の子なのかな? と思っていたので、驚きはなかった。
潤南が入院した日から、定期的にやり取りをしていたようだ。二人のやりとりは勝手に見てはいけないと思い、見なかった。
携帯を開くと、そこに潤南の息遣いを感じるようで、辛かった。再び電源を切った。
***
三月中旬。テレビで、公立高校の合格発表がの様子が流れた。番号を見つけた安堵、憧れの高校に通えることの歓喜。テレビに写る子達は、生き生きとしていた。
それを見て、また胸が痛む。同じ場所にいることができなかった潤南を思うと、胸が張り裂けそうだった。テレビを消し、胸の痛みをやり過ごす。
リビングの棚の上に潤南の写真を置いている。その前に立った時、写真の前にあった携帯が目に入った。次の瞬間、ある考えが頭を過ぎる。
唯子ちゃんが同級生で、高校に進学したなら、またメールをくれるのではないか。
一方でそんなメールをもらったら、また潤南を不憫に思うんじゃないかとも思う。あの子を可哀想だと思いたくなかった。
そして、数日迷った挙句、携帯の電源を入れた。
潤南はどうしたいのだろう? と考えたのだ。もし、唯子ちゃんが、メールを送ってくれたなら、受け取りたいのではないか、そう思った。
電源を入れると、着信とメールが一件ずつあった。どちらも唯子ちゃんからだった。きっと潤南も喜んでいる。さすがに私から電話をかけ直すことはできなかった。
潤南の代わりにメッセージを開く。
――高校合格したよ。潤南はどうしてる?
その文章を見た時、彼女の中では、まだ潤南は生きているのだ、と思った。それなら、このまま生き続けてほしい……
返信せずに携帯を伏せた。
それからも、いつでも唯子ちゃんからの連絡を受け取れるように、携帯は常に使えるようにしていた。今度、電話がかかってきたら、本当のことを伝えようと決めていた。
そして、その日が来ないことを願った。
メールもあの日以来、着信することはなかった。それでも、いつかまた唯子ちゃんが、連絡をくれるかもしれないと、期待していた。
***
そして今日、ずっと待っていたメールが届いたのだった。
――今までありがとう。潤南と出会えてよかった。元気でね。
と。
唯子ちゃんの中でも、潤南は思い出になったのだ。
これでよかった、はず。
潤南も「こちらこそありがとう」と、言っていると思う。リビングの窓の側に立つ。レースのカーテンを捲ると、隣家の八重桜が見頃を迎えていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。