31.ナジェ王国と魅惑
『そのキラキラした上着は変えていただけませんでしょうか?』
サイモンがそう言ったのはそういうキラキラした上着は街では悪目立ちするから、だと思っていた。それだけではなかった。
「申し訳ありません、殿下。今度は後ろを向いていただけませんでしょうか」
黒髪の女性に言われるままクルッと回る。こうなる前に既にサイモンから借りた上着は脱がされていた。
スケッチブックにサラサラッと私の後姿を描くこの女性は、この仕立て屋のボーウェン家の家族や従業員から『先生』と呼ばれているサイモンの母である。無造作に結った長い黒髪が一房顔にはらりと垂れ下がっても気にする様子もなく熱心にスケッチブックに向かっている。真剣なその黒い瞳もケーリアン王国の東にあるナジェ王国人の特徴であった。
「本当に王太子妃様は尊敬いたしますわ!こんなにセンスのある方はなかなかいらっしゃいません!」
母に着せられているのはブラウスにリボンタイの上半身で下半身は私の私物。母の思い入れの大半は多分館に置いてきた上着の方にあると思うのだが。
「それに殿下はとても刺激を与えてくださいます。早く屋敷に帰って描きまくりたいわ!」
鼻息を荒くするスプリング男爵夫人。どうやら彼女はここの専属デザイナーらしい。婦人用だけでなく紳士服からお仕着せまでデザインの一手を担っているらしい。私達は応接室に居るのだが部屋の一角にそれとわかる服を纏った人型が三体ほど置いてある。その一体はナジェ王国の民族衣装だと思う。詳しくないのでどの辺りが彼女のデザインなのかわからないが。
「ありがとうございました。お座りくださいませ」
やっと解放されて溜息をつきながらソファーに座る。ニコニコしながらスケッチさせろと迫る男爵夫人を拒むことは出来なかった。有無を言わさないほどの圧にも慄いたが、止めてくれるはずのサイモンは食材調達の為に出かけていた。ボーウェン母娘は『先生の悪いクセ』が出たわぁと笑いながら店に戻っていた。突然世話になることになったわけだし、お礼のつもりで引き受けたが小一時間変なポーズと変な動きをやらされた。
「お茶を淹れ直しましょう。護衛の方もいらしたようだし」
男爵夫人はノックもされていないドアをいきなり開けて息せき切って私とサイモンを追いかけてきた護衛長を驚かせた。
「サイモンが戻ってきたら屋敷に帰りましょう。あ、そうそう。もう一人増えるわ。貴方の馬に乗せていただけないかしら?」
護衛長に唐突に聞く男爵夫人。ドア横に立っていた護衛長の言葉を遮ったのはこの店の娘だった。
「先生!私もお屋敷にお邪魔していいかしらぁ!!」
ばあん!とドアが開け放たれルイーズが顔を真っ赤にしながら部屋に入ってきた。
「ノックしてちょうだい、ルイーズ。それに決定権は私にはありませんよ」
呆れ顔でルイーズを迎える男爵夫人が次に見たのは私の顔だった。
「…え?」
「ヴィヴィエラ様!お願い!ヴィヴィエラ様といっぱいお話したいの!そうしたらお友達に自慢できるでしょ!」
歯に衣着せぬ言動は子どもの特権だ。だとしても子ども同士の世界でも失礼だと思うこともある。しかし、なぜだかルイーズにそれを感じなかった。
「え、ええ。わかったわ」
困り気味に了承すると歓声と共にルイーズが抱きついてきた。護衛長が慌てふためく。流石に男爵夫人が引っぺがす。
「何やってんの?」
サイモンが注文伝票片手に戻ってきていた。
スプリング男爵廷に戻ると男爵夫人は挨拶もそこそこに台所に引っ込んだ。デザインの仕事のない時は自ら料理を作っているそうだ。使用人は普段から少ないが今は祭りで帰省させているので故郷のない下働きの少女が一人だけらしい。今日は王家の使用人がこの屋敷を乗っ取った感じである。宮廷より狭く初めて見る廊下や部屋を顔見知りが行ったり来たりしているのはなかなかに面白い。
私は用意してもらった一室で入浴していた。疲れが一気に出てくる。
「すごいね。王女様っていつもこんな風にお風呂に入ってるの?」
浴槽の反対側から興奮した少女の声がする。
「う、えぇ…。『こんな風』には入ってませんけど」
ディアーナお姉様とだって一緒に入った事ないのに…。子ども同士とはいえ一人用の浴槽に二人で入ると足が延ばせない。ルイーズはそういうことは全く気にせず、嬉しそうに私の顔を見つめている。
「家はね、浴室があるのよ。でもすぐお湯が冷めちゃうからあまり好きじゃないけど、お部屋にお風呂を運ぶのはいいね!」
ザバァッと湯を波立たせて一瞬で私の目の前まで近付くルイーズ。
「ヴィヴィエラ様と一緒にお風呂に入った女の子って私だけよね!」
『女の子』どころか誰かと入るのも初めてなのに。私の心も湯船の湯のようにユラユラ波打つ。ルイーズの幼い可愛らしい顔とキラキラした瞳が眩しい。
「殿下、ルイーズ様。そろそろお着替えなさいませんと晩餐に間に合いません」
隣の部屋で着替えの準備をしていた女官が部屋に入ってきた。急いで湯船から出た。なんだかドキドキクラクラする。少しのぼせたのかもしれない。きっとそうだ。
「出ちゃうの?じゃあ私も出るわ!」
女官が慌ててルイーズの手を取ってバスタブから出してやる。湯船は子どもには高さが有り過ぎる、階段代わりに木箱が据えられているが注意をしないとひっくり返りそうだ。
「私もお姫様になったみたい」
うふふと笑うルイーズはとても可愛らしい。
「…こんな風に誰かとお風呂なんて初めてだわ」
私は顔が妙に火照っているのを感じながら呟いた。
「ヴィヴィエラ様は温泉は入った事ないんですか?」
ルイーズは驚いたように言った。
「おんせん…?なあに?それ」
「自然に熱いお湯が沸く泉のことですよ。入るととても気持ちがいいそうですよ。ナジェ王国は温泉が多数あって、国境近くでも温泉がありますよ」
女官が私の体を拭きながらルイーズの代わりに答えた。
「すごい!お姉さんよく知ってるわね!ナジェ王国に行ったことあるんですか?」
シュミーズ姿で髪を拭きながらルイーズは女官に尋ねる。
「残念ながらありませんわ。ただ、私はある作家の読者なので…」
「作家?」
「…アシュリー・クリスタル」
その名を口に出すのが何故か恥ずかしい。
「殿下もお読みになりました?閣下の『ナジェ王国の歩き方』!私は読ませていただいたら本当にナジェ国を旅しているような気分になりましたわ」
アシュリー大叔父様は王族の中では出版物が一番多い。中でもナジェ王国に関するものは10作品以上出していてアシュリーファン以外にも人気がある。
「そうなんですか!でもこの街にも温泉あるんですよ。…あ、でもヴィヴィエラ様が行ったら大騒ぎになっちゃいますね」
どうやら大衆用大浴場になっているらしく、貴族はなかなか行かないらしい。唯一スプリング男爵家の者だけは気軽に行っているとルイーズは言う。
王都に近い領を持つ伯爵家出身の女官と私は軽いカルチャーショックを受けた。




