番外編20:とある軍事ジャーナリストの回顧録
今年もこの時期がやってきた。
我々の刊行する雑誌では1年2度、2月に渡って1つの兵種に絞った特集ページを組んだものを出版する。
今回、久方ぶりに私はこの特集記事の担当となったのだが……
編集長とも協議を重ねた結果、昨今新興国でも導入が盛んな早期警戒機について触れることとした。
出版社のデスクから戻った私は、さっそくかき集めた資料を机の上に広げてみたのだが、やはり早期警戒機についてはE-1から語らねばならないだろうなと、資料に目を通して強く感じている。
E-1か……
我が国海軍及び海兵隊に導入された本機は国産ではないことを多くの読者も存じているはずだ。
海軍史上初のジェットエンジン搭載機は皇国製だったのである。
ここについて触れていかねばならないとなると、読者の一部からクレームを貰いそうではあるが、だったらE-2も結局共同開発という名の実質皇国製という点について彼らはどう考えるのかという事である。
世間ではなぜかE-1は自国製ではないことから一部の者より批判されるが、当時E-1を作れる技術力は我が国に無かったのだから。
むしろE-1を導入できた事で得た各種ノウハウが後の我が国の航空機に与えた影響を考えると、当時の首脳部の判断は決して間違っていない。
時代を遡って考えてみても、そう断言できる。
過去を振り返ってみよう。
二度目の大戦において、当時の皇国軍が被害を受けるパターンは大規模な航空部隊を用いた奇襲攻撃によってであった。
これは第三帝国がより高高度を飛行可能な爆撃機を用いていたためであり、数撃ちゃ当たるを地で行く平坦爆撃や急降下爆撃による一撃離脱戦法がその時点では有効に働いたためである。
皇国は当時キ47というレーダー搭載型の偵察機としても使用可能な攻撃機を保有していたのだが、レーダー黎明期とも言えるあの時期のレーダーは性能が不足しており、度々奇襲攻撃を許してしまった。
特に大きな被害を受けたのは海軍であり、赤城等が中破してしまった一度目の戦闘にて甚大な被害を被ったことを教訓に、海軍ではより高性能な偵察機の開発を検討しはじめている。
しかし、海軍工廠内では航続距離と滞空時間を求めて深山等を改良するプランを提唱する者と、キ47のような艦載可能な小型機に高性能レーダーを搭載して空母から発艦できる偵察機としようとするプランを提唱する者とでぶつかりあい、結局とりあえずは航空機に搭載できる大型レーダーの開発からはじめようということで本格的な早期警戒機等の開発には着手せず足踏みする状況であった。
そのような最中、陸軍より突如新型偵察機のプランが提唱される。
これは双方の折衷案ともいえるものであった。
つまり、発艦可能で、それなりの滞空時間を持ち、航続距離についても延長できる力を持つ大型レーダーを装備した偵察機の共同開発を進言してきたのである。
それが後のE-1だ。
そのプランの発案者は、やはりこの手の最新技術においては他の追随を許さず先行してくる、"あの人物"である。
彼は航続距離については空中給油という新しい概念を導入する事で延長可能で、そうでなくても滞空時間は10時間以上に及ぶ、空母の規模次第で格納すら可能な偵察機を構想していた。
それもただの偵察機ではなく、本格的なアナログコンピューターまで搭載した早期警戒機としてE-1(皇国名では三式早期警戒機 彩雲)を提示。
早期警戒機という言葉や概念すら生み出してまで共同開発したいと両軍に向けて上申したのである。
海軍はかねてより彼の実力の高さの程は把握しており、キ47など、自軍にも導入した事例は少なくない。
そもそもあと一歩で大失敗するかもしれなかった深山をあの当時としては破格の性能を有する大型爆撃機に化けさせてみせるなど、実績は十分であった。
その男が最高速度700km/hにも及ぶ、全周囲300km四方をレーダーで見張る全く新しい艦載可能な偵察機を提案してきたものだから、海軍上層部は彼の言葉を信じてなんと試作型の製造をすっ飛ばして一気に先行量産機として開発することを条件に共同開発を承認したのである。
いかに海軍において偵察機の需要があったかを現わすエピソードであるが、この判断は誠に正しかったと言わざるを得ない。
Mr.シナノは計画承認を受けると即座に機体開発に邁進し、結果皇国歴にて2603年の秋頃には先行量産型が複数完成。
これらは彼の主張通りのカタログスペックを有し、最高速度は700kmを越え710km/h以上にも及び、その俊足っぷりを象徴するエピソードすらあるほどだ。
プラン提案当初、彼は後の時代を踏まえて本機の速度性能を「快速」と述べていたらしいが、あの時代において追い付ける戦闘機なんて極めて限られており、本機は大戦当時は俊足あるいは高速と述べて差し支えないのだが、その速さときたら武装した状態のF8Fを完全に上回っていた。(巷で言われるF8Fの736km/hの最高速は非武装時のものだ)
そのF8FとE-1に纏わるエピソードがあるのである。
2605年のとある戦闘空域の話だ。
皇国のE-1がいつものごとく偵察を行っていたところ、味方のIFFを発信する機体の急接近をレーダーにて察知する。
E-1はその機体に向けて自機が味方であることを訴えていたが、接近を止めないため回避行動をとった。
実は当時このF8Fは戦闘機動に伴う故障で無線機が壊れており、早期警戒機や自軍空母等からの警告に気づくことが出来なかったのである。
E-1側はIFF受信応答があるから味方だと判断していたが、あちら側まで味方だと判断できていないのではないかという不安により、緊急離脱を行ったわけだ。
その際にE-1は全速力にて離脱したが、ついにF8Fは追い付く事ができず、F8Fは追撃を諦めて空域を離脱。
この時に「我に追いつくグラマン無し」――と、皇国海軍司令部に向けて発信したエピソードは有名で、本機があの機体規模でありながらいかに俊足であったかを象徴する。
後に我が国海軍側から皇国海軍に向けて謝意が示されたが、同士討ちを回避することが困難な時代において早期警戒機が示した可能性について西側諸国は様々な思いを抱いたであろうことは言うまでもない。
このエピソードが誕生した当時、すでに大型機を用いた早期警戒機の開発は我が国でも行われており、旅客機をベースとしたものが存在したが、これら一連の機体も改修するにあたって早期に海軍に供与されていたE-1を多分に参考にし設計したとされ、最終的に早期警戒管制機へと帰結することとなる。
まさにE-1は偵察の概念を大きく進化させた偉大な存在なわけである。
あまりにも高性能で扱いやすかったのでアナログコンピューターをデジタル方式に変更したりなどしながら30年以上も使用したことも合わせ、本機は間違いなく傑作機であることは疑いの余地がない。
なお、その理由の1つがエセックス級に格納可能というサイズ感もあるとは思うが……ともかく、大変優れた早期警戒機であったわけである。
皇国なんてあまりにも高性能だったものだから人員輸送機と称した旅客型まで作って量産してしまったほどだ。
当時の旅客機の最高速度は300km/h行くかどうかで、巡航速度も200km/h少々。
400km/hも出れば高速と称された時代。
そんな頃にE-1をベースとした人員輸送型は720km/h以上の最高速度を持ち、巡航速度ですら約680km/hもあり、極めて速度が速かった。
もはや次元が違う領域の速度帯だ。
定員こそ14名ではあったもののこれほど優れた旅客機も無い。
STOL性も有していたことから、離発着用の滑走路は800m程あればどうにかなることも相まって離島への移動手段だけでなく、皇国全土を飛び回ったとされる。
福岡から沖縄まで約2時間で向かうことが出来るというのは恐るべき性能で、現代のジェット機と殆ど変わらない。
航続距離の長さから東京から沖縄まで直行する事も可能で、3時間程あれば向かう事ができた。
つまり1日のうちに現地に向かって何かして往復して戻ってくることを可能とする性能であったという事である。
このため人員輸送型は軍の高官や政治家御用達とも言える飛行機として活躍。
当時の新聞を見ると各地の視察や激励に訪れる者達の背後に常にこの機体の姿があった。
果たしてそれはMr.シナノが望んだことであったのかは不明だが、皇国の地域と地域との間を縮めた立役者であったのは間違いないだろう。
何しろ自地域に航空便が欲しくて地元の篤志家によって滑走路をこさえる事例すらあったというのだから、相当なものだ。
それまで多少リスクは伴うもののそこそこ快速ということで趣味や金持ちの道楽としての乗り物であった航空機という存在は、優れた高速移動手段として再認知される事となったわけである。
東京と大阪を1時間で結ぶことを可能とする性能は最終的に西条首相がどうしても果たしたかった政策の実現化にもつながったというが、"大阪市"としてはアイツがいなければ……と思ったに違いない。
正確にはヘリコプターも駆使していたわけなのでアイツとコイツって感じではあるのだろうけども、ヘリコプターはその用途によって国民に広く受け入れられていたことから、当時の新聞等を見渡してもなぜか文句は出なかった様子だ。
そんな優れたE-1だが、さすがに機体規模等の問題により、より大型で高性能な新型機体が求められるようになる。
E-1はレーダー装置等の搭載によりレーダー担当2名+通信等でサポートする補助の3名体制で原則運用されるのであるが、これだとより高速化し高性能となったジェット機時代では情報処理が追い付かなくなってしまったのだ。
何よりも国産ではないという事から、我が国が先行して次世代早期警戒機開発計画がスタートすることに。
それが後にE-2となるが……
残念ながらこれも我が国独自の機体というわけではない。
表向きは共同開発という名目だが、我が国が影響した部分なんて機体サイズをE-1から引き続きヤードポンド法に対応させ、燃料タンクをポンド対応にさせ、ネジ規格をインチサイズにすることを強要させて認めさせたぐらいである。
エンジンすら独自開発でないので、冗談抜きでネジぐらいしか独自のものは無いんじゃないか?
結果、失敗作とならなかったのだから良しとすべきではあろうが、こうなった理由がとても笑える話なので是非これを期に雑誌にて紹介したい。
E-2が共同開発となった理由……それはトイレだ。
正確には食事とトイレなのだが、トイレという存在が最も影響を及ぼし、共同開発を後押しさせたのである。
その事実が情報公開されるまで、E-1より飛行性能が劣化するから上層部が認めなかったのではないかなんて噂が巷で囁かれていたが、別段最高速度が650km/h程度に落ちたところで大したことはない。
それでも十分快速の部類なのだし、完全国産の方が面目も立つ。
海軍上層部が断じて独力開発を認めない姿勢となったのは、他でもなくトイレにあったのだ。
さて、E-1には呪われた設備が多数装備されている事はどれほど認知されているだろうか。
それがギャレーとトイレ、そしてシンクである。
現代基準から考えても信じられないほど豪華な設備が、この早期警戒機には搭載されている。
特にトイレに関しては圧倒的な性能を有している。
ただのトイレではなかったのだ。
何しろ水洗式なのだから。
正確には真空式であるのだが、水洗方式である事に変わりない。
当時、航空機のトイレというのは旅客機であれば辛うじて循環式が搭載できるかどうか。
基本は機外に放出するタイプが主。
軍用であればケミカル式と呼ばれる、薬剤の詰まった袋の中に便器という名のただの穴の開いた箱の上に座り込んで用を足すような簡易トイレが当たり前。
循環式は当然臭いが酷く、旅客や客室乗務員の常に悩みの種になり、放出するタイプは機体自体を腐食させたり汚すので整備員から嫌われ……
ケミカル式はそれよりさらにお粗末なものであるのだから、言うまでもなく搭乗員の不評を買い、そればかりか基本的に使用を認めず爆撃機の乗員はオムツを身に付けろと厳命される地獄のような環境がまかり通っていた。
そんな地獄の世界に表れたのが大天使E-1。
乗員に向け「君達を苦しみと汚れから解放してあげよう」――なんて語り掛けてくるような水洗式のトイレを装備していたばかりか、シンクで手洗いすら可能だったのである。
これはMr.シナノが元々不潔極まりない環境で長時間作戦行動を行う乗員の苦労を理解していて、それが士気や作戦効率にも影響していると考えていた事と……
スイッチ類が多く、それらを手で操作する必要性がある早期警戒機では、衛生面に気を使わないと伝染病の蔓延等が生じて高い技能を要求し人員が限られるレーダー担当者が不足する事への懸念から講じた措置であった。
また、空中給油が可能なE-1は作戦時間が長時間に及び、冗談抜きで20時間以上飛行するケースも見られたことから機内での飲食も可能としてたが、これら一連の装備は極めて優秀であったため、供与を受けた海軍は呪いをかけられてしまったのである。
機内の居住性を低下させることが出来ないという呪いを。
当初独自開発計画をスタートさせた際、メーカーが提唱したE-2となることが出来なかった機体はトイレを装備していなかった。
メーカー側は作戦時においてはオムツでどうにかなると思っていた様子だ。
残念ながら我が国のエンジニアはE-1への搭乗経験がないばかりか、そのような環境でも軍人なら耐えられると思っていたらしい。
恐らく戦闘機パイロットの話ばかりを鵜呑みにしていたのであろう。
そのためすぐさま現場のE-1乗務員や、過去E-1に搭乗経験があり、現在は将官にまで昇格した上層部の者達から「トイレがない!」――という批判が相次ぐ事になる。
そのクレームを受けての第二次案では、壁1つ無い後部空間に謎の箱が設置されていた。
そう、ケミカル式トイレだ。
トイレ近辺にシンク1つ無く、シンクはギャレーと共用で、手洗いは飲食用として設置されたギャレーに設置されたものを用いろとの事であった。
こんな不衛生極まり無いものを、E-1搭乗経験がある者たちが許せるわけがない。
メーカーからすれば「最低限トイレは設置したし、希望通りに水タンクは増やしたのでギャレーにおけるシンクで手を洗う余裕もできた。この構造は大変合理的で効率的だ」――なんて言いたかったのかもしれないが、あまりの怒りに上層部の者はその場で設計図を破り捨てたという逸話が残っている。
そう、E-1がその手の配慮を怠っているわけがなかった。
E-1ではトイレにきちんと壁があり、機体が揺れても問題ないように掴まる手すりすらある。
肘などで押せるように配慮された大きなボタンを押せば排出したものは水洗され、後は傍にあるトイレ用の専用のシンクから液体石鹸を出して手を洗うだけだ。
水も液体石鹸も足で動かすレバーを踏むことで出すため、手を触れる事すらない。
医療従事者すらその仕組みに感嘆するほど衛生面への配慮を怠らなかった。
乗務員は幸せな気分でトイレから出て、再び作戦行動に従事することが出来る。
それに対してE-2になれなかった機体は、壁も無いので匂いは大変なことになるだろうし、シンクはギャレーと共用で石鹸も固形のものが石鹸置きの上に配置されるだけ。
こんなの、ホテル並の居住性とも称されたE-1で10年以上も過ごした経験もある上層部の者たちが納得できるわけがなかった。
それこそ居住性の高さゆえに皇国も我が国でもE-1を用いてやたらと移動したがる将官がいたことは有名で、皇国では宮本司令が「万が一敵に奇襲されそうになっても本機ならばレーダー性能によって回避できる」――という、最もらしい理由を掲げて連絡機として重用した程。
実際はそれ以上にコンピューターのオーバーヒート対策の影響でエアコンも良く効いて快適すぎるがゆえに他の機体に乗りたくなくなるからであると後年述懐するように、その居住性は病みつきになるものであったのだ。(実はE-1には仮眠用の折り畳み式のハンモックのような簡易ベッドがあり、宮本司令はそこで仮眠をとりながら移動していたとされる)
皇国の司令官ですらそうなってしまうのだから、我が国海軍の上層部の者も一歩たりとも居住性を劣化させたくないと思うのも不自然ではない。
メーカーは大急ぎでトイレ用の壁を用意するが真空式トイレを作る技術が無く、その頃には手遅れ。
海軍は独自に皇国政府を通して"ある男"にE-2に相当する機体について基本設計をまとめてほしいと依頼を出し、僅か1週間で送り返されてきた設計図を見た海軍は共同開発することを即時決定する。
それが後のE-2であるわけだが、実験的に皇国ならE-1の後継機はどうするかということで皇国政府を通して依頼して戻ってきた設計図には、後部にE-1からさらに洗練されたユニットトイレが装備されており、複数のトイレットペーパーなどが埋め込まれた状態で設置されていて入れ替えもよりスムーズであり、シンクもより水が跳ねないよう配慮された構造となっていた。
トイレの蓋もゆっくりしまって手で触ってバタンと音を立てる必要性がなくなり、軽く触れる事で閉める事が可能だった。
便器のサイズ、形、位置なんかも見直され、より大柄な人間でも不快感がないよう配慮されてすらいたのである。
機体の性能がE-1を踏襲したものであるとかどうとか、どうでも良かった。
皇国が仮にE-1から後退するような、乗務員に苦を強いて軽量化を求める様子なら我が軍は独力での開発に拘ったであろう。
だが、皇国がE-2に相当するE-1の後継機を描くならば、その手の衛生面に関する環境設備はさらに洗練化させるというのだから、我が国は考えるのをやめた。
正しいのはそちらだと思ったので、E-2は共同開発として望む性能だけを伝えて皇国に任せる事にした。
求めたのはレーダー担当者をもう1名増やす事であり、それ以外はE-1と同じ滞空時間や空中給油装置の装備など。
後は空母への搭載についてだが、当初こちらはエセックス級への引き続きの格納を条件として組み込んでいたところ、それだと機体規模が中途半端となるという事で皇国からエセックス級へは露天繋止可能としつつも格納は不可能なサイズとしたい旨提案されたため、これを了承している。
結果全長は18m以上となり、レーダー担当3名、補助1名の4名体制となった。
独自開発計画ではレーダー担当3名のみであった事を考えると乗員が1名増えた事になる。
この1名は操縦士と兼任する事もあるので、空中給油能力があって飛行時間を延長できる本機において非常に重要だ。
この運用はE-1と同じであるが、皇国が考えるE-1の後継機とはレーダー担当者を1名増やし、機体規模をより大型化させてより高性能なレーダーを装備したものであったということである。
中途半端に1名増やしましたといってレーダー担当者を増やして操縦者は2名のみとした当初プランは、正直なところ機体性能以前の作戦運用能力という面で完全に負けていたと言えるだろう。
E-1の後継機と述べて果たしてよろしいのかというような状況である。
エセックス級への条件が変更された事で全高の制限が緩和されたE-2においては、機内の居住性もE-1以上に拡張され、雪だるまを逆さまにしたような2つの半円を合わせた胴体構造とすることで床上面積を上げた。
結果E-1では皇国人仕様で我が国の人間だとやや中腰での移動を強いられたのだが、E-2ではその必要性は無くなっている。
機内の移動はスムーズに。
立って移動できるのだ。
つまりトイレに駆け込む際に天井にぶつかったりするなどのリスクは大幅に軽減された事になる。
ギャレーも大型化され、我が国の者達でも使いやすくなった。
そういえば、E-1にはギャレーに纏わるエピソードも多かったな。
E-1の頃から、ギャレーに付属した機内食は絶賛されていた。
驚くなかれ。
機体供与の際、我が国海軍はなんと機内食も補給部品の一部として提供を受けていたのである。
機内食はいわゆる現在でいうレトルト食品に相当するもので、お湯を使って簡易調理して作るものであったため、我が国では当時製造不可能であった事による措置だ。
一応ギャレーには簡易的な流し台と電熱調理器があったので、やろうと思えば本格的な料理を作る事は不可能ではなかったが、それを使って"パスタを茹でよう"なんて考える者は我が国にはいなかったし、精々コーヒーを作る程度である。
当時主流だった缶詰は重量物になり搭載スペースが無かった一方、作戦中に食事を摂る事もあったので調理時間は短縮したかった事もあり、皇国からの供与を受けたわけだ。
これが大変美味だったのである。
真空パックされたフリーズドライ食品は、大戦当時、皇国と第三帝国だけが製造技術を保有していた。
きちんと栄養分が計算された機内食は味付けも濃くされていて我が国の軍人の舌にも馴染み、飽きさせない程のバリエーションがあったので大変評判が良かった。
あまりにも美味であった事から機内から盗み出す盗難事件すら発生した程である。
搭乗者の中にも、作戦前の食事を抜いて、その分を機内で食べようとする者が続出するほどだった。
他の機種に乗るパイロットからは羨む声も多かったと聞く。
あまりにも評判が良かったので我が国は徹底的にE-1の機内食をリバースエンジニアリングし、これをベースに宇宙食へと発展させたのは有名な話である。
正確に言うと宇宙飛行士の中に海軍に所属していて過去にE-1の搭乗経験のある者がおり、試作されたチューブ食があまりにも不味かったことから「重量面でも優れているのだから、こちらにしてくれないか!」――と頼み込んで誕生した。
後に皇国側も同様のフリーズドライ食品から宇宙食を開発していたことが判明するが、こういうのは収斂進化と言うべきなのだろうか。
なお、E-2では引き続き機内食は皇国製である。
我が国における軍の中で唯一制式採用された他国製のレーションがE-2用の機内食である。
宇宙食については、すべてが最重要機密として秘匿される有人宇宙開発計画であるためどこから情報が洩れるかわからないので独自に開発するしかなかったが、レーションについては我が国のものは評判が宜しくないので、共同開発という名目上、致し方ないということで導入したという事にしている。
表向きの経緯はそうしているが実際はトイレだけでなく食事についても劣化させたくないので裏では積極的に採用しようと画策していたのは関係者が一様に語っているので公然の秘密と化している。
全くとんでもない呪いをかけられたものだ。
しかしどうやらMr.シナノ本人は情報公開がなされるまでE-2が共同開発となった理由はトイレや食事などではなく、機体規模や性能が満足いくものではなかったからと考えていたらしい。
情報公開されて大変ショックを受けたそうだが、衛生環境も機体性能の一部と考えれば間違ってはいまい。
その辺も掘り下げて、1月目はE-1とE-2を中心に記事を書く事としよう。