3
シフトを確認すると二人の休みが重なる日がなかったので、晴子が余りに余っている有給休暇をとることになった。
その日は土曜日で両親が家にいるはずだった。かちあわないようにと晴子は早朝に起き出して手早く着替え、パジャマを洗濯機に放り込んで家を出た。外はまだ暗く、夜の名残で肌寒い。
エレベーターで一階に下りたところで、帰ってきた朝子に見つかった。
「お姉ちゃん、久しぶりー」
へらへら笑う朝子は酔っぱらっているようだった。
「お出かけー? どこ行くのー?」
「べつに」
「早起きだねー。私はねー、朝帰りー」
面倒くさいので放っておこうと朝子の横をすり抜けようとしたが、腕をがっちりと掴まれた。
「どこ行くのー、どこ行くのー」
「べつに」
腕を振りほどこうとしたが、いやに力が強い。そう言えば学生時代は部活で何か球技をしていたはずだ。握力も鍛えていたのかと、うんざりと妹を見上げた。
知らないうちによく成長していたようで、晴子より十センチは背が高い。そう思ったが足許を見るとヒールが五センチはありそうなパンプスを履いていた。
「私はねー、同窓会だったのー。お酒いっぱい飲んだー」
「ああそう」
「それでねー」
「うるさい」
晴子に邪険にされてもめげずに、朝子は話し続ける。
「元カレに会ったんだー。もう子どもが二人もいるって」
「知るか」
「私と付き合ってる時から、今の奥さんと付き合ってたって。私、二股かけられてたの。どう思うー?」
「知らん」
「私、傷ついたのー。すごく傷ついたの。だからねー、浮気させてやった」
へへへ、と朝子は顔を歪めた。
「浮気がばれるように、スーツのポケットにピアス片方入れてやった」
「あんた、結婚は?」
「するよ」
「旦那は」
「旦那がなにー?」
「傷つかないの」
「知ったら傷つくかな。だから、死ぬまで秘密なの。お姉ちゃんも秘密にしてね」
「知るか」
朝子の顰めたような笑顔が、くしゃっと崩れた。なにか痛みをこらえているような表情のまま、晴子の両腕を握って揺する。
「約束してよ」
「知らん」
「約束してよお」
両腕を握ったまま、自分より小さな晴子にすがりつくようにして朝子は泣きだした。晴子はため息を吐いて、朝子のしたいようにさせた。
声をこらえて泣く朝子の喉から息と混ざって高い声が漏れ出てくる。
たまに、ひっくひっくとしゃくりあげる音は、生まれてすぐのころの赤ん坊の朝子を思い出させた。
頭がまん丸でいつ見ても寝ていた。ミルクを飲むのが下手ですぐにしゃっくりをして授乳に時間がかかっていた。
母は疲れると途中で晴子に朝子を託した。晴子はしゃっくりを続ける赤ん坊を抱えた。腕の中の小さな生き物を見下ろして、このまま普通の呼吸に戻らずに死んでしまうのではないかと思ったものだ。
今、目の前で泣いている朝子は放っておいても死にそうにもない。しゃくりあげている声にも力強さがある。
本当は本人が一番それをわかっているだろうに。腹も減っていないだろう、トイレに駆け込みたいわけでもないだろう。それなのに大人はよく泣くものだ。いったい何が欲しくて泣いているのだろう。
考えても晴子にはわかりそうもなかった。ただ、いつもなら泣いている大人になど関心はないのに、朝子のことは気にかかった。
血がつながっているから、というのはなんだか違うような気がした。晴子にとって家族とは重い石であり、この世界に自分を縛りつける足枷でしかない。妹だからといって朝子が特別な人間なわけじゃない。自分にとって、いないと生きていけないような存在ではない。
ただ赤ん坊のころから知っていて大きくなるまで近くにいた、それだけでしかないはずだ。けれど放っておくのは違う気がした。
「大丈夫」
ぐずりながら朝子が顔を上げた。
「言わない」
涙と鼻水で朝子の顔はぐちゃぐちゃだ。
「誰にも」
朝子はぐちゃぐちゃの顔をさらにぐちゃぐちゃに顰めて「うー」と変な唸り声をあげて泣いた。
朝子の気がすむまで泣くのに付き合っていたら外が明るくなっていた。
「ごめんね、お姉ちゃん。出かけるの邪魔して」
「べつに」
つぶれたような鼻声の朝子の目が腫れて三分の一ほどしか開いていない顔をじっと見た。化粧が取れてぼろぼろの朝子は苦労を知らない小さな赤ん坊の頃に戻ったようだった。
結婚するというのは、きっと赤ん坊のように、何もかもこれから新しく始めていくということなんだろう。
「行ってらっしゃい」
「ん」
短く言って晴子は外に出た。
電車に揺られて二駅先まで。桃比呂の家がそんなに近いとは知らなかった。住所を見ると電車に乗らなくても、ぎりぎり歩いて行けそうだ。
電車を降りてからは桃比呂が書いてくれた地図にしたがって進む。電車を降りて駅から十分もしないうちに、はたと立ち止まった。道に迷った。晴子は自分が方向音痴だとは思っていなかったのだが、どうやら地図を読む能力がまるでなかったようだ。
駅まで戻ろうと、もと来た道を引き返そうとしたが、一つ目の交差点をどちらから来たのか思い出せなかった。振り返った時に体内磁石が狂ってしまったとしか思えない。
交差点で四方の道の先を覗いてみたが、どこまでも住宅が連なっているだけだ。
地図を見てみても、住宅街などはそもそも書きこまれていない。
朝早いせいか道を歩いている人もいない。いたとしても晴子は話しかける気には到底ならなかっただろう。とにかくどこかへ出なくてはと、適当に右の道へと進んだ。
一時間ほど右折左折を繰り返し、あてどもなく放浪して奇跡的に駅まで戻ってくることが出来た。底の薄いスニーカーのせいで足の裏と膝が痛い。もう無駄に歩き回るのはこりごりだった。
嫌々ながら地図に書かれた桃比呂の携帯番号に電話をかけることにした。と言っても晴子は携帯電話を持っていない。誰に電話をかける気もなかったし、晴子に電話をかけてくる人もいない。そもそも電話なんか大嫌いだ。
駅に公衆電話はなかったので目についたコンビニまで移動した。緑の受話器を取ってボタンを押す。ひとつボタンを押すごとに緊張してくる。電話をかけるなんて二十数年ぶりだ。手が震える。
十個目のボタンを押した。最後のボタンを押そうとしたのだが、受話器を握った左手が勝手に受話器を置いてしまった。コイン返却口に十円玉が落ちてくる。
自分がしたことなのにチッと舌打ちして十円玉を拾いあげ、もう一度電話をかける。最後のボタンを押す前に肺いっぱいに息を吸う。息を止めて力いっぱいボタンを押し込んだ。
『はい』
呼び出し音も鳴らないうちに応答があった。驚きのあまり晴子の動きが止まる。
『相良さん?』
桃比呂の声だ、間違いない。いつもの良く響く声だ。安心してどっと疲れが出た。体が重くて仕方ない。頭もうまく回らない。
何か言わなくてはと思ったが「もしもし」の「も」すら出てこなかった。
呼吸が荒くなり喉の奥からヒーヒーと乾いた雑音が聞こえる。声を殺して泣いているようなその音が聞こえたのか、桃比呂があわてたように言葉を続けた。
『道に迷ったんですね。駅前のコンビニですか?』
「う……」
『すぐに行きます。そこで待っていてください』
手短に電話は切れた。晴子が口を開かなくてもすべてを察した桃比呂に対する驚きから抜け出せない。受話器を耳に当てたまま動けない。電話しておいて「う」しか言っていない。恥ずかしさで身がすくむ。
日本語も話せないのかと自分をののしりたくなった。桃比呂は呆れているだろう。こんなダメな人間だと知られてしまって、どうすればいいか分からなかった。
いつも偉そうに周りの人間を無視している自分がただの無能だと知られてしまった。いや、もしかしたらそんなこと、とっくにお見通しだったのかもしれない。桃比呂は入社当時からずっと晴子のことを知っている人間なのだから。
いや、そう思っているのは晴子だけで桃比呂は晴子のことなど顔も覚えていないかもしれない。それどころか名前さえあやふやで到底知人とは呼べないと思っているのかもしれない。
いや、そうではない。桃比呂は自分の上司でもあるのだ。冷たい目で、あの細い怜悧な目で自分を監視し、ランク付けしているのかもしれない。そのランクの中ではどう考えても晴子は最低だった。
仕事は出来ない、コミュニケーションは取れない、笑いもしない、挨拶すらできない。それに、それに……。
もっとなにか浮かんできそうだったが晴子の頭はそれ以上回らなかった。ただ、背中を寒気が這い上って貧血を起こした時のように地面に吸い込まれそうだった。受話器にすがりつくように懸命に両手で握りしめた。
「相良さん」
耳元で声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
両肩を支えられた。
ほっと息が楽になった。両肩伝わる手のひらの体温。特徴のある深みのある声。いつも通りの冷静な口調、いつもと変わらない桃比呂だ。
大丈夫、私はまだ大丈夫だ。自分に言い聞かせながら振り返ると、そこには美女が立っていた。
「相良さん?」
晴子は美女の長身にまず驚いた。自分の背丈を二十センチは越えているだろう。きれいに巻かれた髪は豊満な胸元へふわりとかかり、細いウエストから腰のなめらかな線へと続くラインの美しさは格別だ。
二の腕の細さ、首の長さ、すべてが夢のようだと思わせる姿だった。
細面の頬にはまつげが濃く影を落とし、切れ長の目は理知的で、高い鼻と、薄いが形の良い唇が美女の知性を強調していた。
「大丈夫ですか?」
なぜか見知らぬ美女に気遣われて晴子は驚きから抜け出せぬまま、コクコクと何度も頷いた。美女は落ち着いていて聞きなれた、深く響くような低い声で囁いた。
「こんなことなら駅まで迎えに来ればよかったですね。すみません」
「……もも、ちゃん?」
晴子がかすれる声で呼ぶと、美女は弾けるような笑顔で「はい」と答えた。
桃比呂のマンションは新しい建物で、なんだかおしゃれだ。
ぴかぴかに掃除されたエントランスと、上品な照明で照らされたエレベーターホールの間には、オートロックのガラス扉がどんと立ちふさがっている。
晴子はぼろビルの素通しのエントランスとの違いが大きすぎて尻込みした。自分などが足を踏み入れていい場所とは思えなかった。広くて明るくてチリ一つないのではと思うほど磨きこまれている。
桃比呂がカードキーで扉を開けている間、晴子はぽかんと口を開けてガラス扉を見つめていた。その扉が音もなく開くと桃比呂が先に立って扉をくぐった。晴子がついてきていないことに気づいて立ち止まる。
「どうかしましたか?」
晴子はなんの反応も出来ずにぼんやりしていた。このまま時間が過ぎれば扉は閉まり、自分はみすぼらしい離れに戻ることができる。分不相応な場所に踏み込む必要などない。みじめな自分に似合わないところへ行くことなんてない。動かなければいいのだ。
そう思って、はっとした。一人では駅まで戻れない。
桃比呂を見ると、不思議そうに小首をかしげていた。
そのかわいらしさに晴子の緊張が解けた。このきれいな人に招かれたのだ。自分はここを通る許可を既にもらっている。ただ、通るだけだ。晴子は目を伏せてできるだけ周囲を見ないようにして桃比呂の後について行った。
エレベーターは音もなく三階へ滑るように昇っていった。開いたドアを開けてくれている桃比呂の脇をすり抜けてエレベーターから降りる。そのままじっと下を向いていると、後ろから名前を呼ばれた。
「相良さん」
振り返ると美女は眉をひそめていた。
「やっぱり、僕、見たくもないほど気持ち悪いですか?」
いつもの良い声で、美女が言う。だが表情はいつもの冷静なものとはまったく違って心配げに眉を寄せていた。
「……べつに」
もっとなにか気の利いたことを言って美女の悲しみを癒してやりたかったが、いつもの言葉しか出てこない。晴子は自分に口癖があるということに初めて気づいた。
「べつに」
もう一度口癖が出ると、桃比呂は微笑んだ。女神が降臨したのかと思うほどの美しさだった。その美しい笑みを浮かべたまま、桃比呂は部屋の鍵を開けて晴子を招いた。
「どうぞ、上がってください」
一畳ほどの狭いキッチンと対面にドアが二つ。その間の廊下を桃比呂が先に立って進んで奥のドアを開く。
開かれた部屋はピンクだった。ピンクのカーテン、ピンクのベッドカバー、ピンクのラグ、ピンクのローテーブル。それだけだと目が回りそうだが、趣味の良い観葉植物や真っ白で清潔なドレッサー、アンティーク調のサイドボードやシャンデリアやらで、インテリア雑誌の特集になっていてもおかしくないようなかわいらしい部屋になっていた。
ボケっと口を開けたまま固まっている晴子に、白いウサギとトランプがモチーフのティーポットにお湯を注ぎながら桃比呂が尋ねた。
「驚いたでしょう、こんな部屋で」
「はあ」
晴子の気が抜けたような返事に桃比呂は苦笑を返した。
「正直、自分でもあり得ないと思うんですよ」
晴子はぼんやりと視線を桃比呂に向けた。桃比呂はにっこりと笑顔を見せる。どう見ても美女だ。
「僕なんかが女装しても気持ち悪いだけだし、こんな趣味、会社に知られたらどうなることか」
そっと差し出されたティーカップを手に取る。赤紫色の縞猫と青いドレスの女の子が話をしている絵柄のカップだ。なにかのアニメーションだということまでは晴子にもわかった。
ティーカップから立ち上る湯気の香りを嗅ぐと、晴子が知っているティーバッグの紅茶とは全然違う、甘く爽やかな香りがした。気持ちが落ち着く。
晴子は深く深く息を吸うことが出来た。小さい頃、山に登って草むらをかき分けていた時の、茂みの中から空を仰いで白い雲を見た時のような、そんな気持ちになっていた。
だが晴子の側で桃比呂は暗く肩を落としている。
「ごめんなさい、相良さん。相良さんが嫌な顔をしなかったから僕は甘えてしまった。この趣味は誰にも見せるべきじゃなかった。でも、僕は寂しくて。一人でどんなに着飾っても寂しくて。相良さんになら見せてもいいのかと思ってしまって」
「べつに」
桃比呂は伏せていた顔をぱっと上げて晴子の目を見つめた。
「似合ってる」
ぱあっと桃比呂の表情が明るくなった。花が咲きこぼれたような笑顔だった。その笑顔がどれだけ美しいか晴子は教えてやりたかったのだが、晴子にはそれを伝えるだけの言葉がなかった。
「写真」
晴子は桃比呂のスマホを指さした。
「撮ろう」
桃比呂はスマホと晴子を何度も見くらべて、恥ずかしそうに俯いた。
「無理です。こんな滑稽な姿を写真に収めるなんて。裸で写るより嫌です」
男の裸と考えただけで晴子は気分が悪くなった。うえーと舌を出して眉を顰める。それを見た桃比呂は小さく首を横に振った。
「今日でやめます」
ふさふさのまつげをパサリと瞬いて、桃比呂はしっかりと晴子を見据えた。
「今日できっぱりと女装はやめます。普通の男の子に戻ります」
「男の子じゃない、おじさん」
ぼそりと晴子が呟いた言葉に桃比呂はショックを隠し切れなかった。
着ていたサーモンピンクのカットソーを勢いよく脱ごうとしてカツラが落ちた。つけまつげも片方取れてマスカラがカットソーの腕の部分について黒くなった。晴子はぽかんと口を開けて見ていた。
桃比呂が胸に巻いていた晒布をとると何枚も重ねていたパットがぽろぽろと落ちた。立ち上がってスリムなマーメードラインのスカートを脱ぎ捨てて黒い厚手のタイツに指をかけた。
女装の下からでてきたのはサラリーマンらしいアンダーシャツとボクサーパンツ。なのにタイツは履くんだな、タイツは下着扱いじゃないんだなと思うとなんだか笑えた。
「はははははははは!」
晴子は大口を開けて笑った。涙目になっていた桃比呂はぽかんと口を開けて晴子のぽっかり開いた口を見つめた。
「はははは! タイツ、タイツ、電線してる」
晴子が指さした先、桃比呂の右のかかとからふくらはぎに向かってタイツの糸がほつれて一直線に白い肌が見えていた。
桃比呂は、かあっと赤くなって座り込むと脱いだスカートでふくらはぎを隠した。上品に膝を崩した横座りだった。
晴子はその姿もおかしくて腹を抱えて笑った。笑って笑って涙が出た。半袖から突き出た腕で涙を拭いていると、顔を伏せたままの桃比呂がレースのカバーがかけてあるティッシュペーパーの箱を突き出した。
一枚抜き取って涙を拭きながら晴子は桃比呂の赤い顔を指さしてまた笑った。
桃比呂は憮然とした表情で晴子の笑いの渦が治まるのを待っていた。膝をぴったりとつけた横座りのまま、両手を膝の上に置いた姿は昭和初期の女優のように凛々しく、それに反してカツラをかぶっていたために逆立っている髪の毛のおかしさ、落とされないままの化粧の隅にいまだ残る美しさ、それらと男物の下着姿のギャップに、晴子の笑いはなかなか止まらなかった。
こんなに笑ったのは生まれて初めてかもしれない。最後の方には床に転がって、息を吸っている間にヒーヒーと変な声が混じるだけの笑いに落ち着いた晴子のつむじを見ながら桃比呂が呟いた。
「そんなにおかしいですか」
晴子は腹を抱えてゴロンゴロン床の上を転がりながら頭を縦に揺らした。桃比呂はむっつりと黙り込み、じっと待った。
笑いすぎた晴子は咳き込みながら起き上がる。桃比呂と目が合うと、また吹きだしそうになって両手で口を押さえた。
「もういいです。女装は今日限りですから。存分に笑ってください」
「なんで」
「なんで、とは?」
「似合うのに」
言葉に詰まった桃比呂はじっと晴子の顔を見た。
「本当に?」
「本当」
「でも、笑ったじゃないですか」
「だって」
晴子はニヤリと頬を歪めた。
「下着が変」
桃比呂は自分の胸を見下ろして、あわててカットソーを着なおした。
「すみません、女性の前でこんな格好を……」
「べつに」
スカートも履いて、かつらもつけて、一応の体裁をととのえようとしているが、化粧がはげかけた顔は美しくも、やはり面白い。
晴子のニヤニヤは収まらない。桃比呂は電線したタイツを隠そうと床に座りこむ。ぺたんこになった胸に顎がつきそうなほど深く頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「べつに」
晴子は手を伸ばして桃比呂のカットソーにくっついたつけまつげを取ってやった。
「すみません。化粧、落としますね」
「なんで」
首をかしげる晴子を、桃比呂が同じように首をかしげて不思議そうに見つめる。
「見苦しいでしょう」
「直せば」
桃比呂は上目遣いで晴子を見る。
「化粧をしている男は気持ち悪くないですか」
晴子はなにをいまさらとおかしくなって、またニヤリと笑う。
「べつに」
「面白がってるじゃないですか。やっぱり落とします」
立ち上がり、化粧品がたくさん置いてあるドレッサーに向かった桃比呂は肩を落として寂しそうだ。
「本当に、きれい」
晴子が言っても桃比呂はドレッサーの前でつけまつげを外している。
「本当に」
口紅を拭きとったティッシュをゴミ箱に捨てて桃比呂は鏡越しに晴子と目を合わせた。
「本当」
重ねて言う晴子はもう笑ってはいなかった。
「化粧しなよ」
しばらく二人は動かずに鏡越しに見つめあっていた。晴子は桃比呂を促すように顎を上げてドレッサーの化粧品を指し示した。
桃比呂の視線も同じところに向かう。色とりどりのアイシャドウパレット、何色もある口紅、ベビーピンクの頬紅、やわらかそうなブラシやパフ、ファンデーションは陰影をつけるための三色。
それらはどうしようもなく桃比呂を惹きつけるものなのだろう、愛おしそうに見つめている。
桃比呂は鏡の中の晴子をちらりと見る。晴子は真面目な顔で桃比呂が動くのを待っていた。
桃比呂は化粧用のパフを取り、乳液を乗せて顔に軽く当てて馴染ませていく。フェイスパウダーをはたいて、チークを塗りなおす。アイラインを乳液付きのパフで軽くふき取り、新しく描きなおす。つけまつげを付けて、口紅を塗って、透明なグロスで仕上げた。
桃比呂は大きく息を吸うと、息を止めたまま振り返った。
化粧などしたことがない晴子はあざやかな早業に感心してぽかんと口を開けていた。目の前に再び現れた美女から目が離せない。桃比呂は限界まで止めていた息を吐きだしてゼエゼエと荒い呼吸をする。
「なにか、リアクションは、ないのでしょうか」
息も絶え絶えに問うと晴子は無言で拍手をした。
「それはどういう意味ですか」
美しい眉を顰める桃比呂に晴子は親指を立ててみせた。
「美人」
桃比呂の頬がチークとは違う赤みを帯びた。恥ずかしそうに俯く仕草も奥ゆかしく愛らしい。晴子は飽きることなく桃比呂の美しさを見つめ続けた。視線と沈黙とに耐えきれなくなった桃比呂が顔をそらして立ち上がる。
「そうでした、服を見てもらうんでしたよね」
恥ずかしさを隠すように、そそくさと晴子の前を通り、クローゼットを開けた。クローゼットの中には花畑のように色とりどりのドレスが詰め込まれていた。
クローゼットの扉の内側に小さな棚があり、きらびやかなアクセサリーが集められている。足許には何足もハイヒールが並んでいた。
まるで小さなブティックのようなクローゼットに晴子はガラにもなくワクワクした。
「このあたりが全部小さくて」
桃比呂がハンガーごと数着の服を取り出した。赤いギンガムチェックのフレアーワンピースや、襟元が広く開いたシックなセーター、チュールレースを重ねたスカート、晴子が着たことも、着ようと思ったことさえもないような服が次々と出てくる。
「かわいいでしょう?」
桃比呂に聞かれて素直に頷いた。桃比呂の趣味はかなり良いように思われる。
薄い桜色のシフォンのブラウスに手を触れてみる。ふわふわした生地の襟元をリボンで止めるデザインで、持ってみると軽くしなやかに手になじんだ。
「そのブラウスなら、このスカートか、こっちのクロップドパンツを合わせてもかわいいですよね」
桃比呂がショップ店員のように両手にスカートとパンツを持ってブラウスにあててみせる。確かにかわいい。
晴子は頷きながら耳をかたむけた。桃比呂は次々とコーディネートを提案していく。フリルだらけのスカートにはシックなベージュのタートルネックのトップスを合わせたり、バッグは小ぶりな方が晴子の身長にあうと持たせてみたりと、いきいきと動き回る。
「相良さんにはこのワンピースが似合うと思うの」
夢中でしゃべっているうちに桃比呂の言葉はだんだんと女性っぽくなってきた。興味深い研究対象だ。晴子は真剣に桃比呂のファッション講義を聞き続けた。
「ハイウエストで、切り替え部分のリボンも優雅でしょ。タックがきれいに入っているからサラッとした落ち感が出るの」
桃比呂はハンガーにかけたままの葡萄色のワンピースを晴子の肩にあてて長さのバランスを見ている。納得いったようで、うん、と頷く。
「ねえ、着てみて」
「えっ?」
「絶対、似合うから。洗面所に引っ込んでるから。ほら、着てみて」
ワンピースを押し付けられて晴子はつい受け取ってしまった。桃比呂は小走りに部屋を出て行き、玄関側のドアの向こうへ消えた。
渡されたワンピースと桃比呂が入って行ったドアを見くらべて、晴子は途方に暮れた。
ワンピースなどもう二十数年着ていない。幼稚園のころお遊戯会で着て以来、一度もないのだ。
高校を卒業してからはスカートすら履いていない。だが楽しそうな桃比呂をがっかりさせるのも忍びなく、晴子はTシャツとジーンズを脱ぎ捨てた。
ワンピースを頭からすっぽりとかぶってしまえば着替えはおしまいだった。体を締め付けられることもない。素材もサラサラして気持ちいい。
ワンピースもなかなかいいではないか。満足して洗面所のドアをノックした。桃比呂がそっとドアを開けて隙間からこちらをうかがった。
「わあ、やっぱりかわいい! すごく似合うわ」
晴子のワンピース姿を見留めると大きくドアを開けて出てきて、肩のフィット感やスカートの丈のチェックなどを始めた。
「うん。これなら裾上げもいらないし、相良さんのために仕立てたみたいにぴったりね」
桃比呂は晴子の肩を押して洗面台の鏡の前に立たせた。
「ほら、かわいい」
確かに、ワンピースは可愛かった。だが、鏡の中の晴子は仏頂面でボサボサ髪、肌は乾燥して荒れていた。
隣に立つ桃比呂とは比べ物にならない。明るい気持ちが一瞬で消えた。腹が立って鏡の中の自分を睨みつけた。
桃比呂は晴子の顔を覗きこんで「どうしたの?」と心配そうな表情になる。
「べつに」
「べつにじゃわからないわ。どこか変なところがある? 裏地が気持ち悪かったりする?」
「べつに」
「ワンピース、好きじゃなかった?」
「べつに!」
晴子は両こぶしを握り締めて顔を伏せた。怒りのあまり目の前が真っ赤になって見える。
なにに怒っているのかもよくわからないまま歯を食いしばった。そうしていないと叫びだしそうだった。
一人になりたかった。離れに閉じこもって誰にも見られることなく腐り落ちてしまいたかった。
世界中の鏡を割ってしまいたい、世界中の人の瞼を縫いつけて見えないようにしてしまいたかった。
誰もいない世界。あの素晴らしい妄想を、今はうまく思い浮かべることが出来ない。もうこのまま黒い穴に飲まれて消えてなくなりたかった。
ふわりと肩が暖かくなった。顔を上げようとすると長い髪が頬に触れてくすぐったい。頭に重さを感じて、なんだろうと思ったら、桃比呂が晴子の肩を抱いて頭を撫でていた。
「大丈夫、大丈夫よ。何も怖いことはないわ」
耳元でやわらかな深い声が聞こえる。聞きなれた近しい声だ。いつの間に自分は桃比呂の声にこんなに馴染んでいたのだろう、とても心が落ち着いた。
まるで子どもをあやすように桃比呂は時間をかけて晴子の怒りを解きほぐした。次第に晴子のこわばりが緩んでいく。
桃比呂はそっと晴子の肩から手を下ろすと、優しく微笑みかけた。
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのかはよくわからなかったけれど、桃比呂の声にはなぜか説得力があった。
「ね、お化粧しましょう。気持ちが明るくなるから」
晴子の手を取った桃比呂はドレッサーの前に晴子を招く。晴子は大人しくついていった。
手を引かれて歩くと小さな子どもに戻ったような気持ちになった。椅子に座ってドレッサーの鏡を見る。
いつも通りの自分がいた。ぶすっとしていて気難しげで、この世に幸せなんかないと信じきっている顔。その顔も含めたなにもかも、腕も足も内臓も、晴子は自分のことを大嫌いだったのだということを思い出した。
ぼさぼさの髪を桃比呂が丁寧にブラッシングする。ヘアオイルを両手に広げて髪に馴染ませていく。ぼさぼさだった髪がしっとりと落ち着いた。
化粧の邪魔にならないようにピンで髪を止めておく。拭き取り用化粧水でそっと肌を撫でて、バラの香りがするローションと美容液をたっぷり染み込ませる。
カサついていた肌が生き返るようで晴子はうっとりと目を閉じた。化粧品はどれもみんな甘い香りがした。
懐かしいようで、それでいて初めて感じる香りに心躍る。目元や頬にブラシが柔らかく触れては離れていった。顎に手がかかって上向かせられ、唇に筆が触れるのを感じた。
丁寧に口角から中心に向かって筆が滑っていくやわらかな感触。いつまでも続けばいいのにと思うほど気持ちが良かった。
ピンをはずして軽く髪をととのえると、桃比呂は晴子の肩にぽんと手を置いた。
「はい、出来上がり」
そっと目を開く。鏡の中にいたのは不機嫌な女ではなかった。つぶらな瞳の小柄な女性がいた。
明るくて素直で幸せそうな、なにも不安などなくて明日が来るのが待ち遠しいと思っているような、そんな女性に見えた。
「私じゃない……」
「ううん、あなたよ。今まで隠されていた、あなた。やっと表へ出てこられたの」
晴子が鏡から目を離せないでいる間に、桃比呂は化粧品を片づけていく。
「お化粧は不思議よ。一瞬で自分を変えることが出来る。不幸だった自分を救い出すことだって出来る。僕が女性の格好をするのも、自分を解放したいから。それだけ」
話を聞いているのかいないのか、晴子はじっと前を向いて黙っている。
「高校生のときね、文化祭で女装してお芝居をしたの。男子校だったから女性の役は全部女装した男。ばかばかしいコメディだったんだけど、もうね、すごくウケたの。それまで人前に出るとか目立つことをするとか、そういうことと無縁だった僕が人を笑わせることが出来た。生まれ変わったような気がしたの」
「僕」
晴子が目を上げた。
「僕って言うの、一人称」
「ああ、そうね。そうだね。気が付かなかったな。僕は女性になりたいわけじゃないからかな」
口調が戻った桃比呂がおかしくてニヤリと笑い、晴子は立ち上がった。とても気分が良かった。このまま駆け出したい気持ちがする。今ならどこへでも、どこまででも行けるような気がした。
「帰るね」
脱ぎ散らかしたTシャツとジーンズをたたんでいると、桃比呂が大きな紙袋に何枚かかわいい服を入れてくれた。その袋にジーンズも突っ込んで玄関へ向かう。
「相良さん」
桃比呂が遠慮がちに目を伏せた。
「あの、服まだあるし。良かったら、またもらってくれませんか」
そんな言葉をかけてもらえるとは思っていなかった。ついさっき、怒りに負けそうになった無様な自分を見せたのに、桃比呂は呆れてはいないのだろうか。晴子は恐る恐る聞いてみた。
「また来ていいの?」
「もちろん! いつでも来てください」
本当に花が咲いたように桃比呂は笑う。その笑顔につられて晴子も明るい気分で大きく頷いた。
上機嫌で来た道を戻ってコンビニの前を通りかかり、ガラスに映った自分の姿に目が留まった。
かわいいワンピースに履きつぶしたスニーカーがアンバランスで眉を顰めた。
見なかったふりをしてそのまま通り過ぎ、電車に乗った。着なれないスカートのせいで膝下がスースーと頼りない。電車の中のすべての視線が自分の方に向いて眉を顰めているような気がする。
さっきまでの華やいだ気持ちが急速にしぼんでいく。みんなが自分のことを滑稽だと笑っている気がする。
イライラした。ワンピース一枚で浮かれた気分になっていた自分に腹が立った。軽薄だ。
胸の奥から昏い穴が、蛇が鎌首をもたげるように這い出した。浅はかで愚かな晴子を飲み込んでしまおうと、どんどん大きくなっていく。今にも食われてしまいそうになって晴子はぎゅっと目をつぶった。
車内アナウンスが次の駅名を告げた。晴子が降りる駅だ。開く扉の隙間をこじ開けるようにして駆け出した。
間一髪で穴から逃げ出した。けれど、本当は知っていた。ホームに降り立ち振り返る。そこに穴などなかった。
もとからどこにも、大学への通学路にだって穴などありはしない。なのにどこへ行っても晴子はこの世に存在しない昏い穴に捕まりそうになる。青ざめた晴子は見えない穴に追い立てられるかのように駆け出した。
大きな音を立てて鍵を開ける。家族がいようがいまいが、どうでもよかった。一刻も早く離れに戻りたかった。薄暗くてじめじめした晴子にぴったりの部屋に。
離れに駆け込んでドアを閉める。力が抜けてずるずると崩れ落ちた。紙袋が倒れて中から華やかな洋服たちがこぼれだす。
なんでこんなものが自分の部屋にあるのだろう。これはみんな桃比呂の、あのかわいらしくて良い香りのする部屋にこそふさわしい。
この離れに持ち込むなんて間違っている。離れに似合うのは灰色とさび色と、そして昏い昏い黒だ。
それ以外、あったらいけない。自分が自分でなくなってしまう。離れに似合いの自分ではなくなってしまう。
晴子は服をすべて紙袋に詰めなおすと、もう二度と目に触れないように、背伸びして押しいれの天袋に押し込んだ。