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 この部屋の窓は大きい。そしていつもブラインドは下ろされている。今日も、昨日も、一昨日も、おそらく来年も。変わらない毎日のように決まりきって。

 晴子は机を挟んでカウンセラーと向き合って黙り込んでいた。


「何か変わったことはありましたか?」


 放っておくといつまでも黙りつづける晴子に初老の女性は質問を投げかけた。


「……べつに」


 いつもならすぐに次の質問にうつるのだが、カウンセラーはゆったりとくつろいだ微笑を浮かべたまま晴子の言葉を待っている。

 まるで「あなたの言いたいことはすべてわかっているのよ」と言われているような気がして気分が悪かった。


 いや、本当は言いたいことがあるのに口が動かない自分に腹が立っているのかもしれないと晴子は思いなおした。そうすると、にわかに口を動かしたくなって、ぱくっと口を開けた。カウンセラーの視線がちらりと動いたが、彼女は何も言わなかった。


「女装をした」


 カウンセラーは少しうなずいて晴子の言葉の続きを待った。


「化粧も。でも嫌になった」


 嫌になった。なににだろう。かわいい服にだろうか、化粧にだろうか、それとも、自分自身にだろうか。


「わからないけど」


 ちらりとカウンセラーの目を見てみると、真っ黒な瞳が晴子を観察していた。

 この人にはわかるんだろうか、自分がなにを嫌がっているのか。でも聞いてみてもカウンセラーはなにも答えてはくれない。カウンセラーはただ聞くだけだ。そこになにもないように、誰もいないように晴子は話すだけだ。

 昏い穴に語りかけるように。


「どこにいても結局帰る、あの部屋に」


「離れね」


 その呼び名をいつカウンセラーに話したか覚えていなかったが、晴子は素直に頷いた。

 いったい自分は離れのことをどんな風に話したのだろう。懐かしい故郷のように? それとも昏い牢屋のように? 思い出せなかった。病気のせいか薬のせいか、記憶力もずいぶん減退している。

 だがそれ以上に思い出したくない、思い出せば恐ろしいことが起きる。そんな気がした。


「もういい」


「離れに帰ることをどう思う?」


「べつに」


 カウンセラーはゆっくりと瞬きした。もうこれ以上、晴子から聞きだせることはなにもないのをわかりきっているという合図だ。

 もう話す必要はない。ああ、自分は離れに帰るんだ。


 晴子は、ぐったりとひじ掛け椅子の背もたれに体を預けた。

 話しすぎた。なにもかも話したってカウンセラーには晴子の中の昏い穴は見えないだろうに。それくらい穴は晴子と同化している。

 もう、離れにこもる以外に出来ることがなにもないほど、疲れていた。



 翌出勤日。ワンピースのことは誰にも、桃比呂にもなにも話すまいと固く決意して業務フロアに入ってみると、桃比呂はいつも通りの無表情でいつも通りのネクタイ姿だった。先日のことは全て夢だったのかもしれないと思うほどに、なにもかもいつも通り。

 晴子は拍子抜けして、これもいつも通り気合が入らない様子で仕事を始めた。


 昼休みも桃比呂がなにか話しかけてくるのではないかと恐々と隣に座ったが、いつも通りに無言で軽く頭を揺らしてみせただけで、黙々とおにぎりを頬ばっている。

 ほっとしたような気もしたが、急な坂道で転んでしまったような気もした。せっかく登ってきた坂道をどこまでもゴロゴロと転がり落ち続けて、なにもかも台無しにしてしまったような、そんな気持ちもしたのだ。

 茶色いコンビニ弁当を食べながら、いつもなら味が濃すぎると思うのになぜだか今日はソースの味もよくわからなかった。


 その日の仕事は散々だった。決められたノルマ達成には程遠く、ミスも頻発した。

 晴子たちが入力したデータを別のチームが精査して確認するので、小さなミスが直接会社の損害につながることはまずない。

 だがあまりのミスの多さに精査業務の人間が辟易したのだろう。普段は翌日になってからミスがあったことを注意されるのだが、今日は退勤時間直前に桃比呂の席に呼ばれた。

 桃比呂はいつも通りの感情が読めない目で晴子の方を見ることもなく書類に目を通しながら話し始めた。


「お呼びしたのは今日の……」


「ミスのこと」


 先手を打って自己申告した晴子の言葉に驚くこともなく桃比呂は頷いた。


「ご自身で認識されていたということですね。なにか理由がありますか」


「べつに」


「体調が悪いとか」


「べつに」


「悩みがあるとか」


「べつに」


「業務内容が負担だとか」


「べつに」


「そうですか。では、今日はたまたま難しい案件に当たったとか、そういうことでしょうか」


「はあ」


 桃比呂は頷いて手にしていた書類になにか書きこんだ。会社から支給される安いボールペンを当たり前のように使っている。

 態度が悪いとでも書かれただろうか。べつにかまわない、どんな評価を受けようと。冷静に叱りもせずに桃比呂は自分の業務だけを済ませていく。

 晴子はぼんやりと桃比呂の細く長い指を見ていた。べつにかまわない。

 どう思われようとかまわない。いつも通りだ。いつもと、同じだ。


 コンビニでいつもの弁当を買おうとして、ふと隣に陳列されている商品が目に入った。『彩り野菜の冬シチュー』という、このコンビニの人気シリーズの冬バージョンだ。

 ブラウンシチューは一見するとカレーのようにも見える。

 晴子は夏の暑い日に外で汗を流しながら食べたカレーの味を思い出した。


 あの時、無心になってカレーを味わえたのはどうしてだっただろう。確か、暑すぎてイライラしていたはずなのに。

 あれは初めて桃比呂と並んで食事をした日だ。晴子は見慣れた桃比呂の横顔を思い出す。

 初めて見た時はなにも考えていないようだと思っていたが、今は桃比呂が抱えていることをいくつか知っている。

 おにぎりはいつもオカカとシャケなこと、かわいいものが好きなこと、女装が似合うこと、笑うと新月のような目になること。親切なこと、優しいこと、晴子のことを秘密を打ち明けられる人間だと思ってくれたこと。


 ふと、いつもの弁当ではなくシチューに手が伸びた。だが、一瞬早くその商品を別の人が取っていってしまった。

 最後の一つだったそれを持ってレジに並んだ女性の、きれいに結い上げられた髪のつややかさを晴子は遠い目で見ていた。



 昼間でもずいぶん冷えるようになってきた。晴子は半袖のTシャツの上にカーディガンを羽織って出勤する。その恰好では肌寒いのだが、コートを着るにはまだ早い。

 離れを出る前にちらりと天袋に目が向く。だが暖かい服がしまわれているそこには、昏い穴が立ちふさがって晴子の手を拒んでいる。


 晴子は毎朝、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで足早に会社に向かう。ビル風でぼさぼさの髪が巻き上げられる。適当に払って風をよけるために下を向く。


 髪もずいぶん伸びた。今の職場に入った頃には肩につくかつかないかくらいだったのだが、今では背中の中ほどまである。

 切ろうかどうしようかと考えることもあるが、変わらないのが一番ラクだ。いつも、放っておくことにしようという結論になる。

 いや、結論というほどしっかりした思いでもない。なんとなく流されて、どれだけ髪が伸びても、いつも通りでいいと自分に言い聞かせている。それだけだった。



 最近はかわいいものは買っていない。コンビニに行っても出来るだけいつもの弁当以外は見ないようにしている。

 大学時代に受けた奨学金の返済があるのだ、無駄遣いは出来ない。いつも通りの茶色の弁当。コロッケ、から揚げ、焼きそば、茶色、茶色、茶色。茶色は安心の色だ。攻撃的な赤や気持ちを沈ませる黒、枯れていくしかない緑とは違う。

 どこにでも潜んでいる特別感のなさ、安定した緊張感のなさ、なにも変わらないことを象徴する色。


 晴子は自分の心も茶色をしているだろうと思う。くすんで汚いぼろビルのような古臭い茶色だ。これからも毎日、茶色弁当を食べているうちに、きっと心だけでなく、晴子のすべては茶色に染まりきるだろう。

 それはとても素敵なことに思えた。いつも変わらず、どんな色と混ざっても濁りを持たせるどうしようもない色。薄暗がりの離れの畳の色。

 晴子は今すぐにでもそんな色に染まってしまいたいと思う。



「相良さん」


 午後の仕事が始まってすぐ大きな声で永井に呼ばれた。顔を上げると遠く離れた席から、おいでおいでと手を振っている。

 またなにかミスをして注意されるのだろうと怒りに似た投げやりな気持ちで近づいて行く。永井は傍らの桃比呂のデスクから空っぽの椅子を引っ張ってきて晴子を座らせた。


「最近の調子はどうよ」


「べつに」


「まあ、変わらないか。そうか。それでね、来てもらったのは竹田のことなんだけど」


 竹田って誰だろう。晴子は自分の席の近くのメンツを振り返ってみたが、顔は知っていても名前は覚えていなかった。永井はそんな晴子の様子を見てため息を吐いた。


「桃ちゃんだよ。竹田桃比呂。仲良しなんだから名前くらい覚えたら?」


「仲良しじゃ……」


 ない、と言おうとして晴子の声は詰まって出てこなくなってしまった。仕方なく俯いて言葉を濁す。永井はその態度を見て勘違いしたようだ。


「ケンカでもしてるの」


「べつに」


「竹田がさあ、変なんだよね。ミス連発。話を聞こうとしても『大丈夫です』って言うだけ」


 永井は桃比呂の口調を真似てみせた。似ているような、似ていないような微妙な物真似だ。晴子は何故だか不快に感じた。


「相良さん、なんか聞いてみてよ」



「なんかって」


「世間話の合間に、最近変わったことがなかったかとか、悩みはないかとか」


 桃比呂から聞き取りされた内容と同じことを、今度は晴子が桃比呂に聞かなければならないらしい。なんだか滑稽で泣きそうになった。


「世間話しない」


「いつも並んでランチしてるじゃない。世間話じゃないなら何を話してるの」


「話さない」


 永井はどこか遠くに視線をやって髪が薄くなった頭頂部をぼりぼりと掻きむしった。


「まあ、君ら二人じゃそういうことにもなるか。似た者同士だねえ」


「似てない」


 そうだ、全然似てなどいない。自分は桃比呂のように大切なものなどなにも持っていない。

 晴子は自分の中のからっぽの昏い穴を見つめて目を閉じた。もうなにも話したくない。


 永井はそんな晴子の気持ちが聞こえたかのように「もういいよ」と軽く言って晴子を解放した。

 立ち上がり桃比呂の椅子を元通りの場所へ押していく。今日は桃比呂は休みだった。晴子は一人で昼食をとったのだ。

 寂しくはない。いつも通りだ。そのはずだ。

 そう言い聞かせながら。椅子を戻した桃比呂のデスクはきれいに片づけられ寒々としていて、晴子はカーディガンの袖を引っ張って両手を隠した。


 給茶機で麦茶を汲んでいると給湯室の前を井上順子が通りかかった。順子は今初めて晴子に気付いたかのように「あら」と声をあげた。


「相良さん、休憩?」


 休憩時間なのだから休憩しているに決まっている。それに晴子が席を立つと同時に順子も立ち上りついてきていることにも気づいていた。


「永井ちゃんに呼ばれてたけど、なにごと?」


「べつに」


 永井は仲のいい人たちから「永井ちゃん」と呼ばれている。内弁慶で、とくに仲良くもない晴子などとは普通の音量でしゃべるのだが、順子たち賑やかおばさんグループ相手だと大声で怒鳴るようにしゃべる。

 時折「ばかたれ!」と怒鳴っているのも聞こえる。そんなに仲良しなら、じかに永井本人に聞けばいいものを。


 晴子は面倒くさくて顔を背け、麦茶に口をつけてゆっくりと飲み干した。順子はわざわざ晴子が飲み終わるのを待ってから話を続けた。


「もしかして、異動のこと?」


 見当はずれの順子の推測に答える気は起きない。もう一杯麦茶を汲んで、聞いてないふりをしてゆっくりと飲み始めたが、順子は気にせず話し続ける。


「独身者中心に新しい拠点への異動があるっていうじゃない? 私なんかは主婦だから引っ越しは無理だけど、相良さんとかだったら身軽でしょ」


 今の社員数ではさばけないほど会社の業績は上がっていて、新しい事務所を構えるようになったらしいという話は、あちらでもこちらでも、ひそひそと囁かれていた。

 その話はさすがに晴子の耳にも入っていたほどだ。


「時給も上がるんでしょ? いいわねえ、若い人は」


「違う」


「ええ? 違うの? ならさ、立候補しちゃいなよ。今が稼ぎ時じゃない。社員っていっても契約だし、生活も安定はしないじゃない」


 安定という言葉に興味はなかった。そもそも生活することに意義を感じられない。寄生植物のようなものになりたいというのが晴子がぼんやりと感じていることだ。離れに根を張ってぼろビルに澱のようにたまった不安や不満や不幸せを吸い上げて生きていきたかった。


 順子はまだなにか話していたが、晴子は無視して給湯室を出た。

 きっと順子は腹を立てて永井あたりに晴子の態度の悪さを進言するだろう。晴子を職場に居づらくさせようとあれやこれやと手を回すかもしれない。

 だがそんなことはどうでもよかった。ここは自分の居場所じゃない。離れだけが自分が安心して過ごせる場所だ。

 晴子は足を引きずるように歩く。


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