第71話:航空技術者は少年に声をかける
王立国家へと旅立つ当日。
朝の散歩に出かけた俺は、まだ本当の恐怖が始まらないハンブルクの公園にて、公衆の面前で叫びたくなった。
きっとそれをすればすぐさま逮捕され、未来を変える事無く人生が終わる。
だから出来ない。
この時期に第三帝国に訪れた事はなかった。
いや、俺のような人間が本来は訪れる資格すらなかった。
それはある意味で正解だったのかもしれない。
当時の脆弱な精神しか持たぬ俺では、これを見て間違いなく第三帝国と敵対すべきだと主張したことだろう。
それも感情的に一心不乱にいますぐ敵対すべきと、そう訴えた。
俺は映画の世界でしかこの時期の第三帝国を知らない。
だから映画の演出など過剰演出だと思っていたぐらいだったが、事実は小説より奇なりであった。
映画の方がよほど演出が大人しい事に気づいてしまった。
未来を知る人間にとっては、ヤクチアに赤く染められた皇国よりよほど今の第三帝国におけるユダヤ人のほうが人権というものが尊重されないなど知りたくはなかった。
よくも奴らは平気な顔をして後の未来でユーグ地域の経済的中心地となっていられるものだ。
皇国にはここまで特定の人間を蔑ろにするプロパガンダを街中に掲げたりはしないぞ。
そもそもが皇国のプロパガンダの原因はNUPの無差別爆撃にあり、無差別爆撃こそがNUPに憎悪を燃やした最大の原因。
NUPの人間に対する非人道的な行いの全ては無差別爆撃が引き金。
それまで、皇国は列強国は紳士たれとばかりにできうる限りで人権を尊重してきた。
いや、WW2においては最も人権を尊重した国だと自負している。
民間人による敵性外国人の移送などはきちんと行っていたのだ。
むしろそれを知っていて留まった連中すらいるほどだ。
公園や商店街を歩いていて、俺は西条の遺言を思い出したよ。
"なぜユダヤを救わずに皇国人を収容したNUPが平然とした顔でいるのか"
"なぜ広島と長崎の行為が許されるのか"
"それを王立国家などに問いかけたかったが、最後まで認めなかったあの裁判の不当さは全てそこに集約される"
本来の未来における西条は己を無罪だと主張していない。
皇国のために潔く死ぬ。
拳銃自殺をした要因は潔く殺させてくれないと思ったからだ。
彼は元々、特攻などを正当化しようとは思っていない。
最後まで自責の念を周囲に吐露していた。
そればかりか周囲には陛下のために全てを背負って死ぬとまで言い切った。
しかし彼は最後まで知らない。
陛下も後に続くことになるのを。
彼が処刑されて半年もしないうちに陛下も処刑される。
まさにあの戦いの理不尽さは列強国が思うがままに敗戦国を裁いた事だ。
誰か一人でも擁護しようものなら陛下の命ぐらいはなんとかなったかもしれない。
今の世界における西条はすでに知っている。
自分が無駄死にしてしまうことを。
だから彼は陛下になるだけ近づかないようにし、陛下の責任が軽くなるよう努めている節がある。
そんな事をするよりも勝てばいいのだ。
勝った上で叫べばいい。
我々は"無差別爆撃のようなことでも無い限り"人権を尊重すると。
少なくとも"人権とよばれるものが存在する国同士"の"戦争"においてはそうした。
実質的に事変だった頃の華僑では一部問題も起こしたが、蒋懐石の息子が今必死で教育改革を加速化させているように華僑自体も随分問題がある行動は起こしている。
その辺は互いに戦後賠償請求を行わなかったりしたなど、なんだかんだ反目しあったりしても一種のシンパシーは感じていたと考えられるが……
重慶爆撃を回避した今の世界においては、まさに天高らかに曇りの無い眼でもって言い切れる。
皇国はユーグが想像するWW1の頃と変わらぬ侍の国なのだと。
だとすれば第三帝国のこれはどうなんだ。
街中に平然と反ユダヤを掲げるポスターや看板が大量にある。
国ぐるみでこんな事をしている国家を俺は他に知らない。
第三帝国以外にあるのなら教えて欲しい。
略奪や虐殺を繰り返すヤクチアですらソレはやらなかった事。
どこまで常識が吹っ飛べばこんな事が出来るんだ。
もはやギャグにすら見える。
ギャグではないし、この後の悲劇すら知るが、NUPの皮肉たっぷりなディストピアなB級映画のセットかと思うほどだ。
街中がそんなZ級映画で満たされている。
鉤十字のマークよりよほど多い。
ここはハンブルグぞ。
俺の知るハンブルグはどこに行ったんだ……
第三帝国の反ユダヤ政策は皇暦2593年から始まっている。
本当の地獄はこれからだが、奴らが法治国家でありながらこれほどの人権侵害を国民単位で主導していたとは知らなかった……
この世には死刑と対等な裁きがあるというのを知らぬ者は多い。
それが国籍の剥奪。
ユーグを含め、いくつかの国には死刑と対等な処罰として実際に剥奪される者がいる。
国籍を剥奪された場合、事実上の自然権も剥奪されたも同義で国に一切保護されないと言ってよい。
70年後の未来では東亜のある地域で大問題となり、第二のホロコーストと叫ばれる。
なぜそれが第二のホロコーストと叫ばれるかと言うと、ホロコーストは最初は労働権の剥奪によって火蓋を切られ、その後は国籍の剥奪へと派生して加速して行ったからだ。
この第二のホロコーストも宗教関連で発生した問題。
事実上の宙に浮いた人間は国家からなんら保護されることなく、所有権などはそもそもが自然権に該当しないので完全に失われる。
よく言われる自然権における財産権とは労働等に対する"対価"を請求できる権利であり、一般的に認識される私的所有権などとは意味が違う。
そもそも私的所有権などムッソリーニなどが"国家において必ずしも必要ない"――というように、後の世においても事実上存在しない国家は俺がやり直す直前まであるわけで……
しかも、それで特に問題が無く国家として成立していられるもの。
つまりそれを失えば……法治国家にて国籍が剥奪されれば、その日からありとあらゆる所有物は己の物でなくなる。
まさにそれが昨年の11月に起こった水晶の夜の原因だ。
あの事件は皇暦2593年の段階で法的に正当化されてしまう。
普段よりヤクチアはこれを理由に国家が崩壊すれば消えるなどと略奪を繰り返すが、所有権ほど脆弱なものはない。
国籍がなくなった後に残るのは自然権のみ。
まさに第三帝国は来年に至る今日まで、この自然権だけでユダヤ人を生かしてきた。
それももうすぐ終わる。
俺は死刑に代わる罪として国籍剥奪にすべきだと常日頃主張してきた。
ユーグやNUPなどの法治国家では、第一段階として国家の所有物である旅券……つまりパスポートの没収という行為があり、現代国家では割とよく行われる。
国籍剥奪は第二段階だ。
NUPなどの移民国家を中心に実際にそういう処罰があるが、剥奪されて無国籍になるのは死刑とさほど変わらない。
生きたまま人は国民として死ぬ。
その前の段階で他国において国民とみなされない存在となるのが旅券の剥奪。
これが無くなると出国が出来なくなるわけだが、よく勘違いしている者がいるのだが、パスポートは本人の所有物ではない。
法的にアレの所有者は国家。
よって国家とイコールの存在にパスポートは不要。
アレは国家が国家としてその人間が信用に足るものだと証明するために"申請者にもたせている状態"なのであるわけだが、つまりこれを没収されるとは対外的に信用ならない人物だと言えるわけだ。
元々、他国において人権を保護するのは国家が国家としての体裁を保たんがため人道的見地に基づいた行動として行っているもの。
元来は外国人など保護する必要性は全くないので条約等を結ばねばならないところであるのだが……
法治国家が第三国の人間を迫害するというのはそれはそれで国家としての信用問題に関わるため、相手国が"こいつは信用できうる人間です"――と旅券をもたせた外国人に対してのみ、仮にまともな国交などが無くとも出来うる限りの人権を保障するというのが現代国家における常識となっている。
いわばこれが無いというのは"その国で人権は無い"と言って良い状態。
第三国においては国籍が無いのと変わらない状態だ。
パスポートを紛失するというのがただ事ではないのが理解できてない人間が多いが、アレを失うとは本来ならその時点で自然権に関係しない事については何をしても許される事になる。
現代国家においては情報社会になるに至りパスポート発行者であるということを"みなす"事ができるようになったので失くしてもすぐには困らないようになったわけだが……
他方、パスポートを剥奪されながら中東に向かったジャーナリストなど、現地で命に関するモノ以外の全てを奪われてもなんら保障する必要性は無い。
断じてない。
つまりパスポートがあるからこそ、始めて互いの国がその者を救う義務が生じる。
だから各国の憲法にはあえて"全ての国民は――"などと書いてあるのだ。
国民でない人間を保証する必要性は無いという裏返しである。
国家に内在する全ての人は――とは書いていない。
だから本当の意味で自己責任だと言える人間は国家がパスポートを剥奪したにも関わらず出国した場合だ。
つまり、剥奪されてもユーグで解放運動をしていた"俺のような人間" のことだ。
俺の場合は王立国家が助けてくれたが、これは俺が望んだ戦いであり、俺自身はそれを覚悟してかつて皇国と呼ばれた地を出た。
リスクを承知でやり直すまで生き続けた。
だが今この国にいるユダヤ人は違う。
第三帝国は自己責任だというが、断じて違う。
彼らは何の覚悟もなく、ある日突然全てを剥奪された。
労働権も何もかもを剥奪され、最終的には自然権すら否定される。
それは医者になれなくなる事から始まり……
女子は学校に行くことが出来なくなり……
教鞭をとることを禁止され……
財産を平然と没収され……
旅券を没収され……
自動車免許を剥奪され……
最後には命も奪われる。
俺はきっとこれは極一部だけが加担し、住民は渋々手伝っているのだとばかり思っていた。
しかし街を見る限り違うようだ。
本当は極々一部だけが反抗し、ほぼ全ての住民は心からその行為を正当化して排除に協力的だった。
それがこの国における真実だった。
俺をやり直させる機会を与えてくれたのは彼らの末裔である。
しかしそれが気に入らなくなるほどの光景が目の前にある。
だが俺にやり直す前に最後に話しかけた男は強い自責の念を抱えている様子だった。
もしかしたら今にいる者達よりも、未来に生きる末裔の方がよほど苦しんでいるのかもしれない。
特に彼は様々な世界での第三帝国の後の姿を知っている。
確か虐殺を止めるとヤクチアの手に落ちると言っていた。
本当にそうなのだろうかと俺は今日の今日まで疑ってきたが、これを強引にどうにかしようとすればユーグは勢力が衰え、ヤクチアに飲まれるわけだな。
出来ればホロコーストはどうにかしたかった……
だからユダヤ人の逃走にも積極的に関与するよう西条に促し、統一民国の助力もあって相当数が逃げられるようにはしてある。
しかし第三帝国を変えるまでには至らない。
俺にはこれ以上の方法がない。
おまけにハンブルグの状況を知ればわかる。
民衆に外部から声を荒げて批判しても反発するだけだ。
こんな街の状態を許容して高らかに反ユダヤを宣言するような状態では、もはや皇国という国家ですらどうにも出来ない。
俺が守れるかもしれないのは皇国とその国民であり、人類ではない。
スーパーヒーローではないし、俺に出来る範囲で多くの人を守る事に繋がるからと思うから行動している。
今俺は航空エンジニアとして最大限できうることをしているだけに過ぎず、いずれ近いうちに俺の開発した航空機は人を殺す。
つまり何かを犠牲にしてでしか皇国を守る事は出来ないわけだが……
犠牲になるのは少なくない皇国のパイロットと、大量に死す敵性国家の国民双方だ。
それでも守りたい者があるからこそ、引くわけにはいかない。
だが、今、この公園を歩いてユダヤ人専用のベンチに座る者達や、その印を身に付けて人気の無い場所でひっそりと日光浴を楽しむ者に伝えたい。
一人でもいいから……一人でも多くこの国から立ち去って欲しい。
死にたくなければ東に行け。
死にたくなければカナウスかハルビンに行け。
カナウスには、ハルビンには優秀な外交官達がいる。
彼らが上海か敦賀を経由しての脱出ルートをこさえてくれている。
だから逃げろ。
無理して第三帝国にしがみつくな。
今は国を捨てて、国籍を捨てて命を惜しめ。
貴方達に皇国ほどの力はない。
貴方達には王も国もないのだから。
ブタペストの会議ではユダヤ人保護についても話し合われた。
NUPがやらかしたセントルイス号の船員を保護する規定が作られたのだ。
それを提起したのは東亜三国。
誰よりもユダヤ人の状況を知る東亜三国が真っ先に提案した。
引き返してきたセントルイス号以外にもハンブルグには未来をかけて逃げようとする者達が少なからずいる。
だから逃げて欲しい。
「おにいさん泣いてるの?」
気づくと目の前には星を胸に掲げた子供がいた。
「王立語がしゃべれるのかい」
「勉強したからね。NUPに行きたくて……」
「いいかボウヤ。私の言葉に耳を傾けるなら、今すぐ荷物をまとめてこの国を出ろ。一人でも多くの人に今の言葉を強く訴えろ。NUPは君達を保護しない。セントルイス号が戻ってきたのは知っているかい?」
「お父さんが駄目だと言っていたけど、やはり駄目だったの?」
「君が明日を生きたいなら東に行け。死にたくなければ、この場所に行くんだと必死で伝えるんだ」
メモ用紙を取り出した俺はそこに"敦賀"と書いて渡す。
漢字、王立語、第三帝国の言語、3つの文字で記載。
「これを絶対に失くすな。絶対に。誰にも絶対に取られないようにして、父親にここに行くようにと伝えるんだ」
「……わかった」
「誰にも渡すなよ。そこが聖地だ。もうすでに3万人以上の人間が来たが、まだ10万人は保護できる。俺に声をかけた君は10万人の中に入るんだ」
「……おにいさん、名前は?」
「シナノだ。シナノ・タダキヨ。もし皇国陸軍に会ったら、俺の名前を出してもいい。敦賀に行けと言われたと言うんだ」
無言のままペコリとお辞儀をした子供は駆け出していく。
子供ほど純粋で説得しやすい存在はいない。
だからこそこちらの真意は伝わったかもしれない。
その後、俺は何か足かせのようなものが外れたのか、通りがかる星を身につけた人にメモを渡すだけ渡し、ハンブルグを去った。
途中SSから声をかけられたが、"皇国陸軍に手をかけられると思うなよ"――などと適当な発音の第三帝国の母国語でいなしたらすぐに立ち去った。
まだ現段階では彼らも本腰を入れていない。
今日、俺が未来を変えられたかもしれない人間はたかだか30人程度。
彼らがそう簡単に敦賀に行けるわけがない。
そもそもこちらの真意を理解できるとも思えない。
だが、あの頃より状況は幾分かマシだ。
ブタペスト会議でユダヤ人保護を発表してから王国やアペニンを筆頭に大量の難民が押し寄せつつある。
ムッソリーニは"奴隷にはしないが労働はしてもらう"――などとファシズムの下で管理されることになると主張してはいるが、第三帝国よりはよほどマシだ。
だがユーグ全域は今後どうなるかわからない。
ならば上海や敦賀経由で第三国に渡った方がいい可能性もある。
だから俺は敦賀と書いた。
敦賀には今多くの難民がいるが、皇国政府と敦賀市民の努力により平静を保っている。
西条は第三帝国の今後の行動によっては五輪の開会式に彼らを招待し、第三帝国に決別の意思を見せ付けることも検討している。
無論、ダシに使うわけだから強制ではない。
敦賀周辺では現在、漁村などに難民が詰め掛けて難民キャンプが出来ているが……
鯖街道周辺は国家総動員法によって労働力不足に陥っているため、彼らが積極的に働く事で生産量が上がり、また彼らも渡航費や生活費が維持できてwinwinな関係とはなっているものの……
それでも皇国が保護できるのは精々20万人程度まで。
これ以上は体力的にも厳しい。
悲しいがこれが今俺に出来る、皇国にできる限界だ。
己の良心に負けて危険な行動をしたが、それでも王立国家に行くことが出来た。
これでしばらくこの地に訪れる事もないだろう……