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 家に帰るといつも通り、家族は誰もいなかった。晴子は離れのドアを開けた。

 離れの窓はせっかく南向きなのに、ぼろビルの隣に建設中のマンションのせいで日はほとんど入らない。

 もともと湿っぽかった部屋がますますジメジメしだしたのは、夏の初め頃だったろうか。そんなことも、もう覚えてはいない。


 両手を広げて畳に寝転んだ。天井までの距離が遠い。

 薄暗いせいだろうか、いつもよりずっと遠い気がする。どんどん遠くなる。ずぶずぶと畳に体が沈みこんでいく。畳に昏い穴が開いて晴子を飲み込もうとしている。


 もういいんじゃないか。このまま穴の中に飲まれて食われてしまっても。そうして穴と一つになって、なにもわからず、なにもできず、なにもかもを壊して回る怪物になってしまえばいいじゃないか。

 目をつぶって沈んでいくままに身をゆだねてみた。生ぬるいドロリとしたものに少しずつ少しずつ包まれていく。

 他人も家族も晴子自身もなくなっていく。『私』なんかいらない。なんでもない、なにものでもない、誰にも見えない昏い穴になってしまえばいい。


 手足が、肩が沈んだ。首が沈んだ。頭が少しずつ沈んでいく。 耳が沈んでしまいそうになったその時、ピアノの音が降ってきた。ハッとするほど美しい音だ。どこかで聞いたことがあるような懐かしいメロディーだった。


 目を開くと天井に日が射して真っ白く光っていた。まるで桃比呂の部屋の天井のように真っ白に見えた。

 晴子は天井に向かって手を伸ばす。この音は、このメロディーはなんだっただろうか。

 体が少しずつ昏い穴から浮き上がっていく。全身をタールのように塗り固めていた汚れが流れおちていく。天井が少しずつ近づいてくる。


 そうだ『ユモレスク』だ。

 晴子は父が蒐集したクラシックレコードの中から好きなものを選び出して音楽を聞いていた頃のことを思い出した。

 ずっと忘れていた、レコードの針を落とす時のわくわくした気持ちを。


 晴子がピアノを習っていたのは小学校四年生までだった。三歳から習い始めたのだが、あまり上達しなかった。

 年を追うごとに同い年の子からどんどん離されていったが、晴子はピアノが大好きだった。毎日、欠かさず練習したし、レッスンを休んだこともない。

 それでも上手にはならなかったが、苦にもならなかった。妹の朝子が同じピアノ教室に通いだした、その時までは。


 朝子はみるみる上達した。同い年の誰よりも早く難しい曲を弾きこなした。もう少しで晴子が弾いている曲に手が届きそうになっていた。

 晴子はそれを気にすることなく、ピアノを弾き続けた。両親は朝子のピアノの才能を誉めそやした。


「将来はピアニストだな、朝子」


 父がそう言った時、朝子がぽつりと呟いた。


「私、ピアノ、もう嫌」


 ショックだった。晴子が愛してやまないピアノを誰かが嫌いだということが。それが妹だということが。

 自分よりもはるかに才能ある者が、自分が大切にしているものを否定するということが。


 両親は朝子を説得して、朝子はピアノを続けた。晴子がピアノを辞めたいと言った時、両親は一言も晴子を引き留めなかった。ただ、それだけのことだ。


 天井から聞こえ続ける音を、晴子の指がなぞる。晴子はぼんやりと思い出した。

 この曲、『ユモレスク』は晴子が最後に習った曲だった。畳の上に指を躍らせる。楽し気に、軽やかに。


 ふと、桃比呂が子首を傾げたところを思い出した。何かの看板の、蓄音機の前で小首をかしげる犬に似ている、きょとんとした顔。

 ふっと笑えた。

 桃比呂はピアノを聞くだろうか。あの部屋に音楽プレーヤーはあっただろうか。蓄音機でユモレスクを聞かせたら桃比呂はどんな顔をするだろうか。


 ゆっくりと体を起こした。『ユモレスク』は十二小節だけで終わった。夏生がピアノ教室の生徒に弾いて聞かせていたのだろう。

 その後はへたくそで単調なピアノの練習曲に代わった。へたくそでもいいと思った。へたくそでも滅茶苦茶でも、ピアノを弾きたければ弾けばいい。晴子はもう、その音にイライラしたりしない。

 どんなに下手な演奏でもピアノの音が好きだと思った。


 勢いよく立ち上がり、背伸びして天袋を開けた。紙袋を引きずり下ろすと桃比呂から貰った葡萄色のワンピースを着て下段の押し入れを開けた。

 布団をかき分けて押し入れの奥に隠している封筒を引っ張り出す。奨学金返済以外のすべてのことにお金をかけずに溜めてきた、なけなしの貯金だ。

 一万円札を三枚抜き出し、ぎゅっと握って離れを出た。


 履き古したスニーカーで駅に向かう。

 靴を買おう。かわいらしい靴を。

 気が逸って駆け出した。電車に乗って繁華街へ向かいながら、晴子は自分の鼓動がドキドキと速くなっていくのが、走ったせいだけではないような気がしていた。


 電車を降りて百貨店に向かう。百貨店など、もう何年も足を踏み入れる事すらしていない。ひどく緊張する。

 大きなガラス扉を見て、こんなところは自分には不釣り合いだ、そう思ったが足は止まらなかった。

 扉をくぐるとふわりと甘い香りが漂ってくる。化粧品売り場の香りだ。晴子が知らない様々なブランドの化粧品カウンターがある。

 チラチラ見ながら歩いても並んでいるきらびやかなものが何という名前で、顔のどの部分に使われるものか、さっぱりわからない。晴子が知っているのは口紅くらいだ。

 桃比呂だったらきっと楽しめるに違いない。桃比呂の女装のことを思うと近づきがたいと思っていた化粧品たちが少し友好的になったような気がした。


 エスカレーター近くの売り場案内で靴売り場が地下一階であることを確かめた。エスカレーターに最初の一歩をかける時、また鼓動が速く大きくなった。ひどく緊張していた。

 エスカレーターが下るとともに徐々に地下一階の様子が見えてくる。広々とした売り場にずらりと並んだ何百、何千、何万足という靴・靴・靴。めまいがしそうだった。


 降りたって一番に目に入るところにディスプレイされている靴は季節を先取りした冬物のブーツが何足かと、ボアがついたスノーシューズ。

 どれもおしゃれでかわいくて、晴子は怯んだ。体が勝手に自分には関係のない紳士靴のコーナーの方へと逃げて行ってしまう。

 ずらりと並んだ紳士用の革靴を見て、職場でいつも桃比呂が履いている重そうな靴のことを思いだした。

 それと比べて彼のクローゼットの中に並んでいたカラフルで軽やかなハイヒールたち。あの色とりどりのハイヒールを美しいと思ったことを思いだすと震えていた足が再び動き出した。


 晴子は紳士靴に背を向けてフロアをぐるりと巡った。女性用の靴はどれもかわいらしい。

 そんな靴を手に取ったこともない晴子にとっては馴染みのない世界のもの、おとぎ話の中にしか存在しないと思っていたものだった。そのおとぎの国へ飛び込んでいくための扉を見つけることが出来ず、通路をウロウロと歩き回った。


「いらっしゃいませ」


 背後から声をかけられ驚いて勢いよく振り返った。ベージュの制服を着た女性販売員がにこやかに立っている。なぜか、『捕まってしまった』と思った。

 だが、逃げたいとは思わなかった。探していた扉の鍵が開いた音を聞いた気がした。


「靴をお探しですか?」


 晴子は黙ったまま頷いた。


「こちらへどうぞ」


 フロアの壁際にある背の低いソファに案内された。いきなり靴の棚に連れて行かれて、どれがいいのかと詰問されるのではなかったことに晴子はほっと息を吐いた。


「本日はどういった靴をお探しですか」


「え……」


 ソファに腰かけてちらりと見上げてみると、販売員は柔和な丸顔で、親切そうな微笑みを浮かべていた。胸の名札を見ると安藤と書いてある。名前もどこか優しげだ。

 だが晴子がこの百貨店にふさわしくない人間だと知れた瞬間に、その表情が急に険しく変わるかもしれない。そう考えた晴子が何も答えられずにいると安藤はさらに優し気に尋ねた。


「ヒールの高さはどのくらいがよろしいですか」


 晴子は答えに詰まって口を閉じた。

 安藤は晴子の足許を見下ろして今履いているスニーカーを確認した。ひどい靴だと眉を顰められるかと、晴子はスカートの陰に足を隠してスニーカーが見えないようにした。


 だが安藤は変わらずに、ずっとにこやかで、晴子は百貨店の店員が自分を正当な客だと認めていることを不思議に感じた。

 ろくに話しもしない自分は、ただの冷やかしかもしれないのに。なんの接点もなかった場所に突然やって来て、その場所にふさわしい人間として扱われていることに、まともな接客を受けていることに晴子は驚いていた。

 自分が普通の客として扱われているなんてなにかの間違いではないだろうか。今までそんなことはなかったし、そんなことを求めたこともないように思う。


 学生時代も晴子は学校が求めている生徒像とはかけ離れていた。校則は守っても周囲に馴染もうともしなかった。

 仏頂面を隠しもしない晴子はいつも教師から苦い表情で見られていた。就職してからも仕事に打ち込むでもなく、ただ漫然と生きて誰からも忘れ去られようとしてきた。


 買い物する時だって同じだ。誰の目にも留まらぬようにこそこそと、覚えられないように顔を伏せていた。それが晴子の普通だったのに、今日は店員と顔を合わせることが出来る。

 客として大事にしてもらっても申し訳なさも、恥ずかしさも、なにもできない自分への怒りも湧いては来ない。

 これなら話も出来るのではないか。そう思ってなにか言うべき言葉を探したが、なにも見つからなかった。靴のことなどなにも知らない。なにを答えればいいのかわからない。


 悲しくなって俯き、黙りこくってしまった晴子に、安藤がもう一度尋ねた。


「いつも履いていらっしゃるのはスニーカーが多いんですか?」


 答えやすい質問を投げかけてもらえて、晴子はただ頷くだけでよかった。


「では、ヒールが低いものをいくつかお持ちしますね」


 安藤は展示されている靴の中から二足を選んで戻ってきた。一足は先のとがったパンプス、もう一足はくるぶしを覆うくらいのショートブーツだった。


「こちらですと、すごく歩きやすいですよ」


 そう言って足許に置いてくれたのは光沢のある濃い紺色のショートブーツだ。靴ひもで甲の部分を締めてある。

 確かにかわいい、晴子でもそう思う。けれど、どうやってたくさんあるかわいい靴の中からこの靴を選んでくれたのかがわからない。


 晴子自身にも自分の欲しいものがわからないのに、どうしてこの人は何かを選び出すことが出来るのだろう。

 しゃがみこんで膝の上にショートブーツを乗せてひもを解いている安藤をまじまじと見つめる。安藤はひもを解き終えた靴を晴子の足許に置いた。

 靴を見下ろした時にワンピースが目に入って、やっと晴子は気づいた。晴子は「このワンピースに似合う、かわいい靴をください」そう言いたかった、そう言えばいいだけだったのだ。

 たったそれだけのことを思いつくことも出来なかった自分を、今日は責める気にも、あざける気にもならなかった。

 今日の晴子は普通の客だった。怒り出したり泣き出したりしない、口下手なだけの客だ。それ以上でもそれ以下でもない。堂々とここにいていいのだ。


 履きやすいように履き口を広げられた靴に足を入れ、靴ひもを結んでもらう。


「いかがですか?」


 靴はとてもかわいかった。だが、いかがと聞かれてもどう答えればいいかわからない。


「よろしければ、あちらの鏡でご覧ください」


 指し示された、全身が映る大きな鏡の前まで歩く。ぼろぼろのスニーカーよりずっと歩きやすい。

 鏡で見ると靴はワンピースにぴったりと合っていて、まるで初めからオーダーメイドで作り上げられたのかと思うほどだった。


「これ、ください」


「ありがとうございます」


 ぽつりと呟いた晴子の言葉に安藤は良い店員としてふさわしい笑みで答えた。晴子は胸が震えるほどの深い感動を覚えた。

 安藤はどこまでも正しく店員という役目をこなしただけ、普通のことをしただけなのだということは晴子にもわかった。

 しかし、そのことがどれだけ大切なことなのか、晴子は今初めて知ったのだ。


 晴子は今まで自分がなにものかを演じることを拒み続け、なにものかであろうとする人たちを蔑んで生きてきた。だが今日、晴子は無事に客の役をやり遂げた。衣装を身にまとい、新しい顔をして演じきった。その達成感に興奮していた。


 新しい靴を履いて街を歩く。コツコツという靴音が耳に心地よい。不思議と心が落ち着いていた。

 いつも感じている不安も、いつやってくるかわからない爆発的な怒りも、どこかに姿をくらましていた。

 晴子は今、気楽に街を歩く女性の役を演じていた。不機嫌で、いつでも誰からも逃げたがる自分を心の隅に押しやって。


 こんなに簡単に普通の人になれるなら、もっと早く自分を隠してしまえばよかった。ぶすくれた役立たずの自分なんか誰かに見せていても仕方ない。

 これからは世の中に求められる役目をまっとうして生きていこう。晴子は軽い足取りで家に帰った。


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