第173話:航空技術者は友に託されて自らの内に眠る獅子を呼び起こす(前編)
参謀本部から立川へと舞い戻る最中の列車内にて、俺は帰り際に西条から渡された分厚い封筒の中身に入った資料を眺めていた。
そこには自動小銃開発が開始されてから9年間の間に何をやっていたかという道のりが記録としてまとめられ、さらに先月行われたトライアル評価試験の内容と結果について詳細に書かれている。
そしてそれとは別に西条がバトルライフル開発にあたって参考になると思ったのか、陸軍発足以来どういう機関銃を欲していたのかとをまとめた50年史も付属していた。
こんなの読まなくても我が軍がどんな歩みをしていたかなんてわかる。
皇国陸軍が連射可能な武装を見出したのは発足時点からだ。
この時点ですでに世にはガトリング砲が存在し、さらに発足から13年後には世界初の機関銃ことマシンガンも誕生している。
実際に我が軍はこれらの火器については早くから着目していたのだが……例によって少数導入して試験等を行っていたにも関わらず、頭の硬い将校の反対によって量産化に遅れが生じたため……帝政時代のヤクチアとの1度目の戦いにおいて満足な運用ができなかった結果、手痛い被害を蒙ることとなったのだ。
当時存在した我が軍の機関銃は共和国のMle1914を自国の三十年式実包で使用できるよう改良した保式機関砲と呼ばれるもの。
口径6.5mmのソレは当時としては攻撃力も十分であり、なんとガス圧動作という後の機関銃において非常に重要な機構すら備えていた。
皇国にあったのはマシンガンの祖たる水冷式かつブローバック方式のものではなく、より信頼性の高い空冷ガス圧動作式の機関銃だったのである。
当時の技師達が各国の機関銃を比較検討の末見出したのは、その後100年に渡って通用する機構の原点とも言うべきものを備えた良作以上の機関銃であって間違いなかった。
その数約60~70基。(資料によっては200基だったとも)
これが1度目の戦いにおいて投入された数である。
相手側が桁1つ違う数をあの手この手で入手してきてこちらに牙を向けたのとは対照的だった。
しかしながら、我が軍は足りない戦闘力を古来より活用してきた"塹壕"という方法でもって対抗し、戦闘力の低下を補って最終的に要塞攻略などを成功させる。
後にその戦闘方法は、第三帝国となる前の同地域の国が徹底的に研究して1度目の大戦時において運用するほどだ。
足りない戦闘力を知恵で乗り切ったというのは……優れた指揮、統率能力があったのと同時に、歩兵戦闘において決して不真面目ではなかったという証左であった。
だが、やはり当時から現在までに言われるのは"もっと機関銃があれば被害を少なく出来たはずだ"――という、批判だ。
2601年現在においてもここは意見が割れており、結論は出せていない。
ただ、当時における陸軍が、その大量生産と採用に消極的だった理由については一定以上の正当性があるとだけは評価されている。
採用に前向きでなかった最大の理由は、当時の機関銃は"基本的に一人では扱えない"――という、戦況によって極めて不利になる要素を孕んでいたため。
陣地の奪い合いとなった帝政時代のヤクチアにおいては、わずか1日の間に何度も互いに陣の奪い合いが生じてその度に機関砲などが鹵獲される事態に陥った。
これは一度奪われれば敵の戦闘力を大幅に向上させるだけでなく、ともすればこちら側の機関砲だけを後方へ送り込んで再び奪い返しても戦闘力が回復できないという重大な危機に陥る可能性が孕む。
ゆえに当時のいわゆる持ち運びに難があり、基本的に陣地に備え付けておくべき重機関銃というののに否定的な見解を持つ者が多かったのである。
保式の場合、ある時期までにおいては運搬に必要な人間を5人~7人必要とし、最大人数7人をもってしても即応性のある臨機応変な移動など出来なかった。
ここが上記の鹵獲の危険性と合わさって当時の上層部に嫌われて前線配備が憚られたのである。
しかし、塹壕での運用というものを生み出した"とある将校"は、繋駕式という馬に引かせて身動きが取れるよう改良した状態で前線に運び込み、これにより運搬にかかる人数を大幅に削減して陣地の奪い合いにおいても敵側に鹵獲されないように運用することを可能としたのであった。
この繋駕式という方法は現地で瞬く間に他の部隊にも浸透し、持ち込まれた機関銃のほぼ全てはこの形式へと改められることとなったのだ。
だが、その"将校"をもってしても「重機関銃は我が国の戦術と相なれず」――との結論を戦後出しており……
ゆえに我が国陸軍はいわゆる重機関銃というものにはさほど興味を抱く結果とはならず、軽機……すなわち軽機関銃に目を向ける事となったのである。
重機関銃も無視していたわけではない。
だが、最初から軽量化に余念がなく、軽機関銃という存在が1度目の大戦を前後に登場し始めると積極的に研究し始めることとなる。
それこそ1度目の大戦の後においてはBARなどを筆頭とした"一人でも使える軽機関銃"――というものを世界各国から集めては、とにかく様々な評価試験を行って独自の機関銃像というものを模索していったものだ。
ちなみにその時の評価試験の様子が写真に残っているが……BARを含めてこぞってライフルスコープが取り付けられていることが注目される。
そう、実は我が軍は軽機関銃がまだ銃架を用いて地面に半固定状態で使われていた頃より、分隊支援火器及びマークスマンライフルとしての使い方を見出していた。
信じられないかもしれないが、複数人で突撃していく小銃隊の後をせかせかと運んで火力支援を行っていたし、高低差を利用して身を隠しながら軽機関銃で狙撃したりもしていたんだ。
しかしそのような事を述べたら疑問を持つ者もいるかもしれない。
"ならばなぜ2度目の大戦でその運用に最も適していると思われるBARを使っていたのは敵側だったのか?"――である。
そう、その通りだ。
使い方から言えばBARはよほど皇国陸軍の思想に合致している。
しかし、陸軍はBARのある部分をどうしても気に入らなかったたため、コピー生産などを行わなかったのであった。
それは銃身と重心。
2つの"ジュウシン"をどうしても許容できなかったのである。
BARの生みの親であるブローニング。
彼ははっきり言って、俺とは異なる方法でもって未来からやってきた人間だと判明しても驚かないほど多くの発明を一度に残していった技術者。
生み出した機構の多くはその後の銃器において多々用いられており、存命中に一体どれだけその後の未来の銃器の基礎を構築していったかわからないほどだ。
しかし、そんなブローニング製の銃器にも時代を象徴する弱点は多くある。
中でもブローニングが軽視していた重心は、はっきり言ってブローニングの評価において玉に瑕をつけている。
彼が作った1911A1なども含め、多くの銃の重心配置は極めて適当だった。
ゆえに反動制御が難しく、BARでは連射可能な銃器類で最もやってはいけないフロントヘビーだったためにリコイル制御は至難の業。
そして軽機関銃としては銃身の寿命が短く、それでいてレシーバーとほぼ一体化していて戦場でまともに交換できるものでもない。
ゆえに銃身寿命の長さと交換可能などの冗長性の高さを求める皇国陸軍からしてBARは認めることが出来ないものだった。
皮肉なのは、そうやって軽機関銃の分野に注力した結果、優秀な軽機関銃を多く保有する皇国に対し、重機関銃に注力して出遅れてしまったNUPがBARでもって陸戦を挑んできたことだ。
それ以外の手段が極限られていたため、東南亜などの戦場では皇国の軽機関銃部隊と熾烈な白兵戦が展開され……双方ともに甚大な被害を出している。
バトルライフルとして見た場合、BARは多くの難点を抱えるものの威力はお墨付きがゆえに他に代替できる存在もなかったがことも相まって対StG44などでも活躍しており、正直言って本当にやるべきはBARの弱点を改良した上での軽機関銃化だったのではないのかという話は……実は大戦中の皇国陸軍内にも存在していた。
その時には遅きに失した感はあったものの、気づいていた者もいたという点で皇国も自動火器について真面目に取り組んでいたということがわかるであろう。
その上で言えるのは……俺が目指すのはこの路線だということだ。
つまり、ベルト給弾方式を一切考慮しないバトルライフルということである。
では俺の蘇らせようとしている存在がBARをベースとしたものかというと違う。
俺の中にあるもの……
それはAKの進化系の1つ。
政治的理由により何度も何度も弾かれたゆえに本国とは袂を分ち、結果的に歴史の闇に葬られたバトルライフルこそ、俺の記憶の中に眠る存在だったのだ。
ゆっくりと目を瞑ると今でも思い出す。
遠い過去。
友より託されたあの日のこと。
本来の未来における皇歴2642年。
俺はヤクチアより亡命してきたとある技師から、流体力学者として力を貸してほしい旨の手紙を受け取り、ユーグのとある国内にて彼と出会うことになった。
彼の名はトカチョフ。
元はヤクチアの銃器関連技術者であり、新機軸の機構を開発する研究部門にて斬新な試作銃をいくつも考案して国に提案していた男であった。
その彼が最も熱心だったのが反動抑制機構。
当時のヤクチアの主力アサルトライフルであったAKの弱点である反動と取り回しの悪さの改善のため、日夜研究の上でついにそれを生み出したのである。
AKを生み出したヤクチアでは、とある理由によりガスオペレーション式ロングストロークに拘っていた。
それは地域によっては-20度以下にもなる過酷な環境が当たり前であるヤクチアにおいて、すでに西側ではその時点で主流となりつつあったショートストローク方式では動作が不安定になるからである。
ロングストロークとショートストロークの違いというのは、ロングストロークはボルトと発射時に弾薬から生じた高圧ガスより運動エネルギーを回収するピストンが一体化したもので、ショートストロークとはこれをピストンとボルトとで分離させて作動させるもので、ストローク量の違いを言うわけではない。
この時、極寒の環境だとショートストローク方式ではどうして動作が不安定となるかというと、実際の内部作動状況を見てもらえばわかるのだが、ピストンはボルトを打ち出すがごとく最小限の動きでボルトが後退するよう動作するためだ。
ボルトの作動原理はブローバック方式に似てなくもない。
拳銃などで主流のブローバック方式では、弾丸発射時において弾頭を発射した際に射出方向とは逆方向に生ずる火薬の勢いによる薬莢そのものが後退して生まれた反動を受けてボルトが後退するわけだが……
これを弾丸が銃身を一定以上移動通過した際に回収したガスでもってピストンを動かして、そのピストンを従来の後退する薬莢代わりにガツンと後退させてボルトに打ち付けて装填を行うわけである。
この方式の場合、ガス圧が強すぎるのを調節する機構を投入することで、一定環境ならば常に安定した動作が保証できるのだが……
裏を返せばボルトを後退させるための力は相当に必要なため、発射した瞬間からガスが急速に冷えて収縮してしまうような極寒の地においては、その気温で動作するためのセッティングでなければガス圧が足りずにボルトが適切に後退しきらずにジャムなどを引き起こすリスクを孕んでいるわけだ。
一方のロングストロークはピストンとボルトが一体化しているため、構造上ピストンが前後に動く限界点が決まっているので-20度の環境下でも動作するガスを必ず回収できるよう設計していれば、-20度以上の環境においては必要以上のガスはピストンとボルトが完全に後退しきった時に銃身より放出されるので過酷な環境でも対応しやすいわけである。
一見両者を見比べるとショートストロークは欠陥構造に見えるが、そもそもこのショートストロークというのはロングストロークの弱点である反動の強さを制御しようとして生まれたものだったりする。
ボルトと一体化しているという事は、すなわち極めて重いオモリが内部で発射とは反対方向に慣性でもって動いているわけだ。
これが最後部まで動いた時の衝撃によって銃は大きく後退し、さらに多くの場合一連の機構はサイズがサイズなため、バレルより上側に取り付けられるので銃身を上へと持ち上げる力を生じさせてしまう。
ショートストロークというのはこの改良を目指して考案されたもので、ボルトとピストンをあえて分離することで双方を小型化。
これにより、やりようによっては銃身より下側にピストン等を配置できる上、ボルト自体も小さく軽くできるので反動はより小さくなる。
ゆえに俺がやり直す頃においては本機構を持つアサルトライフルが主流となっていたわけである。
だが、このショートストロークの唯一の弱点は-20度に合わせて調整するとガスの逃げ場が無い上に、多くの場合において反動軽減と軽量化を目指して強度を一定の段階で妥協しているのでガス圧が強すぎると破損してしまうわけだ。
ゆえにこの手のショートストロークのアサルトライフルには別途寒冷地仕様向けのパーツが存在していたりするわけだが……
寒暖差が激しい地域だと対応は極めて難しいがゆえ、主として-20度~10度前後までに気温が変化する過酷な環境での使用も想定したアサルトライフルというのは、AKと同じくロングストローク方式を採用している。
シュヴィーツのSIG550やスヴェーアのAK5、そして当時は対ヤクチアをも想定していたアペニンのAR70/90なんかが同じくロングストローク方式だった。
ピストンとボルトが一体化しているために部品点数も少なく出来、やろうと思えばいくらでも頑強にできうるロングストローク。
もし仮にロングストローク方式の利点をそのままに、唯一の弱点と言える強烈な反動を何らかの方法で相殺できれば……
それはすなわち、ショートストローク方式のアサルトライフルを完全に過去の遺物にまで落とし込む、真の完成形たるアサルトライフルもといバトルライフルになるのではないか……
それを考えて実行に移した男こそ、トカチョフであった。
初めて俺が出会った時、彼はすでにその機構を完成させていた。
それだけじゃない。
驚くべきことに、すでにその機構は誕生してから20年近くの月日が経過していた。
時は皇歴2625年。
従来のAKの改良型として採用されたAKM。
これはマズルブレーキを斜めにカットするなど様々な方向で手を入れ、特に生産性を向上させた上で大幅な軽量化を達成したレシーバーによりその完成度はさらに高まっていたのだが……
それでも従来より問題となっていた反動の強さに対し、ヤクチア内では密かにAKMの次を担う次世代ライフルとしていくつかのアサルトライフルが試作されていた。
その中には5.45×39mm弾を採用した新型と……反動抑制機構、トカチョフ曰く王立語で「Balanced Automatics Recoil System」ことBARSと呼ばれる機構を採用した従来通りの7.62×39mm弾を装備したAO-36と呼ばれる試作アサルトライフルが存在した。
このAO-36と呼ばれるアサルトライフルこそ、トカチョフがBARSをAKに装備させて満を持して世に送り出したものである。
このBARSというのは、まさにロングストローク方式の弱点を大幅にカバーするためにトカチョフが発明したものだ。
彼が何をしたのかというと……無反動砲の原理を参考に、ピストンの進行方向とは逆に動く重りを内部に仕込み、弾丸から回収した高圧ガスでもって両者を真逆に作動させて反動を相殺しようと試みるものであった。
彼はロングストローク方式における銃の反動は4つ存在することを解明していた。
1つは弾丸が銃身に沿って移動した際に生じる、ブローバック方式にも使えるほどの勢いがある銃を後ろへと後退させる反動。
2つ目がボルトがレシーバーに沿って前後に移動する際に生ずる反動で、3つ目がボルト及びピストンが最後部に激突した際に生じる反動。
最後の4つ目が新しい弾丸がカートリッジからチャンバー内に移動した際、ボルトグルーブが前進してきて装填される時に生じる反動であった。
このうち、実は最も大きい反動はブローバックにも使える1つ目の反動であり、一方でこの反動はバレル位置と銃床の配置が適切ならば真後ろに来るので不安定な制動を生じさせないことがわかっていた。
そこで彼は考えたのだ。
AKのドギツイ反動のうち、ピストン及びボルトがレシーバー内において移動することによって生じる反動を弾丸と同じ進行方向でもって動かす重りによって相殺し、さらにその後においてカートリッジ内から新たな弾丸を装填してくる、レシーバーが再び弾丸と同じ進行方向で動く反動を弾丸が銃身から射出されるタイミングに同調させれば、従来までに生じていた反動の殆どを相殺し、7.62mmクラスでありながら信じられないほどの低反動フルオート射撃が可能なのではないか――と。
それこそがBARSであった。
仕組み自体は簡単だ。
まるでチューブマガジンのような構造体が銃身の上に取り付けられ、発射ガスはガスポートを通じてピストンと反動相殺用の重りを双方に動かす。
この時、これら2つのピストンと重りはギアによって同調するようになっている。
こうしないとどうなるか。
簡単に試すことができる。
何でもいいのでチューブを用意しよう。
その中に内径と同径の円筒状のスポンジを2つ仕込む。
チューブの中央に穴を空け、穴を境界線にほど良い位置に双方同じ位置になるようにスポンジを仕込む。
中央位置から空気を入れたり抜いたりすると気圧の変化に応じて中のスポンジは左右に動くわけだが……この時のスポンジの動きは摩擦によってズレが生じるため、必ずしも同調した動きを示すことはない。
これでは反動を相殺できないばかりかガス圧が適切にピストン側に至らず作動不良を起こしかねない。
ゆえにギアを介して同調させるのである。
そもそもガスポートを通して均一のガスが双方に行き渡るわけがない。
そこは流体力学的に言えば当たり前の話だ。
ようはこの重りの動きと、マガジンより弾丸を装填する時のレシーバー内におけるボルトの動きなど全てを弾丸発射時の反動と連動させて徹底的に相殺する。
それこそがBARSによって達成される完成形たる自動小銃なわけである。
そのためにはとにかくありとあらゆる作動状況において計算が必要であり……
流体力学的な緻密な計算も多々必要で、一筋縄ではいかない茨の道が広がっていた。
原理は単純だが、それを実現せしめる構造を達成するのにとても苦労するわけである。
ゆえにトカチョフだけの力ではどうにもならなかったのだ。
そんなトカチョフが開発協力者として俺に求めたもの。
それは20年近く前に作り上げたBARSのシステムの完成度をより向上させるとともに、AK譲りの耐久性、耐候性、生産性、整備性を兼ね揃えた新世代のライフルを共に開発しようということだった。
そして彼がわざわざ亡命してまで俺に声をかけた理由だが、曰く航空技術から何から何まで手を出していて発想力に優れるからというのもあるが……
それ以上に、皇国に何か思う所があるようだった。
詳しくは聞いていない。
表向き話していた亡命理由は、AO-36とその改良型のAO-38が共に却下された理由を知ったからだという。
評価テストでは5.45×39mmの新型ライフルに対し、7.62mm×39で300mでの集弾率は15%、命中率に至っては20%以上も上回っていた。
そんな化け物をヤクチアが却下したのは、表向き"コストがかかりすぎるから"――であったのだが……その実恐れていたのだという。
実際には部品点数からいって西側の主力アサルトライフルよりコストが低いにも関わらず、7.62×39mmで5.45×39mm弾仕様の後のAK-74となる存在と比較して圧倒的な命中率に「これがテロリストやレジスタンスの手に渡れば手がつけられなくなる」――という恐怖から、本ライフルは闇に葬るべきであるとの結論に至ってトライアルを落とされていたのだ。
その事実を伝えたのは他でもないカラシニコフだったという。
5.45×39mm弾の威力に否定的だったカラシニコフは、なぜ5.45mmを用いるAK-74が採用されるのか10年以上に渡って探っていた。
そして最終的に数々の機密報告文書を手に入れ、AK-74が採用されたのは諸外国のテロリストやその他の反乱因子が使用する可能性が低く、仮に使用しても威力が低く殺傷するためには2発以上必要な事から適切に軍事訓練を受けた正規兵ならば技量差でもって押し通せると考えたこと……
すなわち5.45×39mmの採用は一重に7.62×39mmの脅威を遠ざけようと考えた政治的判断そのものであり……
自国の正規兵がより危険に晒される可能性があっても、7.62×39mm弾というのは欠陥品だという印象を諸外国に与えて採用国を減らしてそれがゆえに供給元からの生産量も減らし、最終的に少しでも使用者を減らしたいという、なんとも残念な皮算用によるものだったのだった。
ゆえに7.62×39mmで高性能どころではないような化け物なぞ、闇に葬る以外ありえないという結論を出したわけである。
カラシニコフからすれば、元より自国が代理戦争を煽るために不必要にも大きく広めたAKと7.62×39mmであったにも関わらず、制御不能に陥ったことで7.62mm×39mmをより威力が低い5.45×39mmで置き換えようとするのは納得が出来ないばかりか、どう考えても実現不可能といえた話だったわけで……
トカチョフに一連の情報をリークして真実を伝えたのだ。
しかし、トカチョフはその時点ではまだ希望を失わず、2640年に行われたプロジェクトアバガンと呼ばれるAK-74の後継を選定するための計画にて"AEK-791"という、5.45mmにも7.62mmにも対応したBARS装備の新型ライフルを出してトライアルに参加。
トカチョフは「本機構は5.45mmでも有効であり、7.62mmに拘る必要性も無く、5.45mmでも優れた命中率かつ無反動ともいえるほどに極小化された反動により、正規兵の命を危険から守り、敵を高命中の先制射撃でもって制圧できる」――といってAEK-971の性能の高さを訴えたものの……
再びトライアルで敗北。
次期主力アサルトライフルはAK-74を改良して他の弾薬にも対応したAK-74Mと、瞬間的に驚異的な連射速度での二点バーストが可能なAN-94の二種となった。
そしてこの時の敗北の真の理由もカラシニコフは掴むことが出来、トカチョフへと共有した。
やはりそこには、自国にて誕生した極めて高性能なライフルを危険視するヤクチア内部の実情が刻々と記述されており……
優れた技術をともかく無かった事にしたい姿勢が垣間見えたのだとされる。
これに業を煮やしたトカチョフは亡命を決意。
元々、共産主義に迎合していなかったトカチョフは、現場で戦う兵の命をなんとも思わず、あえて性能の低い銃を装備させて7.62×39mmを闇に葬ろうとする国に未来など無いと考え……
逆に本機構を装備した新たな自動小銃を開発することで、未来においてヤクチアが全てを赤く染めんとばかりに侵攻を開始した時に対ヤクチアにおける反撃の要としようとしたのだ。
特にガルフ三国やサモエドなど、ゲリラ戦が有効な地域で、かつ寒暖差が激しく平均気温が低い地域において輝く新世代の自動小銃を開発しようと俺に声をかけてくれたわけである。
本当にそれがどれほどまでの抵抗力となるかは未知数。
だが、彼は小さな努力と行動の積み重ねがいつかは大いなる力となって全てをひっくり返すこととなるのだと信じて疑わなかった。
そんな彼に声をかけられた俺は……BARSの機構の改良と共に、ありとあらゆる部分において計算に計算をし尽くさねばならないこのバトルライフルに挑むこととなるのだった。
彼は俺に配慮してなのかどうかわからないが……新規開発のバトルライフルに予め「JAR」と名付けており、かくして俺や俺の知り合い、各国のパトロンからの資金援助もあって「JAR計画」は始まり……
そして悲劇へとつながる事になるのだった。
ヤクチアがこんな行動を許すわけがない。
何よりもその小銃の誕生を恐れていたのだから。
だが、その小銃はたしかにあった。
確かに実在したんだ。
そしてソレは……今も尚、俺の頭の中にある。