第180話:航空技術者は自らの足で立ち上がろうとする進化の瞬間に立ち会う(後編)
「あれ? この時間帯に出かけられるんですか? 珍しい」
「……コイツを試したいんでね」
朝方車両について会話を交わした人物が物珍しそうな様子でこちらに視線を向けてくる中、俺は名前も不明な新型二輪車のボディを指でコツコツと叩いて示す。
既に格好は二輪に合わせた身なりとなった。
肩や肘などに綿を積めたパッドを仕込み、胸部や背中にも先日中山に防弾能力を見せつけたのと同じGFRPのプレートを仕込んである。
ここにヘルメットをかぶりこむことで……万が一転倒しても死亡することは無いだろう。
そこまでの速度域まで出せないだろうし。
なお、会話の最中ガボッと頭にはめ込んだのは、以前西条の執務室で頂戴してきた荒井製のヘルメットである。
こいつは、こういう日が訪れることも想定して若干改造を加えてあった。
新たにプレキシガラス製のウィンドシールドをリベット止めして装着。
風防の底には金属製のツメを設け、ヘルメット下部の金属パイプ製のチンガードにはめ込まれるようにして固定されるようにしていた。
これで走行時の快適性も大幅に向上の上、安全性もさらに上がる。
飛翔体が顔面めがけて飛んでくることなんて滅多に無いだろうが、失明のリスクは相応に下がった。
見た目はJ1と呼ばれるヘルメットにさらに近づいた事になる。
格好はまるでスタントマンのようだが、性能が未知数な二輪に対してはこれぐらい用心深くて丁度いいぐらいだ。
「中佐の知らぬ顔を見られて正直驚くばかりですよ……あ、そういえば伝え忘れていたことがありました」
「どうした?」
「この車両は元の車両から排気量を上げたらしいです。ボアの拡大だけでなくストロークも弄ったとか……150ccぐらいにしたそうです。多少燃費は悪くなったそうですが、この方が具合がいいと」
「……なおさら楽しみになってきたよ」
「それと、よくわかりませんが1発だと言ってました。1発で十分だと。どういう意味でしょうね」
一発……か。
普通に考えればキック1発始動の意味だろう。
でも、宗一郎クラスが言う1発が通常の意味合いでの1発じゃない。
ならば……
「どうしたんです!? 突然に!?」
「いいから見ててな……」
車両の電源を入れた後に突然しゃがみこんだため、若き技研の職員は驚きを隠せなかった様子だが……
俺はしゃがんだままキックペダルに手を乗せると、体重を乗っけて地面めがけてペダルを押し込んだ。
次の瞬間、振動と共に単気筒独特の排気音があたりにこだまする。
「手で始動するなんて……」
「そういう"モノ"なのさ。彼は。そして彼らの手掛けた二輪というのは」
昔からライダーにおいてこういう格言がある。
真に整備された優れたる車両は、足でキックなどする必要性がない。
本当にきちんと整備され、かつ正しく運用された車両はスパークプラグなども被ったりしないので……
始動に足など必要無いのだ。
宗一郎クラスの領域にいるエンジニアが「1発」といったらこれ。
手による始動での1発。
うん。並の代物じゃない。
こういう機会を待ってたんだ俺は。
世にいる真の天才達が機会を得たことで、時代を先駆けてどの領域にまで至ることが出来るのかを知りたかったんだ。
「それじゃあ行ってくる。中山とかが探していたら、山まで柴狩りに行ってくるとでも言っておいてほしい。夜までには戻ると!」
「お気をつけて!」
――そして、その日の業務すらかなぐり捨てて、見る人によっては現実逃避と受け取られかねないツーリングが始まったのだった。
◇
立川基地を出た俺は南に向かい、すぐに国道8号線へ。
そして国道8号に入ってしばらくして変化に気づく。
舗装化が進んでいる。
いつの間にか国道8号線が舗装化されていた。
おまけに一部の狭い場所は拡幅工事が行われ、片側1車線の二車線道路となっている。
交通量も相応にある。
といっても、ほとんどが軍用関係の車両か、何かの物資を運んでいるトラック。
タクシーなどはそう多く無い。
乗用車も殆どいない。
二輪も殆どいないのは残念な事だが、致し方あるまい。
新型二輪はというと……エンジンは快調。
燃料は自費で立川に常備されている航空用ガソリンを買い取って満タンに。
96オクタン、ハイオク仕様にエンジンオイルも交換。
エンジンオイルにはモリブデンを添加済、ガソリンは既にPEAが常時添加された状態。
ハッキリ言って21世紀を迎えても、ここまでバイクに対して手厚く対応する人間も多くないことだろう。
エンジンオイルも航空用としてメーカーから提供された私物の試供品を使っている。
これは鉱物系なのだが、理由はモリブデンを含有させようとすると植物系だとエンジン内で凝固する可能性があり、これまで入っていたオイルが植物系なのか鉱物系なのか、その混合なのか不明瞭だったためだ。
完全な植物系ならわかるが混合されているとわからない。
なので申し訳ないが、万が一新品を入れたばかりだったとしても、モリブデンのために交換した。
さて、その状態での平地での様子だが……
以前と比較してギアがかなりローギアードになっている。
1速だと相当エンジンを回さないと30km/hぐらいにならない。
その反面ものすごい加速だが、荒れ地を進むことを想定したんだろうか。
2速も3速もそんな味付けだ。
……これだと最高速は80km/hぐらいだぞ。
それも相当にブン回して80km/hだ。
彼らはその方がいいと考えたのだろうか。
排気量の向上でトルク感は上がっている。
実際にスペックでも飛躍的な向上を果たしていそうな感じだが……
それでも足りないと思ったのだろうか。
まあここは考え方だし、気に入らなければ最悪ハイギヤードに戻させて採用すればいいか。
さて、平地の状況はわかった。
速いところ山の方へ向かうとしよう。
高尾周辺から上野原まで、蛇がうねったような道が続くから……そこが本領発揮だ。
◇
立川を出て1時間もしないうちに山側へと入る。
向かうは大垂水峠。
現時点では国道8号線と呼ばれる場所。
本来の甲州道中からは外れ、本来の未来ではこちらが甲州街道と後々呼ばれてくる道だ。
くねった道と坂道はパワーの無い車両では辛いが……
本車にとっては関係ないようだった。
恐らくこいつが日常的に走っているのは箱根周辺。
ソッチのほうがよほどキツイ坂が続く。
ただ、ある所まで進めば今度は下り坂。
左側にはダム建築中の相模川が見えてくる。
俺はどうしてもそこで試したい事があった。
坂道を進んで15分ほどすると、坂を登りきり……今度は相模川へ向けてやや下り坂の状態へと至る。
そしてついにその瞬間が訪れる。
状況は舗装路面。
下り坂の左カーブ。
ヘアピンというほどではないがややきついカーブを描き、スピードを出しすぎれば反対車線へと飛び込んで大変な事になりかねない。
だが、どうしてもやってみたかったので……対向車が来ていないことを確認の上、速度60km/hを超過する状態で突っ込んだ。
カーブに入った瞬間、カーブと同じ方向である左腕に力を込める。
あたかもカーブの反対にハンドルを切るかのように。
しかしながら腕を伸ばすことはなく、肘は程々に折り曲げた状態。
前輪を意識して体重を車体前部にかける。
そうすることで車体が路面へ向かって寝かし込まれる。
そのままだと姿勢が辛いため、シートの角に尻を乗せる要領で姿勢を整える。
これぞリーンアウト。
車体の性能をもっとも把握しやすく、かつ転倒しにくい。
タイヤのグリップ力を最大に発揮させ、カーブ走行中の重心点の中心を己に、バイクをそれよりも路面へと傾ける。
この利点は重心の中心軸が自分のため、障害物を踏んだりすると遠心力に負けてバイクが起き上がって自身が中心軸になろうとするため、バランスを維持しやすく転倒しにくいこと。(リーンウィズと同じような状態になる)
バイクを重心の中心軸に据え置くリーンイン、バイクと己を重心の中心軸に据え置くリーンウィズの場合、バランスを崩すと遠心力に負けてバイクが中心軸よりもさらに外側へと傾くので制御不能となりうるのだが……
リーンアウトではそのリスクを最小限と出来る。
危ない事を試すのだから、当然リーンアウトでもって曲がる。
果たして耐えられるのか。
カーブに入ってしばらくのうち、グオオというタイヤが押し付けられて地面と擦れる音が耳元へと届いてくる。
しかし車体は至って普通。
まだ傾けられそうな余裕すらある。
タイヤの状況も悪くない。
サスペンションの性能が向上してタイヤがきちんと地面に足を付けていられているからだ。
だから、舗装路だとこういう事が当たり前のように可能。
ガーターフォーク仕様の以前の車両では絶対にやりたくない事を……今平然とできている。
左腕にはバイクの重さがのしかかり、相応に重い。
だが、さらに内側に倒れる気配は無い。
逆だ。
バイクはリーンアウトの場合、常に起き上がろうとして動く。
腕で押さえつけているのは、地面に倒れそうなのを抑えているのではない。
その逆なんだ。
傍から見たらバイクを倒そうとしてものすごく傾けて危険な走行をしているようだが……
こっちの方がよほど安全なんだ。
物理の世界に即した、正しい走り方をしているのだから。
気づくと左カーブが終わり、いつの間にか今度は右カーブに差し掛かっていた。
何のことはなく、同じ手法でもってリーンアウトでバイクを倒し込む。
ここのカーブは先程より曲線半径が狭く、40km/h以上だとかなり怖い。
でも、全く問題無かった。
車体がそこまでの領域にまで達しているからだ。
なるほど……こいつは……ただ道を走るための車両じゃない。
こいつは戦う仕様だ。
まるでマン島TTなども見据えて、本気で戦えるように車体を作り上げてある。
重心設計もきちんとしている。
レースに出たいんだという想いが車両を通して伝わってくる。
本来の未来にあったC200に劣らない。
稀にタイヤが滑るが、滑るのは後輪だけ。
前輪は大丈夫。
前輪が滑ったら怖いが、そうならない。
しばらく続く連続カーブに対し、車体に身を任せ……左手に見える無人と化した集落の見える相模川に視点を向ける余裕すらありながら進んでいく。
時折遭遇する道路上の不快な凹凸に対しても何ら問題を感じない。
ボインボインと、グワングワンと、一度で衝撃を受けきれずに何度か跳ねるが……衝撃で尻が痛くなるという事がない。
カブなどを含めた数々の名車がそうであったように、こいつもその領域にいるんだ。
本当に優秀なサスペンションなら一度で受けきって、その後に何度も揺さぶられる事がない方が正しいんだが、これでも十分。
むしろこの懐かしい感じが好きだ。
どこに行っても冒険しに行くようで。
ただの道がまた違うように見えてくる。
そしてこれでもちゃんと速度は出るんだ。
硬さが無い状態なだけだ。
……なんてこった。
これはオートバイじゃないか。
正真正銘本物のオートバイだ。
自転車の延長線上にあるモノとは違う。
原動機付自転車じゃない。
自動二輪。
本物の自動二輪。
それも国産の、皇国が作った車体の。
半世紀以上先を生きる未来の人間はこんなの当たり前だと思うかもしれないが、その当たり前を当たり前に享受できるオートバイ。
それがこいつだ。
これといった特長も無いが、優等生なキャラ付けは恩田らしさを感じさせる。
それでいて、レーサーばりに安定してカーブを曲がれるだけの性能。
リアは皇国楽器が完璧に仕上げてきたな。
後の未来において数多の二輪及びメーカーに多大なる影響を与えたモノクロスサスペンションを生み出す皇国楽器がリアを形作った。
恐らくマフラーやハンドルも皇国楽器だ。
バフで磨き上げられた美しいメッキ管。
いい音が出る。
ハンドルも見事にバフ掛けされていて美しい光沢を放つ。
俺が知る限り最高峰に位置するメーカーがそれぞれ自らの得意分野でもって仕上げてきた車両は、見事というしかないほど仕上がっていた。
だがここで俺はさらなる事実に気づくことになる。
道路上の長靴か何か、トラックなどから落下したと見られる障害物を避けようとしたその時だった。
「うおっと」
誤ってシフトペダルに触れてしまう。
しかし、その刹那……ガシャンという音と共にギアが切り変わった。
「……なに?」
もっと早く気づくべきだった。
俺は勝手にこのバイクは「三速」だと勘違いしていたようだが……
改めてシフトペダルを足で弄ってみると……この車両は四速だった。
トップギアはかなりのハイギヤードより。
平地巡航形態を意識していたのだろう。
切り替えた瞬間、エンジン回転数がかなり落ちたため一瞬あたふたするも、すぐにスロットルを入れ直して状態を安定化させる。
「……今の回転数から察して……(回せば)110km/hぐらいは出るぞ!」
興奮して思わず大声でもって独り言が漏れてしまった。
誰がそんなことをやったかなんてわかっている。
皇国楽器だ。
皇国楽器がやったんだこれは。
本来の未来でもそうやって四速化したバイクでもって1万km走らせて信頼性の高さを証明したように……
同じ事をやったんだ。
なんということだ……10年以上先に辿り着くかどうかの状況を、2つの企業の技術者が持てる全てを投入したことで……今ここに帰結させて車両として完成させたというのか。
ありとあらゆる角度から乗り手の状況を想定して……生産性を保った上で可能な限りの最高の性能を……
惜しむらくは4ストロークエンジンでないことだが……これは現状では不可能に近いから……
言わば現時点での到達点。
工業製品としての国産二輪の究極なる姿。
それを独り占め出来ているのか。
とにかく感嘆しきりであった。
加速感こそ未来のバイク達には劣る。
でも、これでも必要に十分と言える性能だ。
その走行能力の高さにあまりに感動して感情が溢れて何かが漏れ出しそうな、その時だった――
目の前に何かが見えた。
言葉にならない"何かが"、自らの足で立ち上がり、自分の目の前を歩んでいく姿だ。
まるで巨人のような、それでいて赤子のような。
白昼夢だとは思うが……しっかりと見えた。
工業製品と工業そのものが化けた妖怪のような何かが……
恐怖は感じない。
力強さを感じる。
もう誰かに頼り切りな状態じゃない。
次は追いかける番だと言わんばかりだった。
追いかける先はわかる。
王立国家や第三帝国にある名車達。
それを抜き去りたいというわけなんだな……
ああ、俺もほしいよ。
そういうバイク。
あの最高速度200km/hを出せた王立国家のブラックシャドウに真正面から勝てるような、四気筒を備えた、こいつの先の先にいる750ccの化け物が。
宗一郎は誰が乗るんだと言ってたらしいが、長らく愛車だった。
盗まれるまで乗って、盗まれた頃には生産終了で高額で取引されていたから……同じ車両を買い換えられなかった。
最後に乗ったのは年齢的な限界を吹き飛ばさんばかりにと、本当の意味で誰が乗るのかわからない当時の現行車のCB1000に乗った。
今なら彼らにもっと早く出会えるような気がする。
……よし決めた。
俺はこいつを改良する。
"誰でも乗れる"バイクにする。
ここまで来たのだから、加減などしない。
持ち合わせる知識と技術で、俺の知る限りの最新鋭の改良を施して……もう1つ上の段階へ。
現用技術で出来る、最大限の技術努力をこれからこいつに施す。
受け取ってくれ。
これからの未来を担うエンジニアの兵達!
◇
「これは一体……何が……」
「足元にシリンダーのようなものが2本付いているぞ」
「――良く来てくださいました皆さん」
一月半後。
秋に入り込み、山奥では静かに紅葉が始まった時期。
集まった遠州の技術者は、自分達が預けた二輪がさらに変貌を遂げた事にざわついていた。
しかし否定的というよりも単純に驚いている様子だ。
何かが大きく変わったことを技術者の直感で感じ取ったらしい。
彼らの視線の目の前には、あのツーリングの後で急遽取り寄せた2台目も改良し、一部の形状が異なる2台のバイクが鎮座されている。
「宗一郎さん。なにはともあれ。是非乗って見ていただきたいんです。話はそれから。貴方ならその方が話は速い」
「いいですよ。ただ、何か操作説明が必要なナニカを取り付けているんでしょ?」
「ええ――」
車体の方へと近づいてきた遠州きっての天才は、すでに直感でこのバイクは"さらに使い勝手が良くなった"――ということを体で理解していたようだった。
体から"乗りたい"というオーラのようなものが全身から滲み出ており、とりあえず簡単な乗車時の操作説明を行う。
「大した話ではないんです。これまでと同じように乗っていただければ。ただ、ギアチェンジの時にやっていただきたいことが1つ」
「何か特殊な方法ですか?」
「このボタンを引いてください。それがシフトアップ。手前のボタンを押せばシフトダウン。それだけです」
「え? クラッチは?」
「いりません。完全停止時以外でクラッチは使いません」
「……はは、ははははは。面白いことをおっしゃる。無論、作動信頼性は完璧なんですかな?」
「ええ。あれから1万km走って関連のパーツ類は一切変えてませんよ」
「まさか皇国の航空技術の総本山が二輪に手を加えようとは……ワクワクさせてくれる。もう試していいんですね?」
「ええどうぞ。"1発"でかかる状態は維持してあります。走り終えた後で感触を教えて下さい」
「承知しました。それでは!」
言葉の終わりに我慢ならんとばかりに駆け込んだ宗一郎は、すぐさまキック1発でエンジンを始動すると一気に加速させ……
従来のシフトチェンジに必要な一切の動作無く、ボタン操作によるシフトチェンジを行って二輪を加速させながら周囲を走り回る。
そしてある程度の所で持ち前のブレーキ能力を活かして急減速をかけつつ、シフトダウン。
その間、一切のクラッチ操作やシフトペダル操作は行っていなかった。
だがバイクは問題なく加速し、問題なくギアチェンジし、問題なくこれまで通りの走破力でもって基地内の滑走路を高速で走り回る。
「ぬははははは! なんだこれは!? 信じられん! オートバイがセミオートマになっとる! 立川の技師はどんな魔法をかけたんだ!」
宗一郎の興奮する様子はこちらでもハッキリと聞き取ることができるほどだった。
やはり走るのがとにかく好きで仕方ない男なのだろう。
とにかく走って確かめる男は、その性能の向上に酔いしれ、何度も高速領域まで加速させて素早いギアダウンを駆使しながら弧を描くようにして周囲を周遊する。
20分ほどそのような状態で走ると、一通りの性能を理解したのか戻ってきたのだった――
参考:シューベルトJ1(完全一致ではないが、似ています)
http://2rinkan.blog.jp/archives/1895996.html