第47話:航空技術者は東京会談に参加する
皇暦2599年5月6日。
遠く、大西洋を隔てたユーグ地方より二人の男が皇国に来訪した。
1名は元来ならば皇国に現れることがなかった者。
宥和政策を行っていたとはいえ、彼は東亜において積極性を見せることはなく、さほど価値もないとみていた節があるが、どうやら状況が変わったらしい。
その男の名はニコラズ・チェンバレン。
かの有名な宥和政策によって、後年賛否両論の評価を受けた人物である。
もう1名はアペニンの独裁者コロンナ・ムッソリーニその人であった。
極秘での来訪は航空機によって計画され、2機のDC-3にそれぞれ乗って現れたチェンバレンとムッソリーニは周囲を警戒しながらも手厚い歓迎を受け、完成してからまだ3年の皇国議会議事堂に招待される。
皇国議会議事堂にはこの日のために、東亜三国の首脳陣が集まっていた。
後に"東京会談"と歴史に刻まれるこの会談においては、NUPやヤクチアをけん制するための秘密防共協定を結ぶもの。
三国はかねてより、西条らを中心として俺の予言に従い、ノモンハン事件を回避するために三国共同で新たな声明を5月1日に出していた。
1日に三国が共同で行ったのは、"積極的な領土の不拡大宣言"と"国境紛争処理方針声明"である。
これにかこつけて三連合による国境警備隊を新たに組織し、これまで周辺各国とほぼ共通認識であった地域において明確な国境線を敷いた。
既存の三国の領土にあたってはこれまでの共同宣言に絡め、より強固な防衛ラインを構築するが、一方で周辺各国との紛争を出来る限り回避するよう努めるということが正式に採択された上で宣言されたのである。
基本的には国境問題において外交的解決を優先するものの、会談を行うにあたっては三国首相による同意の下で共同会談を行うこととされた。
けだし、国境警備隊の導入により、進軍行為などがあった場合は三国共同で即時攻撃することも同時に表明された。
また、その際に紛争解決された地帯を新たに割譲する可能性があることも表明。
けん制に利用している。
積極的な領土拡大は行わないが、攻めてくるならば容赦しないという立場は、三国の最初の共同宣言から終始一貫しており、逸脱しない内容となっている。
これにより中立的立場を守るティベが事実上の独立国としてほぼ認められるようになり、統一民国の西に位置するティベはこの宣言を歓迎。
西条らはこれこそがチェンバレンが皇国に足を運ぶ理由となったことに気づいていなかったが、王立国家の影響下にあって統一民国がなかなか領土とできなかった地域に、独立を強く支持していたチェンバレンの思想を尊重したような動きを見せたことで、彼を完全に親東亜三国へと導いたのである。
ただ、俺が不思議で仕方なかったのは、蒋懐石が容認したことだ。
西条はティベに興味はなく、不拡大宣言の前の段階で武力制圧することも黙認していた。
蒋懐石からティベなどで何らかの提案があっても許すとしており、その旨は本人にも伝えていたのである。
俺も国共内戦が皇国陸軍によって片付いた手前、彼らは間違いなく進軍すると考えていた。
元々彼は静朝と呼ばれる巨大帝国を復活させたかった。
だから、集、蒙古地域などは絶対取り戻したかったしティベも制圧したかったはずだ。
だがしなかったのだ。
恐らくそれはシムラ協定によって王立国家との関係を強めていたティベに対し、モーラス・コーウェンによって説得されたのではないかと思われる。
特に現在の統一民国は宗教差別を行わないことを宣言している手前、宗教国家に近いティベの制圧は、一方でユダヤ人を助けるのに、もう一方で仏教徒を弾圧する行為となり矛盾が生ずる。
蒋懐石は現在重慶などの都市部の開発に力を注ぎ込み、統一民国の近代化と軍拡を行う傍ら、ヤクチアが参入する隙を作るのを嫌ったのだろうか。
シムラ協定にはヤクチアも関わっているからな。
ともかく彼はティベを認めた。
その上で進軍があった場合に占領した地域に対し、戦後協定によって割譲する可能性があるという条項を設けるよう西条に要求。
これに対し、西条は蒋懐石に"外蒙古が欲しいのか?"と話しかけたところ、無言で頷いたとされる。
自治区を設けるとした蒙古地域については、この声明の対象外。
西条は対話の場に出てくる様子がない蒙古については見限りはじめており、蒙古自治区については今後統一民国領土とすることも検討しはじめていた。
何しろ草原ばかりで何もない上、まるで資源もないのだ。
蒋懐石も利点などないことはわかってはいたものの、静朝復活に拘る彼は、連合国家となることも視野に入れ、蒙古全体を再制圧することは諦めていない様子であった。
皇国政府としては蒋懐石が裏切らないよう、とりあえず飴として現状維持させつつも、仮に外蒙古が攻め込んできた状況からこれを打ち破り、蒋懐石が全地域の割譲を皇国に願い出てきても、基本的には肯定する姿勢である。
すでに西条は"私がいる間ならそうできるがな"と言ってしまっているほどだった。
この状況下でも、あくまで共同声明によって駐留部隊は置くことができる。
皇国は駐留部隊以上に何かが欲しいという気はなかったのである。
ここには陛下の意向が大きく影響しているのは間違いないが、皇国は集の方がよほど重要で、それ以外には興味を示さなくなりつつあった。
一方で蒋懐石は外蒙古との決戦は免れないと考えており、近いうちにノモンハン事件のようなものが起きると西条に警告していた。
俺の予言を知っている西条もこれには驚いていたが、そこには共産党軍が関係している。
華僑の統一民国はこの日までに陸軍との共同戦線によって、共産党軍を外蒙古にまで追い払うことに成功している。
その際、後に華僑に共産主義国家を建国するはずだった"建国の父"を捕縛。
三国共同で執り行った裁判で死刑判決を下した上で処刑した。
無論そうするよう指示を出したのは俺だ。
共産党軍の大黒柱は2本ある。
柱となって支えるのは2名の指導者。
そのうち1人が卯沢東。
ある意味でウラジミールを出し抜いた男。
この男は蒋懐石から全てを奪い、華僑の統一に成功する。
一方でヤクチアからの独立を見事果たしたという上では最も危険な男とも言える。
本来なら外蒙古まで占領し、ヤクチアと並ぶ東側の列強国の1つとなるはずだった。
そう、静朝を復活させたのは他でもないこの男だ。
正直言ってこうなった原因の100%がNUPの現大統領にある。
ヤクチアによる皇国への参戦に対し、それを密約によって認めていた大統領は、本人の頭の中では、ヤクチアは所詮は北海道程度しか手に入れられないだろうなどと考えていた。
しかしその裏では刻々と力を溜めている共産党軍がいたわけだ。
この戦力を完全に認識していなかった。
民国軍が華僑の戦力の全てだと思っていたのである。
皇国が本土決戦によって血みどろの戦いを敢行した結果、その隙をつついて卯沢東は集をヤクチアから拝借すると、皇国との戦いで疲弊していた民国軍との国共内戦を再開。
ヤクチアが皇国との戦いに手を焼いている隙に外蒙古まで手に入れてしまった。
ウラジミールはこの行動になんら手を打つことは出来ず、またNUPも皇国との戦いで疲弊し、最終的にあの大戦で最も漁夫の利を得たのは華僑となったのだ。
それも、蒋懐石ではない共産党軍だ。
いわばそれだけの実力を持つ以上、"この男の早急な始末は絶対につけなければならない"――と、かねてより西条には進言していた。
俺は今回のやり直した世界において、そこについてかなり時間がかかると考えていた。
ああも早く華僑の事変が収まるとは思っていなかったからだ。
俺の予想では皇暦2599年1月から本番だと思っていたので、1年近くも前に華僑の事変を鎮圧させられたのは皇国にとってもより大きな成果を得る契機となり、共産党軍は三国連合軍の力により惨敗を続け。
北進しながらも撤退を繰り返した。
その間、シェレンコフ大将などの情報を活用したことで先回りした皇国陸軍は、ついに最も危険な男を捕らえた。
そして共産党軍の自然消滅も狙い、大黒柱の1つとなった者を、華僑の事変の全ての責任をなすりつけた上で処刑した。
実際に奴はそれに近いことをやっており、物的証拠も多く、割と反論は難しく王立国家やNUPも判決を追認してしまった程だ。
どうやらヤクチアと裏で手を結んでいるNUPにとっても彼は別段味方ではないらしく、ウラジミールからも見捨てられたのかヤクチアからもなんら発表もなかった。
ただ、そうなった要因もある。
処刑の上ではあえてヤクチアに対して触れず、ヤクチアすら騙して華僑を混乱の渦に落とそうとした大罪人としている。
ウラジミールの出方を見たかったからである。
だが未だにウラジミールは動いていない。
一連の動きの中で国境付近でのヤクチアとの戦闘が1度も発生していないのだ。
これは逆に怖い。
シェレンコフ大将をして、"何がどうなっているのか"と怯えるほど。
現在、共産党軍は大幅に弱体化し、何とか逃げ延びた習恩来が軍を保たせている様子だが、しばらくはこの状態が続くと見られた。
その状況の中でNUPがヤクチアとの関係を深める前に一石を投じるため、西条は小野寺大佐を通してチェンバレンと密接に連絡を取り合い、日程調整を行っていた。
結果、5ヵ国の首脳陣が揃うことが可能なのは5月6日であることが判明し、今日に至ったのである。
ノモンハン事件の前でよかった。
しかし当初この会談は4ヵ国会談となると思われていた。
ファシストのトップたる男が来るという情報などなく、彼が訪れることが判明したのは前日のこと。
俺は彼が第三帝国になびいていると思っていたが、会議開始早々彼から告げられた内容は衝撃的なものだった。
俺が知るミュンヘン会談では、彼は第三帝国側に擦り寄っていた。
この頃、本来の未来では同じく第三帝国との関係を深める皇国の姿がユーグの背後にあり、最終的にアペニンも共同歩調をとることで防共協定を結び、ここに枢軸三国体制が構築される土台が完成する。
後の三国同盟に繋がるのだ。
しかし、ミュンヘン会談はNUPの外からの介入により、泥沼の様相を呈していた。
チェンバレンとムッソリーニが本来絶対に結ばない手を結んだ最大の理由は、王国にあった。
王国はズデーデン地方において、これまでに多くの領土を奪われている。
ミュンヘン会談においては特にその件について奪われた地を取り戻そうと躍起となっていた。
これが本来歩む歴史というものだ。
問題はここからだ。
ヤクチアはチェスコについて介入しないことを表明。
本来ならば防衛援助条約があるところ、"なんらかの交渉"が極秘裏に行われ、事実上の破棄がなされてしまう。
その上で、王国と第三帝国は互いにチェスコの領土の大半を得ようと白熱化した激論を展開。
また、あきらかに自信満々であり、明らかに何らかの大国が加担しているのは明白。
すぐさまチェンバレンはMI6に調べさせたところ、NUPと関係を構築している事が判明したのである。
共和国と王立国家はこの状況下においてなんら策を講じることができない。
本来ならば互いに手を取り合わせることで活躍したムッソリーニは、4ヶ国語を駆使して双方の妥協点を探ろうとするも、両国はまるで引く様子を示さなかった。
この状態にさすがのムッソリーニも何か裏があると感じ始める。
チェスコの事実上の消滅はさすがに防がねばならないと考え、チェンバレンやムッソリーニはヤクチアとの連絡も欠かさなかった。
だが、そこでヤクチアにより示されたのは、チェスコと第三帝国による東西分断による自治区の設定。
表向きチェスコは存続していた事になっていたが、その裏では本来の未来で皇国がやろうとした事と、同じく本来の未来で華僑がやった事である。
ムッソリーニは実直かつ慎重で、時に大胆になれるも、冷静に状況を見据えることが出来る男。
当然、普通に考えればヤクチアがチェスコに興味がないわけがないので、間違いなく何か裏があると考えていた。
そこで、同じく割譲を求めたポルッカに対し、「要求を取り下げたほうが後で困らんよ」――と助言はしていたものの、ポルッカはそれが理解できず、南部の割譲を強く要求した。
最終的にムッソリーニは何とか妥協点を見出し、ポルッカの希望すら叶ったものの、第三帝国の総統はポルッカの首相に対し、「後悔しない選択をしたと思っているなら大きな間違いだ」――と一言告げたという。
数日前にポルッカとの不可侵条約は破棄。
この動きの加速を見たムッソリーニは、チェンバレンと連絡を取り合っていたが、優秀なMI6からの情報により、第三帝国はNUPとも極秘会談を行っていたことが判明。
同時にNUPは王国とも極秘会談を行っていた。
そしてMI6は双方の国家が互いにNUPと関係を持っていることを知らないという、大統領近辺における暴走を証明付ける証拠となる機密書類を掴んだのであった。
表向き平和や正義を掲げながらも、第三帝国と王国は、密かにNUPの非参戦協定と、極秘ルートによる軍事支援の約束を取り付けていたのだ。
しかもその秘密協定は大統領とその側近達でのみ行われたものであり、他の者達は全く知らぬもの。
ヤルタ会談と同様のものを行っていたことになる。
この状況において王立国家が素直に恐怖したのは、東亜三国が王立国家と第三帝国の戦いのさなか、東亜の王立国家領などを相次いで占領すること。
もしくは東亜三国以外が拡大戦略と称して行動を開始すること。
東亜三国による領土不拡大宣言と、ティベの実質的独立の容認は、チェンバレンの東亜における悩みの種を一部解消した。
そのため、"交渉の余地アリ"と見て東京会談に望んだのである。
東京会談による最初の議題は、東亜三国のそれぞれの意思の確認。
ことチェンバレンはモーラス・コーウェンより、蒋懐石が蒙古地域を手に入れたがっていたと聞いていたのか、改めて蒋懐石にこの件について問いかけたのである。
現状で皇国が華僑への進軍行為を諦めた以上、皇国は利権として集との関係を強める以上のことはやらないというのが王立国家の認識だったので、蒋懐石の判断を仰ぎたかったのである。
これに対し蒋懐石は。
「無論、私が求めるのは静朝の復活であるが、強引な復活によって再び内戦が多発し、静朝が結果的に列強国によって分割されてしまったことを考えたら、国際連盟などが認める形でないと蒙古地域を領土とするのは難しく、現状では静朝と同じく……いや、王立国家と同じく、実質的な独立国としながらも連合国とするというのが無難であり、蒙古地域全体はその形としたいのが理想ではある」
――と正直な思いを吐露した。
ただし、そこに付け加え、「文化的に考えても、蒙古より北は仮にヤクチアとの最終決戦となっても割譲は難しく、統一民国は静朝より狭くはなるが、蒙古地域の全領域を連合国家として1つの国とすることで完成とし、これ以上の領土要求は一切しない――」
――そう宣言したのであった。
内心としてはティベもそうしたかったのであろうが、何気に仏教への理解がある彼は、あの地域をバチカンのようにしたかったと後年述懐していたことから、強固な関係を築くことで、国家としての関係は諦めると判断したのだろう。
例えばティベを制圧したりすれば、東亜にある東亜王国まで攻め込んで半島を占領できうるのだが、彼には元よりそんな考えなどなく、現状でティベを制圧しようとすれば東亜王国の動きも活性化し、東亜の秩序が乱れる可能性の方が高いと考えたのかもしれない。
それが一番この男にとって嫌なのである。
これは平和主義者的な思想に基づいたものではなく、あくまで静朝の復活こそ彼の野望なのだ。
集と皇国は蒙古地域においてとりあえず駐留軍さえ置ければいいという反応を示した中、彼だけがやや異なる見解を述べたものの、蒋懐石は。
「三国の協定は守る。それが近代国家を目指す統一民国の意思であり、どうせしばらくしたら蒙古は共産党軍と共に攻めてくる事になるが、その後の領土割譲の話を現状しているだけで進軍はしないし、三国は三国協議ででしか進軍はできない状態だ」
――と、システムによって帝国主義的なものが押さえつけられており、それが現状の華僑の落ち着いた雰囲気を維持できているのだから、蒋懐石は、手に入れた統一民国全域を一気に近代化させることを優先したいのだと、改めて周囲に語ったのである。
また、基本は対ヤであり、三国連携によって東亜でそれを成し遂げたいからこそ、そうでなければヤクチアとは戦えず、東亜王国などが最終的に東亜秩序維持に加担できるような環境を構築したいからこそ、この関係を維持したいとも付け加えた。
ムッソリーニやチェンバレンは東亜の歴史についてある程度理解があったが、西条による説得もあり、この考えを認めるとした。
そこにはアペニンによるシュチパリアの併合を容認した王立国家としての立場と、静朝を崩壊させたのはムッソリーニ達ではなく、王立国家や共和国、ヤクチア、そして皇国の影響が強いが、皇国が部分的な復活を認めんがために王立国家としても負い目のようなものがあり、認めざるを得なかったとする所があった。
きっとこの背後ではウィンスレット・チャーチルらが顔を真っ赤にしている事だろうな。
この結果、蒋懐石はこの東京会談にてティベを犠牲に外蒙古を手に入れようとし、見事その割譲の根拠となる裏づけを取り付けることに成功した。
その後、会議は主にこの蒋懐石が望んだ、蒋懐石ラインを基本にそれ以上の領土不拡大に伴う秘密防共協定を調印することで、東亜における秘密防共協定を結ぶという方向性で調整される。
それは全てが対ヤクチアと対第三帝国を主軸とした秘密防共協定であるわけだが、そのために三国は出来うる限りの技術共有などを行うとした上で、王立国家は俺が望んでいた品を提供すると主張してきたのだった。
防衛ラインを構築する上で、最も重要な……レーダーだ。