第78話:航空技術者は思い出す
ク1の基本設計が完了してから1週間後。
1人の九州男児が首都に召集された。
その男の名は前田健三。
九州航空会と呼ばれる九州大学が中心となって発足した、エアスポーツ活動を中心とした学生や民間企業の啓発団体に所属して才能を開花させた人物。
九州大学の航空研究者である佐藤教授に見出され、醤油屋からグライダー製造へと転換した民間企業の社長もとい所長である。
俺が見たク1の写真。
その写真の背後にある茅葺屋根の建物こそ、元は醤油蔵だった場所。
未来の世界の人間なら"ありえぬだろ……"と思われる事業転換であるのだが、近代工業に励む今の時代の皇国においては珍しくなかった。
ちなみにク1の製造風景の写真も残っているわけだが、割烹着を着た女性が、かんなで木を削ったりやすりで構造部材を磨いたりしている。
元々醤油製造に関わっていた者達である。
恐らく記録上、皇国内では史上初めて女性が航空機製造に関わった事例ではないだろうか。
末期に強制動員されるずっと前の段階で、彼女達は皇暦2590年からグライダー製造に関わっていた。
この頃に民間航空会社で女性が工員として働いた事例が確認できない。
人手が足りないとかそういうわけではなかったそうだが、この当時から女性が先進的な工業に関わる姿がピックアップされ、雑誌記事などになっている。
女は専業主婦でもしていろという話ではない。
当時も女性が働く事は割と珍しくなかった。
むしろ専業主婦などNUPぐらいにしかいない。
軽工業の分野でパートとして働く女性は多くいた。
だが、重工業のグライダー製造に関わったというのは当時としても画期的で、しかも彼女達は命じられるままに作るのではなく、航空機の特性やそれに合わせた木の性質も理解していた点は特筆に価する。
前田航研には女性達による研究論文すら残っている。
今の時代ですら珍しすぎる光景と言わざるを得ない。
特に皇国においてはそうだ。
ちなみにその九州航空会だが、戦後も組織は存続。
俺がやり直すその時にまで組織は続くわけだが、彼らは航空会時代、皇暦2601年に滑空時間13時間41分という当時の皇国の記録を打ち立てたりなど、召集した前田健三以外のメンバーも滑空機のスペシャリストばかりであった。
ここでいう滑空は無動力自力滑空。
つまり発動機を一切装備しない通常のグライダーによる滑空飛行が13時間14分という記録である。
その時のグライダーの名前がかもめ号なのだが、このかもめ号の見た目は未来のグライダーと全く変わらない。
なによりも重要なのがこの時までの飛行記録は国外製のグライダーによるものばかり。
あくまで国外製のグライダーで国内を飛んで出した記録だった。
それを塗り替えたのが完全国産のものだったので、当然皇国人の性なので大々的に新聞で報道される。
俺もその写真を見たが、かもめ号の構造は見事だった。
そのミームは次代にも受け継がれる。
俺がやり直す直前、彼の息子は、世界で初めて飛んだ航空機を復元したりした。
飛行時間は3秒だったが、彼らは本当に飛べる軽飛行機などを開発しており、12秒に対する3秒だから技術力が足りないというわけではない。
むしろ当時の設計を再現して飛ばせた事に意義がある。
しかもこの機体は自力飛行が3秒だっただけで滑空試験には成功している。
つまり足りなかったのはエンジンやら何やら他の部分であったということだ。
父親も息子も滑空に関しては本当にスペシャリストであると言える。
だからこそ俺はク1を彼らと共同開発したいわけだ。
◇
立川に訪れた前田所長はとにかく新鋭機の姿に興味を抱いていた。
「たまげたなぁ。軍機密で非公開であったから知らなかったが、随分新鋭化したねえ。標準的な翼は九七戦でやめてしまったのか」
丁度キ47による演習が終了し、整備途中であったその姿を見た所長は興味津々に翼型をなどを眺める。
「正式採用までは黙っておいてください。周囲に語りたくなるとは思いますが」
「九州男児たるもの弁えてるつもりだよ。それで信濃技官だったか。今日は僕に何の用なのかな。こんなグライダー屋は立川には不要だろう」
やや謙遜気味で背を丸める所長であったが、俺は設計室に彼を案内してソレを見せる。
「こいつは……輸送機……じゃないな」
「それは私が設計した中型モーターグライダーのラフプランです。それを新鋭の輸送機でもって飛ばします。所長が九州大学に提出されていた双胴型大型グライダーがあるじゃないですか。我々からすると中型扱いなのですが、40人の人間を乗せて滑空させます」
「アレを見たのか……技研はよく目が行き届いているなぁ」
皇暦2599年。
九州航空会にて提案されたのが30人乗りの双胴型大型グライダーである。
ク1の前身となるものだ。
前田航研は軍需に関わろうとしたというよりかは、当時の旅客機の様子を見ていて考案したというのが正しい。
当時の皇国の旅客機は正直大した航続距離がない上に人数も大した事がない。
そこで前田所長が考えたのは、軍などが放出する格安の複葉機に大型滑空機を牽引させ、それで旅客機や遊覧飛行に使うのはどうだろうか……
――などと思いついたのである。
実際、コスト的に考えれば極めて合理的であった。
速度などを除けば、未来の世界にそういうモノがあってもいいぐらいである。
陸軍はそこに目を付けたのだ。
本来の未来でも実は彼は今の時期に技研に呼び出される。
そこでク1の開発を命じられるわけだ。
それは最終的にク7、キ105へと発展するわけだが、実はク7こそが最初に陸軍に提出していたプランで、前田航研の実力が不明すぎるのでまずはク1となったのが実態である。
実際にはク7は当初よりそれなりに完成しており、ソレをベースにキ105が作られたわけだ。
前田所長の設計は少なくとも間違っていなかった事は実機のキ105を見た事がある俺が良く知っている。
性能は計算どおりであった。
だからこそメタライトという新素材こそ用いるが、彼にもこの開発は手伝ってもらいたいわけである。
「信濃技官であったかな。君も前方や左右の視界が優れた機体を好むのか」
ラフプランの段階のク1を見た前田所長は、俺が前方のウィンドウをかなり大型のものとしている事に仲間意識をもった。
「ええ。所長の影響も少なからずありますよ。論文はよく拝見させていただいてたので」
「それはとても光栄だ。だが論文にも書いていない事があってね。信濃技官、君は富士山頂にまで登頂した経験は?」
「……ありません。登山経験がないわけではありませんが」
あまり空と関係なさそうな話ではあるが、3000m級の山頂。
どういう意味があるのだろうかとても興味がある。
「富士山頂の周囲をぐるりと回るとまるで雲の上を散歩しているようだ。僕はね、グライダー開発において最も重要なのは空を散歩している気分になる事だと思っている。風の影響から風防は必要だが頭以外は逆に胴体で覆ってしまって、顔だけひょっこりと出して周囲を見回せるようにした方がより没入感が増す。富士山頂を歩くと静岡と山梨の町並みの光景が全て見えるんだ。視界を塞ぐ壁が無い。なぜなら富士より高い山は本土に存在しないのだから」
「最近似たような光景を私も見ました。まるで雲が海のようでしたよ」
「あの最新鋭機は君が設計したものだね。翼や胴体の形が良く似ている。全体構造が似ているんじゃない、空力特性が似ているんだ。翼だけでなく胴体全体で安定化を図ろうとしている。軍用機でそんな設計をする人間がいるとは思わなかった……あれもいい滑空特性があるだろう?」
さすが滑空機のスペシャリストだ。
その通り。
俺も安定性を重視した設計が基本だ。
そしてキ47、キ57の翼と胴体構造は滑空能力にも優れている。
やはり突出した人間というのは見ただけでわかってしまうのか。
「今回と同じく基本設計は自分が担当ですね」
「まあ君でないとあんな風防にはしないだろうなと思ったよ。ところで君はどこで航空技術を学んだ?」
「自分は谷先生ですよ」
「そうではない。何からキッカケを掴んだのかと聞いているんだよ」
キッカケ……か。
そういえばなんだろうな。
きっと今俺はあっけらかんとした表情で黙っているんだ。
答えが見つからない。
何のために航空機の世界に入ったのか、忘れてしまっている。
でも谷先生がキッカケであることは間違いない。
その前の何かを問いかけているんだろうが何かが思い出せない。
これまでずっと大したことではないと考えていたからなのかもしれないが……
「正直に話しますが、忘れてしまって覚えておりません」
「そうか……僕は山だ。それも山梨から見た木曽山脈を見たときだ。あそこでは夏ごろになると雨季の雲が山へと流れ込む。その山脈の雲の動きが不思議なんだ……雲が山の斜面を滑り落ちる。なぜ雲は山脈に沿って上に上がっていかないのか……それを調べているうちに揚力に辿り着いて、人がそれで空を飛んでいる事を知った。風の特性の研究が僕の本来の目的で、風の性質を追求するための滑空機研究でもある」
知らなかったな。
そんな背景があったのか。
木曽山脈などで雲が山に沿って流れ落ちる要因は気温差。
山頂の先の大気より流れてきた雲の方が温度が低いとそうなる。
流体力学においては山と雲からの発見は多い。
山によって変化する雲の動きはまさに翼による大気の動きと同じようなもの。
彼のキッカケはそういうものだったのか。
「僕は台風が去った後の日本海側の景色が好きだ。記録として撮れない美しさを言葉では表現できないから……朝方の山霧も好きだ。皇国と言えば山霧。そういう人間もいるほど神秘的だ。まるで生命の脈動を感じる地霧も好きだ。地霧が出る畑ほど作物が良く育つとは言うが何か関係があると思っている……夕日に近づく太陽の光に照らされた雲が好きだ。なんかとても物悲しくて切なくなる。滑空機の研究はまさに空を散歩してそれを楽しみたいからだ。だから邪魔な金属フレームだらけの風防などいらない。今日の今日まで航空機では無理だと思っていただけに、立川に来れて人生が変わったよ」
それは違うな所長。
貴方が滑空機で目指したものを俺が受け取ったんだ。
別の世界を通して前倒しになったに過ぎない。
「そういう思想を持つ貴方に軍用機の開発を依頼するのは忍びないです。ですが、勝てば九州航空会の目指す夢は果たせますから、今はどうかご協力を」
「わかった。出来るだけの事をやろう」
そういって両手で俺の右手を握ったその手は熱く燃えていた。
今はやるしかないんだ。
未来を知る人間だけがわかる。
やらなければ夢を奪われる。
彼の話を聞いてようやく思い出したよ……航空機にのめり込む最初のキッカケを。
東京の空に空の怪物たる飛行船が現れたことが全ての始まりだった。
そいつが3日かけて9000kmを移動してNUPに移動したと聞いて、皇国にもそういうものが生まれていつでも乗れるようになりたい。
すでに飛行船の時代は終わったが次は航空機の時代。
きっと大人になる頃には9000km移動できる航空機が生まれる。
そんな事を考えて谷先生のいる大学に忍び込んだのだ。
俺が今作る9000km近く移動可能な航空機は爆弾を背負うが、もし全てが終わったら1万2000km移動可能な旅客機を作ろう。
勝って死ぬまでにやれなかったことをやろう。
前田所長からやや目線を外した窓の外には、夕方から夜間に向けての飛行試験へと向かうキ47の姿があったが、ようやく自分の果たしたい夢を取り戻したことでキ47が一瞬ジェット旅客機の幻影と重なった。
◇
それから5日ほど。
立川に寝泊りする前田所長と共にク1を突き詰める。
技研のメンバーも混じって話し合ったが、戦場で着陸した後に簡単に回収できるよう翼などは簡単に外せるようにし、現地で簡単に分解して輸送可能なような設計とする事にした。
また、当初の計画では着陸脚……というか車輪を大量に据え置く方式だったが、滑空時の抵抗となる事などから車輪は頑丈な物とした上で固定式の五輪とする事に。
どんな場所でも着陸できるようキ51のものを流用する。
また、底部には鉄板を張り、最悪胴体着陸も可能なように調整。
操縦用の機器も可能な限り流用。
後部ハッチはキ105と同じく油圧開放式。
空中でのハッチの開放も可能とする。
翼型などは踏襲されたが、より現実味が増した滑空機となった。
詳細設計も前田所長を交えた技研のメンバーで行い、後は作るだけという事に。
前田航研には一部パーツを製造分担してもらう事にした。
現物の製造は陸軍で募集して手を挙げたメーカーにやらせる事にする。
キャパシティに余裕があるのは川東、山崎、それと立川などの下請け系。
いずれでも良いと思われるので選定なども任せる事にした。
ようは機体が出来ればいいのだ。
前田所長はある程度設計が済むと九州の地へと戻っていったが、今後は連絡を取り合いながらパーツ製造をしてもらう。
とりあえずク1だけは何とかなったな……
大型滑空機はク1の完成度によるというが俺は悪くない出来だと思っている。
あとは40人乗りの滑空機が戦術的優位性を示せばいいだけだ。
◇
皇暦2599年9月17日。
俺の予言通りついにヤクチアが動き出す。
ヤクチアによるポルッカへの進軍開始。
いよいよ第二次世界大戦の火蓋がきられようとしていた。
現時点で地中海協定締結国は動く気配が無い。
実は地中海協定締結国には秘密協定が結ばれていた。
皇暦2600年9月1日にヤクチア、第三帝国に対し宣戦布告。
その時点で両国における協定や条約を結んでいた国家は、それら全てを破棄することとなっている。
仮にそれより前の段階で締結国のどこかに進軍した場合でもこの秘密協定は有効となる。
ポルッカを犠牲に、俺たちは耐え忍びながら蓄える戦いをする事になった。
それは第三帝国の軍事力を底上げする行為ではあったが、ユーグが一丸となって戦うならばまた違う展開になりうる。
なによりも皇国とアペニン。
この両国と刃を交える事になるわけだから、第三帝国にはよほどの戦力が必要となるのは明白。
今一番の不安はNUPの影の支援がこの二国に及んでいないかという事だけだ。
表向きNUPは中立姿勢を保ちつつユーグ側に傾いているように見えて、あの大統領は裏で何しているかわからない。
この時の俺はその不安がすぐさま的中する事に気づいていなかったのだった。
◇
所長が九州に戻って約2週間後。
ついにキ57こと百式輸送機の1号機がロールアウト。
さらにこのロールアウトとほぼ同時に試製標準航空機燃料1型も完成。
ポリエーテルアミン配合のこの航空機燃料は、藤井少佐が徹底的に様々なエンジンでテストして最も優れた燃料配分を見出したもの。
オクタン価は99.4~6で、調合は難しくないよう配慮されている。
きちんと添加剤を混ぜ込めば現地でも製造可能。
ポリエーテルアミンについては当初こそ半信半疑だった少佐だったが、実際に自ら製造して使ってみるとそのポテンシャルの高さに感動し、最もエンジンを汚さない1%の配合量に拘りつつオクタン価を98に落とさないよう、とにかく努力が続けられた。
すでに実証実験なども行われているがとにかくエンジンが汚れにくい。
そして汚れたエンジンを簡単に洗浄できる。
藤井少佐の配合はあまりに見事で、それなりのパイロットだとポリエーテルアミン配合か配合でないかを乗っているだけで理解できるほどだった。
しばらく飛んでいるとスラッジなどが堆積し、微振動などが増加して明らかにレスポンスが変わるからである。
上層部も洗浄能力の高さに驚いていたが、PEAことポリエーテルアミンはエンジン洗浄剤としての採用も決定された。
今後は現地でエンジンを一旦分解した後の洗浄液としても使う。
これだけでも大分整備が楽になる。
技研の整備班は稼働率の大幅な向上に期待を寄せていたが、ハイオクとPEAの複合でどれだけ皇国の航空機の稼働率が上がってくれるか俺も期待している。
俺たちには物量に不安があるからこそ、稼働率で立ち向かうしかないんだ。
一方ロールアウトしたキ57はカタログスペック通りの性能を発揮。
特にSTOL性能については高く評価された。
一応、ロケットブースターによる短距離離陸も可能なのだが、それが無くともかなりの短距離で離陸できる。
見た目は正直キワ物だけどな。
ノラトラを少々小型化させただけのようなモノだから。
前田所長が見たら驚くだろう。
ク1にそっくりな輸送機が別にあるのだから。
試験飛行では命の危険を顧みない30人の将校が乗り込んで空の旅を楽しんだが、旅客機より揺れないと存外に好評だった。
まだ試作の段階でエンジンが停止して墜落したらどうするのだろう……
そのためにパラシュートを背負ってはいたが、西条まで乗り込んでいる始末。
西条は"乗り心地は307よりいいが307ほど快適ではない"――などとと言っていた。
一体何と比較しているんだ……
まさか与圧室を設けて旅客機にしろとでも言うんじゃないだろうな。
ちなみに試作1号機は間に合わなかったのでハ43を装備しているが、今後ハ43-Ⅱの完成度次第では正式機はハ43-Ⅱを装備することが検討された。
そのため、近々完成する試作2号機と3号機はハ43-Ⅱを装備する予定だ。
海軍に貸与される3号機は当初より高性能となった機体となる。
完成した1号機はしばらくの間立川で飛行試験に用いられた後、富士へと向かって空挺部隊の演習に用いられる事になった。
そこで見つかった弱点などを随時改良していく。
前座として立川においても空挺降下が行われたが、あまりの光景に翌日の新聞の一面を飾ってしまった。
キ57こそ写っていないが、大量の落下傘降下する空挺部隊の姿が公開される。
やってしまったな。
この時代に30人乗りの空挺降下可能な航空機は限られる。
20人未満が精々な所30人が可能な機体がいると国外に知られたら警戒されるぞ……
キ57の1機で30人だが、完全に制空権が取れている場合はク1と合わせて70人送る予定すらある。
陸軍も妙なところで失態を……
まあいいさ。
キ57の性能が判明したわけじゃない。
ギガントはこの時点で判明しているから皇国もギガントを入手したと勘違いしてくれたらいいな。
そっちよりも有用な輸送機などと勘付くなよ。
◇
皇暦2599年10月4日。
富士におけるキ57の演習を見届けた後、横浜港に到着して浜松に届けられたモノを長島大臣と共に確認しにいく。
到着したのはZDB125。
特に航海中に錆びるとかそういう事はなかった。
まあ油で徹底的に磨くよう指示したからな。
おかげで横浜で確認した時には機械油の匂いが酷かったが、錆1つない状態だったから致し方ない。
ZDB125はすでに数台を山崎や、目白などのメーカーに供与し、とりあえず可能な限り再現した車両をこさえるよう命じている。
浜松には3台が運ばれ、これを基に長島と共にライセンス生産して量産化するのだ。
無論、その主導的立場となってもらう男はあの人物である。
もう1つの技研を本来の未来ではこさえる男、宗一郎だ。
現時点でこの男はピストンリングの開発のために努力している。
元々はただの自動車修理工場であった会社を、自動車製造業に転換させた意義は大きい。
ただ、この会社をこの男は最終的に売り払い、そこから二輪に目覚めて再び四輪の世界に入るのだがな。
技研はこの時生まれる組織だ。
正直言って、歴史的な流れを考えるなら皇暦2601年以降にZDB125は渡すべきなんだ。
現在の状態でこれを量産しろと言っても無理だ。
だが長島大臣は宗一郎にどうしても任せてみたいのだという。
彼は天才であり、長島が手を貸せば何とかできるというのだ。
そのための出資すら惜しまないという。
皇暦2599年10月段階でピストンリングは量産されてはいる。
ただし品質的には50本納入しても20本程度しか品質検査に合格しない程度。
まあ最初の3本よりはマシだったが、それでも半分以上は品質を満たさない。
何度も上下に動くピストンにおいてピストンリングが果たす役目は、エンジンオイルを纏って摩擦を極限にまで緩和させる事。
レシプロエンジンではエンジンの性能すら左右させる重要な部品。
後に平気で1万回転オーバーのエンジンを作るメーカーの最初の一歩は、当時は3000回転前後が限界だったレシプロエンジンのピストンリングの製造だった。
この頃の皇国においてはまともに量産できるものではなく、職人が1つ1つ時間をかけて作るものだった。
それを最終的に戦時中にオートメーション化してしまったのが宗一郎である。
現在は必死に冶金技術の吸収に精を出しているが、この時の経験が後々に大きく活かされる事になるわけだ。
長島大臣はZDB125が単気筒で当時としては高回転型な2ストロークエンジンであることから、彼の力は絶対に必要だと考えている様子だった。
俺もそこは否定しない。
だが果たして本当に作れるかどうかは未知数。
エンジンが作れれば車体に関してはどうにかさせられる。
言わば心臓部たるエンジンを宗一郎が再現できるかどうかが重要だ。
あんまり時間がかかってもアレなのだが、皇暦2600年にはピストンリングの品質を大幅に向上させている。
あとは後に死ぬまで乗り続けたいと言っていた二輪に現時点で興味を抱くか……




