7
翌日から、なぜか桃比呂が休憩室で話しかけてくるようになった。晴子はやはり自分の役どころが掴めず、頷くか、首を振るかしか出来ない。
桃比呂はそれでもかまわないらしく何か二言三言、しゃべってからおにぎりのフィルムを剥がす。
「相良さん、今の服ではそろそろ寒いんじゃないですか」
晴子は今日も桃比呂からもらった服を着ていた。言われれば、秋物の服では少し肌寒い季節になっていた。頷いて桃比呂を見上げる。桃比呂はいやに真面目な顔をしていた。
「うちに来ませんか」
また桃比呂の美人な姿を見られると思うと楽しくなって、晴子は間髪おかずに勢いよく頷いた。
桃比呂の頬が少し動いた。細い目もさらに細くなって笑っているようだった。
シフトの休みを二人で合わせた。桃比呂が休みを取りやすいのが平日だったので、晴子は家族の目をはばかることなく離れから出てきた。
久しぶりにTシャツとジーンズで、少し早いがコートを着込んだ。底が抜けそうなスニーカーで歩いていると足の裏が痛くて不愉快だった。
もう二度とこのスニーカーは履くまいと心に決めた。
今回は駅まで桃比呂が迎えに来ることになっていた。晴子は地図を読む能力が少しはあるのか、やっぱりちっともないのか確かめずにすんだことにほっとした。
地図が読めないとわかってしまったら、初めての場所へ一人で行こうという気持ちには一生ならないだろう。
電車を降りると、改札の向こう側に桃比呂が立っているのが見えた。女装ではない。晴子は残念なような安心したような複雑な気持ちになった。
「化粧は?」
挨拶もせずに桃比呂に問いかける。
「さすがに外で女装はできません」
「前の時は出来た」
桃比呂は苦笑いを浮かべた。
「あの時は緊急事態でしたから」
「緊急事態?」
「相良さんが泣きそうだったから」
晴子はむっとして眉間にしわを寄せた。
「泣かない」
「ちょっと泣いてましたよ」
「泣かない」
桃比呂の目が細まった。晴子の機嫌は急降下して、久しぶりに、ぶすっとした表情を見せた。
「行きましょうか」
先導して歩きだした桃比呂の背中を睨みながら、絶対に自分は泣いていないと自分自身に言い聞かせた。
桃比呂の部屋は相変わらずピンクだった。前回と変わったところも二つある。水色で大きなイルカの抱き枕と小さなウサギのぬいぐるみがベッドの上に横たわっていた。
「ぬいぐるみ、好き?」
「はい、もちろん。相良さんからいただいたボールペンも大切にしてます」
そう言ってドレッサーの小さな引き出しを開けた。中には化粧品ではなく、手の平に納まるほどのぬいぐるみやミニチュア家具が整理されてしまわれていた。
どれも晴子が桃比呂にあげたものだった。
「捨てないの」
「まさか」
引き出しからちゅーりっぷるのついたボールペンを取り出して桃比呂はぎゅっと握った。
「僕の宝物です」
「MOMOKO」
「はい」
桃比呂からもらったボールペンに刻印されていた名前を思い出して口にしただけだったのだが、桃比呂が当然のような顔をして返事をした。MOMOKOとは桃比呂が自分につけた名前だったのかと晴子はなぜかほっとした。
きっとなにかの記念に自分のために刻印したのだろう。
「MOMOKO」
「はい」
「化粧しないの」
唐突な話題の転換についてきていない桃比呂は、二、三度ゆっくり瞬きをした。晴子はそれを否定されたのだと捉えて眉根を寄せた。
「せっかく来たのに」
「相良さんは僕の女装が好きなんですか」
晴子はしばらく考えてから頷いた。桃比呂は真顔で晴子を見つめていたが、徐々に頬がゆるんできて最後には笑み崩れた。
「では、お言葉に甘えて」
クローゼットのドアを開けて晴子に「どれがいいですか」と尋ねる。
晴子はずらりと並んだ服を端から一着ずつ確認していく。
色もとりどり、形もとりどり、布にただ穴が開いているだけのものや、布が数枚からまっているようにしか見えない不可解なもの、チャイナドレスまである。
晴子はじっくりと厳選して、柔らかな手触りで紺色の、袖口と立ち襟に白いレースが縫い付けてある上品なドレスを選び出した。ロング丈で長身な桃比呂に似合いそうだ。
手渡すと桃比呂はいそいそと洗面所に向かう。
「覗いたらダメですからね」
そう言い残してドアの向こうに消えた。鶴の恩返しみたいだ。覗くなと言われたら覗いてやらねばならないような気もする。それは晴子に振られた役柄なのかもしれない。
晴子は、しばし考えて、よし覗こうと足を動かした。その瞬間、桃比呂が出てきた。
「……早い」
「そうですか。この服はかぶるだけですから。でもこれから化粧もします」
ドレッサーの前にやってきた桃比呂を観察しようと晴子は鏡が見える位置に移動した。
たくさんの瓶を並べて顔を拭いたり、液体を塗ったり、クリームを塗ったり、粉をはたいたり、その手馴れた動きが速すぎて、晴子にはなにをしているのか今一つぴんとこない。
だが、桃比呂の顔はだんだんと女性に近づいて行った。
細いだけだと思っていた鼻が高く上品な鼻になり、感情がわかりにくい目が、まつげが長い知的な目になり、薄い唇がぷるんと膨らみ艶を得た。
化粧が仕上がると、最後にドレッサーの下段の引き出しから取り出した長髪のかつらをかぶる。ヘアアイロンで毛先を縦に巻いて胸元に垂らす。鏡越しに美女が晴子に微笑みかけた。
「いかがかしら」
「美人」
晴子はぱちぱち拍手して褒めたたえた。桃比呂は満足げな表情で立ち上がる。
紺色のドレスは貴族の令嬢が着ていそうな雰囲気だった。上品に仕上がった美女の桃比呂によく似合っている。
「このドレス、一番好きなの。映画の中に入り込んだような気持ちになれるから」
「映画好きなの」
「うーん、普通かな。相良さんは映画は見に行く?」
「行かない」
「そうなの」
桃比呂が黙ってしまって部屋はしんと静かになった。晴子と桃比呂はなんとなくローテーブルを挟んで座り込んだ。晴子は夏生の言葉を思い出した。
『親しい友人や恋人じゃないと無言の食事は気まずくなるからね』
晴子には気まずくない食事というものがどういうものかよくわからない。いつでも誰とだって、一緒に食事をするのは大嫌いだった。
一人でないと食べ物の味がわからなかった。誰かと食卓を囲むと、話をしなければならないのも苦痛だった。
誰かと一緒に食事をするときに無言でいたらどうなるか実験してみれば、夏生の言ったことが真実かどうかわかるだろう。だが、晴子はそんな実験はまっぴらごめんだ。
「お茶飲む?」
「飲む」
桃比呂が立ち上って紅茶を淹れる準備をしている後ろ姿をぼんやり眺める。
出会った頃は桃比呂と一緒に食事をしていたとはとても言えない。二人並んで一人で食べていた。
だがちゅーりっぷるのボールペンとMOMOKOと刻印されたボールペンを交換してから、二人は並んで、二人で共に食事をするようになった。
差し向かいで無言でカニも食べた。晴子はちっとも気まずくはなかった。
桃比呂はどうだったのだろうか。聞いてみようかと思ったが、なんと聞けばいいものか思いつかない。
「どうぞ」
テーブルにティーカップが置かれた。今日は白い磁器に青紫の花の絵が描かれたものだ。これもとても上品だった。
黙って紅茶を飲む。桃比呂も黙って紅茶の香りを楽しんでいる。独特の香りがする。カップを覗き込むようにして香りを嗅ぐ。
「アールグレイよ。香りが強いけど大丈夫?」
「うん」
「ミルクを入れても美味しいけど、どうする?」
「うん」
「ホットミルクにするからちょっと待ってね」
「うん」
「今度一緒に映画に行く?」
「うん」
桃比呂はキッチンに立って、ミルクパンにミルクを注いで火にかけた。
晴子はなにかがおかしいと思ったが、それが何かわからなかった。繰り出された質問に、ただ答えを返しただけのはずだ。
眉根を寄せて考えているうちに桃比呂が温まったミルクを晴子のカップに注いでくれた。
温かいアールグレイのミルクティーは、心がホワンとほぐれる味だった。肩の力が抜けて、ほうっと息を吐いた。
良い香りだと思っていたアールグレイは、ミルクと混ざると子守歌を聞いた時のように安心感を与えてくれた。
晴子は自分が子守歌を歌ってもらったことを思い出そうとした。だが思い出せたのは朝子が赤ん坊のころ母が朝子に歌ってやっていた子守歌のイメージだけだった。
自分も聞き覚えて朝子がぐずっていた時には歌ってやった。
あれはどんな歌だったっけ。
ぼうっとそんなことを考えていると、ふと視線に気づいた。桃比呂が頬杖をついて楽しそうに晴子を見ていた。
「なに」
「ん。嬉しいな、と思って」
「なにが」
桃比呂は腕を上げて袖口のレースをひらひらと振ってみせた。
「こんな僕の姿を誰かに見てもらえる日が来るなんて思ってもみなかったから」
「なんで」
「だって、気持ち悪いでしょう。大人の男が女装するのって」
「子どもならいいの」
晴子が聞くと桃比呂は苦笑して額を手で覆った。その姿はなんだか男らしくて、晴子はせっかくの女装が台無しだと唇を突き出した。
桃比呂はそれには気づかないようで、晴れ晴れとした笑顔を晴子に向けた。
「相良さん、映画に行きましょう」
「うん」
先ほど言われたことを繰り返されて晴子はなぜ二度言うのかと、いぶかしげに返事をした。桃比呂は晴子の表情は気にせずに上機嫌だ。
「なにか見たいものはありますか」
「ない」
桃比呂はにっこりと天女のように美しい笑みを見せた。
「僕もないんです。映画館に行って決めましょう」
なんじゃそりゃ、と晴子は思ったが口には出さなかった。晴子の口から出るにはその言葉は軽すぎて、眉間にしわを寄せた仏頂面の晴子には似合わな過ぎた。
軽くてシャボン玉のように喉の辺りではじけて消えてしまい、とても口から外へは出て行かなかった。
でもそれでいい、もっと大事なことのためにしゃべる気力を取っておけばいいと晴子は一人頷いた。
「いつ行きましょうか」
「どれにする」
桃比呂は自分の質問にかぶせて返ってきた晴子の質問の意図が読めなかったようで首をかしげた。
「どれ、とは?」
「どの服で行く」
晴子は立ち上がってクローゼットの扉を開けた。これこそ今日の一番大事な要件だ。確信をもって晴子は桃比呂を振り返った。
「まさか、女装ですか」
「まさか?」
「外で女装はしませんよ」
「なんで」
「なんでって……。じゃあ、聞きますが、なんで相良さんは僕に女装させたがるんですか」
「きれいだから」
桃比呂は晴子のストレートな褒め言葉に動きを止めた。晴子は桃比呂の動きが止まったことをいぶかしんで眉根を寄せた。桃比呂は俯きがちに尋ねた。
「今、なんて言いました?」
「きれいだから」
桃比呂は両手で顔を覆った。耳が真っ赤だ。
そのまま動かなくなってしまったので、晴子は座ってミルクティーを飲んだ。冷めてきていたがアールグレイのミルクティーはとても美味しい。
お代わりはあるのだろうかとキッチンに目をやったが、ポットはもう洗ってあった。
がっかりして床に寝転がる。天井が真っ白できれいだった。壁紙も、フローリングの床も、クッションも、晴子の離れとは全然違った。
日当たりが良くて広くて良い香りがして、もうこのまま寝てしまいたかった。きっと何年も悩まされた不眠なんかどこかに行って、何時間でも眠れるだろう。
「晴子さん」
呼ばれて首をもたげると、桃比呂が耳を真っ赤にしたまま晴子の方を向いていた。
「女装で外は無理です」
「そ」
晴子は床にぺたりと顔を付けた。窓から差し込む日の光がぽかぽかと晴子を包んだ。心地良くて本当に眠ってしまいそうだ。
「晴子さん」
顔を上げると、やはり真っ赤な顔の桃比呂が、泣きそうな表情で両手をついて晴子に頭を下げた。
「見捨てないでください!」
晴子は何を言われたかわからずに起き上がった。桃比呂は床に額をこすりつけるようにして晴子に懇願し続ける。
「僕を見捨てないでください! 僕は女装姿を見られるのが怖い中途半端な女装趣味です。でも晴子さんは別なんです! 僕はあなたにならどんな姿を見られてもかまわない! いや、どうか見て欲しい! だから、僕を見捨てないでください!」
深々と床につきそうなほど低く頭を下げた桃比呂を見て、晴子はクローゼットに視線を移して、また桃比呂を見た。
きれいに巻いた縦ロールの髪が床の上で踊っている。せっかくのドレスが引きつれて腰のあたりで破れてしまいそうだ。晴子は今にも悲鳴をあげそうなほどのショックを受けた。
「や」
その声が聞こえたのか、桃比呂が、がばっと顔を上げた。ドレスは今にも裂けそうという絶体絶命のピンチから逃れることが出来た。晴子はほっと息を吐いた。
「どうしても嫌ですか」
泣きそうな顔をした桃比呂の顔を見ても、晴子はなにを言われているのかわからない。まさか自分の呟きを桃比呂が拒絶の意味に受け取ったとは考えも及ばない。
膝を進める桃比呂に距離をつめられて困った晴子は無意識の内にジリジリと尻を動かして玄関の方に移動を始めた。桃比呂は晴子の姿を見つめて涙目でうったえた。
「どうしたら僕の側にいてくれますか? 晴子さんは僕の女装姿を褒めてくれた。それは、僕を認めてくれたのとは違うんですか?」
涙目の桃比呂は美しかった。晴子は思わず動きを止めて見惚れた。桃比呂がなにがしか大声でうったえていることが意識の外へ転がり出た。
なにを言われても頷くだけでいい。こんなに美しい人をがっかりさせたり出来るわけがない。
このまま時間が止まって、この部屋で、長いまつげの桃比呂といつまでも向かい合っていたかった。
「晴子さん!」
桃比呂の目から涙がこぼれた。涙が真珠にたとえられるのは滑稽だと思っていたが、この涙を見てしまってはもう否定はできなかった。間違いなく、桃比呂の涙は真珠のようだった。世界中のなによりも美しかった。
「女装をしているこんな僕でも好きになってはくれませんか!」
「うん」
桃比呂の涙を見つめたまま、その姿の美しさに夢心地で晴子は頷いた。桃比呂がなにか、とんでもないことを言ったような気がしたが、ろくに聞いていなかった。
「……本当に?」
桃比呂の目が丸く開いて涙がぽろぽろとあふれる。ああ、きれいだなと晴子はうっとりと見惚れた。
「うん」
「晴子さん、僕を見捨てないでください」
「うん」
「女装で外出も出来ない臆病な僕を見捨てないでください」
「うん」
桃比呂が何かしゃべっているのはわかったが、晴子は美しい涙から、なまめかしい唇から目を離すことが出来ず、うわの空で答えていた。
「晴子さん、本当に?」
「うん」
「また、こうやって会ってもらえますか」
「うん」
桃比呂はずりずりと膝立ちでにじり寄って来て晴子の膝に顔をうずめた。晴子は膝にこぼれ落ちる真珠の温かさを感じながら、桃比呂の美しいうなじに見惚れていた。
桃比呂が泣きやむのを待って晴子は立ち上がろうとしたが、長い時間、桃比呂の上半身を膝で支えていたために足がしびれて動けなかった。
床に転がって足のしびれを解消しようとしている晴子に、桃比呂がイルカの抱き枕を貸してくれた。しびれのなんとも言えない苦痛からは逃れられなかったが、気持ちはだいぶ救われた。
晴子がごろごろ転がって悶絶している間に桃比呂が冬物の服を袋に詰めてくれた。男装に着替えた桃比呂は夕暮れの駅まで晴子を見送りに出た。
「晴子さん」
改札を通った晴子を桃比呂が呼び止めた。
「また明日」
「うん」
肩の荷物をゆすりあげた晴子に笑いかけた桃比呂の目は新月間近の月のように細かった。そこに女装の桃比呂の美しさの名残は見えず、晴子は夢からさめたような気持ちで電車に揺られた。
ぼろビルのエレベーターを降り通路を歩く。通路を照らすはずの蛍光灯が一本切れていて薄暗い。桃比呂が住んでいるマンションとは大違いだ。
大きな紙袋を肩にかつぎあげて、そっと鍵を回す。今日も音を立てることなくドアを開けることに成功した。紙袋の音もさせないようにそーっとそーっと廊下を歩く。
ダイニングへ続くドアの隙間から明かりが漏れ出ていた。晴子には縁のない、暖かそうな明かり。
そのわずかな明かりでなんとか離れまでたどり着き、ドアを開けた。そっとドアを閉めてようやく大きく息を吐き電気をつけた。
蛍光灯が白々と光っても、離れはどこか薄暗かった。
紙袋を畳に下ろして服を出していると、桃比呂の部屋の良い香りがした。服に鼻をつけてもっと香りを嗅ごうとしたのだが、あっという間に消えてしまって、いつもの離れのジメジメした昏い空気だけが感じられた。
美しいものを少しでも離れの空気から遮断しようと、紙袋を急いで押し入れに突っ込んだ。