6
ビルのエントランスで郵便受けを覗いているとエレベーターが開く音がした。
「こんにちは」
声をかけられて振り返る。夏生が笑顔で軽く手を挙げた。
「こんにちは」
「おや、今日は『べつに』じゃないんですね」
「はい」
晴子は感じの良いご近所さんの役に徹しようと笑顔を浮かべようとした。残念ながら、それはうまくいかず片頬を上げるだけのニヤリとした笑みだったが、夏生は愛想良い態度を崩さなかった。
「かわいいワンピースですね」
「どうも」
「私もそんな服を着てみたかったな」
そう言えば、夏生は女性だと桃比呂が言っていたのをやっと思い出した晴子は、首をかしげた。
「着ないの?」
「似合わないんだ。持って生まれた資質だから、仕方ないけどね」
夏生は「じゃ」と軽く手を振って出かけて行った。晴子はよほど桃比呂の女装趣味のことを話そうかと思った。
男性である桃比呂でも美女に変身できると知れば、夏生も女装を試してみるかもしれない。だが桃比呂が人に知られるのを嫌うような気もして、口には出さなかった。
そういう風に気を利かせるのはなんの役を演じることなのか考えてみた。同僚の役? 友人の役? それとも他のなにか?
やっと普通の人という立ち位置を知ったばかりの晴子には難しい問題だった。よくわからないまま家に戻った。
家族はやはり今日もいない。晴子は上機嫌で廊下を左へ曲がった。離れのドアを閉めるとすぐに、桃比呂からもらった服を全部畳の上に広げてみた。
秋の初めに着られるような素材の服ばかりだった。晴子はその中から桜色のシフォンのブラウスと白地に薄紫の花柄のスカートをあわせてハンガーにかけた。
晴子にはコーディネートはよくわからなかったが、桃比呂がこの組み合わせがいいと言っていたので間違いはないだろう。今日買った靴とこの服装が合うかどうか少し気になったが、他に合わせる靴はない。考えても仕方ないのでショートブーツでいいことにした。
翌日、晴子は生まれて初めてスカートで出勤した。いつもの牛丼屋には寄らず、コンビニでドーナツとコーヒーを買った。
歩きながらドーナツをぱくつく。通勤の途中で見ることがある、歩き食いを真似てみたのだ。
だが口の周りが砂糖だらけになるし、コーヒーで片手がふさがっているしで、ドーナツはとても食べにくかった。それでも牛丼屋よりは、上品な花柄のスカートを履く女性の役に合うのではないかと思って満足だった。
朝食を歩きドーナツで済ませたので、いつもよりずっと早く職場にたどりついた。することもないので給湯室で麦茶を飲んでいると、通りかかった順子がいきなり晴子の二の腕を叩いた。
「やだ! 相良さんたらイメチェン!」
突然の出来事にどう反応したらいいか思いつかず、晴子は驚いて丸くなった目で順子を見つめた。
「その服、桃ちゃんからのプレゼントでしょ!」
なんでわかるのだろうと思いながら晴子は頷いた。順子はなにがそんなに嬉しいのかと尋ねたくなるほどニンマリと笑う。
「だと思った。かわいいじゃない!」
もう一度、晴子の腕を叩いて順子は通り過ぎていった。晴子は二度叩かれた二の腕をさすりながら、今のはどんな役どころが正解だったのだろうか、自分はうまく立ち回れたのだろうかと考えたが、よくわからなかった。
業務フロアに入ると、皆の視線が晴子に向いた。
順子が言いふらしていたのだろう。晴子は見られることにイラっとしたが、順子の良い同僚の役を演じるべきだと思い至り、なにごともないふりをして自分のデスクに向かった。
デスクにはなぜか飴が三つ置いてある。椅子を回して離れた席の順子を見るとニンマリ笑ったので、順子が晴子にくれたものなのだろうと飴を引き出しにしまってデスクに向き直った。
お礼を言うべきではないかと気づいたのは始業後三十分たってからで、作業を中断することも出来ず仕事を続けるうちに飴のことは忘れ去ってしまった。
昼休み、晴子はコンビニで彩り野菜の冬シチューを買った。
レジでスプーンと箸のどちらがいいか聞かれて迷ったが、かわいいスカートを履いた女性の役にふさわしかろうとスプーンを選んだ。
休憩室で蓋を開けてみるとシチューの具材は大きめにカットされていて、スプーンでは食べにくいことが判明した。
四苦八苦してスプーンで牛肉を二つにわけたところに桃比呂がやって来た。すぐ近くまで寄って来て、しばらく晴子を見つめていた。
晴子が見上げて小首をかしげると桃比呂の細い目がさらに細くなったような気がした。
その後は声もかけず、いつものように軽く頭を揺らす会釈をして隣の席に座り、いつも通りおにぎりを二つ食べ、文庫本を取り出して読みだした。
それを見ていると晴子は口の中が苦い味でいっぱいになったような気がして、自分でも驚くほど不機嫌になった。シチューの外装に書いてある原材料名を見てみたが苦みが出るようなヘンなものは入っていないようだ。
ブックカバーのキリンのアップリケと目が合って晴子はちょっと眉を顰めてみせた。とくに意味はなかったが、なぜかほんの少し気分がましになった気がした。
仕事が終わって外に出るともうすっかり日が暮れていて暗い。このところ太陽を見る時間がかなり減っていた。
離れにも日が入らないことだし、精神的に落ち着くためには日光浴でもした方がいいのかもしれない。運動もした方がいいらしいが、それは通勤の往復でまあ及第点だろうと満足して歩いていると、自分の隣にいつの間にか桃比呂が並んで歩いていることに気づいた。ぎょっとして立ち止まる。
「なんで」
「なんで、とは?」
「いるの」
「追いかけてきました」
「なんで」
「食事に行きませんか、おごります。カニでいいですか」
晴子は勢いよく三度頷いた。桃比呂の頬が少しだけ動いた。
無言で歩きだした桃比呂の隣について歩く。二人の靴がカツカツと鳴る。同じ歩幅で歩いているので音がそろっていて心地良い。
昼間から感じ続けた苦い味はいつの間にか消えていた。靴を鳴らして、このままいつまでも歩いていたかった。
「靴、かわいいですね」
歩きながら桃比呂が話しかけてきた。
「百貨店で買った」
「よく似合ってます」
「選んでもらった」
桃比呂はちょっと眉根を寄せて首をかしげた。
「誰に?」
「お店の人」
「そうですか」
桃比呂の頬がちらりと動いた。そこで会話は途切れて、二人は並んでバスに乗った。
カニ専門店は今日も閑散としていた。どうしてこの店は潰れないのだろうかと晴子は内心首をかしげる。
奥から出てきた和服の店員に案内されて二階の小さな座敷に通された。掘りごたつ式の座敷で烏龍茶を頼み、テーブルに差し向かいで座る。
桃比呂の顔を正面から見て、晴子は不思議な気持ちになった。楽しいような、寂しいような。原因は桃比呂が化粧をしていないからだろうと晴子はあたりを付けた。
美人な桃比呂を知った今では男装の桃比呂は普通過ぎて面白味が足りない。面白味は足りないが、また差し向かいで座れたことが嬉しいような気もした。
「服、着てくれたんですね」
晴子が頷くと桃比呂が笑顔を浮かべた。なんで桃比呂は人が見ているところでは笑わないのだろうか。ふとそのことに思い至った晴子は小首をかしげて考える。
女装した美人の桃比呂はよく笑った。男装の桃比呂の外での役は、笑ってはいけないものなのだろうか。
そうかもしれない。人に話しかけられるのが嫌いで一人を貫きたいなら笑わない方が都合がいい。それが外向きの桃比呂の役だとしたら、本当の桃比呂はやはり女装した時の美人な姿なのだろう。
でも、じゃあ、今はなんの役を務めているのだろう。同僚役? 友人役? それとも自分が知らない他のなにか?
そこまで考えて晴子はハッとした。役を演じるのを忘れている。
自分はなにものを演じればいいのだろうか。桃比呂は笑ったけれど、自分も笑った方がいいのだろうか。いつもの休憩室のように黙っていた方がいいのか。
前回、この店に来たときは、いったいどうしていただろう。まったく思い出せなかった。
晴子はなにものにもなれず途方に暮れた。この感覚には覚えがあった。あの時もカニだった。
朝子が甲殻類のアレルギーだとわかった夜だ。
カニ鍋を前に、やはり晴子はなにものにもなれずにいたのだ。良い娘にもなれず、良い姉にもなれず、冷酷でなんでも食べつくそうとする餓鬼にもなれないまま、置いて行かれた状況が飲み込めず、ただ立ち尽くしたあの夜と同じだった。
自分がなにものでもないことが急に恐ろしくなって身動きできなくなった。どのくらいの時間がたったのかわからないうちに食事が運ばれてきた。
前回来た時と同じコース料理だ。知らない料理ではない、なにも起きない、食べても大丈夫だと思うのに、晴子は箸をつけることが出来ずにぼんやりと皿を見下ろした。
「相良さん?」
顔を上げると桃比呂も箸を取らずにいた。晴子が食べ始めるのを待っている。
待っている桃比呂に合わせるにはなんの役を演じればいいのだろう。休憩室で並んで座っている時なら同期なのに上司と部下という関係で、晴子は迷惑をかけない同僚でいればいい。だが今はなんだか違うような気がした。
「どうかしましたか?」
その質問にどう答えればいいかわからない。イエスかノーで答えられる質問ではない。自分で考えて答えを探さなければならない。
晴子はじっと桃比呂の顔を見つめた。そこに答えが書いてあるような気がしたのだ。けれど桃比呂は晴子が答えを見つけるまで待つ気はなかったようだ。
「食べましょうか」
そう言うと箸を取りカニの酢の物を口に入れた。いつも通り十回噛んで飲み込む。なにも変わらない、いつも通りだ。
晴子もなにごともなかったふりをして箸を取った、桃比呂は晴子の苦悩も知らぬげだ。いつもの休憩室と同じように、二人、黙々とカニを食べた。
今日のカニはなんだかスカスカした、うまみが感じられない味だなと晴子は思った。
店を出て建物を振り仰ぐと、今日も作り物のカニが足を蠢かしていた。観察していると、足が動くたびにカニの内部の何かの機械が軋む音が聞こえた。
隣で桃比呂も同じように作り物のカニを見上げていた。
「油がきれているのでしょうか。軋んでますね」
本物のカニは動くたびに軋むだろうか。作り物だから軋むのだろうか。
「どうかしましたか?」
桃比呂の顔を見上げて晴子は黙ったまま小さく首を横に振った。
結局、今日の役どころを掴めないまま、桃比呂とわかれた。