第171話:航空技術者は-17度の正体を知り、己を恥じる(中編)
長いので分けます。
「――これはまだ試験的な試みであるため、正しい方法なのかわかりませんが……我々はこのように試しています」
「どうぞ続けてください」
普段の中山なら「御託はいいから早くしろ」――などと述べたことだろうが、今は陛下の通訳を担当している立場。
丁寧な言葉遣いでもって対応しようと勤めていた。
一悶着があってから30分ほどだろうか。
ビル社長によって待たされた後に案内されたのはすぐ隣の格納庫だった。
こちらに訪れた時には完全に扉が閉まっていたが……今は完全に開かれて内部が確認できるようになっている。
内部にあるのはB-29のなり損ないとも言おうか、Model 340~343までに続く機体の模型や、試作された翼の一部のパーツ類などが大量に並べられていた。
まさに今、本来の未来において皇国を焼き尽くした大型爆撃機が生まれようとしているわけだ。
そんな巨大な施設の内部にて案内されたのは、様々な模型やパーツが遮蔽物になって外からでは何があるのか判別できないような空間。
そこに一式の骨組みが鎮座されていた。
輪切りにされたかのように配置された航空機の胴体の内部フレームである。
フレームは一定の間隔を空けて二組配置されており……恐らくこのフレームとフレームの間に外板を重ねようとしたいのだろう。
そんな状態である。
「これからこの骨組みにアルミ板を貼り付けていきます。ただ、その前に一作業が必要となりまして……今それぞれ作業に必要な機材や溶剤などをお持ちしますので……」
ビル社長の案内によっていよいよ最新鋭の外板の接合方法を見ることとなった。
社長はカンペなどを見ることなく対応している。
つまりこれを一度以上は見たことがあり、そしてどういうものかも知っているようだ。
「――なっ!?」
思わず声が漏れてしまった。
中山がどうしたとばかりにこちらに視線を向けてくる。
「いえ、失礼」
周囲に謝罪しつつも俺はボーウィンの社員が持ち込んだソレを見て冷静さを失いかけていた。
馬鹿な……なぜそれがそこにある。
なぜ目の前に……10年先の技術がある!
それは……そいつは接着剤じゃないか!!
それもただの接着剤じゃない。
エポキシ系樹脂による接着剤だと!?
なんとボーウィンの社員が持ち出したのは液体窒素で冷却されたフィルム状のシートであった。
液体窒素用の容器から彼らが取り出したのは冷気を纏う筒状に巻かれたフィルム。
間違いなくソレは-17度以下に冷やされており、彼らは筒状に巻かれたシートを広げて作業を開始している。
見覚えがあるどころではない。
航空技術者を名乗るならば知らなかったでは済まされない存在だ。
少なくても未来を知る航空技術者であれば。
エポキシ系樹脂。
これは2598年に発見され、かつ工業化が試みられたものだ。
航空機向けの用途としては主として接着剤と塗料の双方において活躍が見込まれた。
俺の記憶が確かなら2608年に初めて本格的なエポキシ系接着剤の工業用化がなされて各分野に用いられたはずだった。
しかし、噂では二度目の大戦の最中、王立国家など複数の国がその技術を入手して試行錯誤したといわれている。
実際問題、2600年~2601年頃の資料においても密かに実験レベルで使われていたといった、噂程度の情報は確認できなくもない。
ただ、実際に使われたとされる実物を見ても殆どが当時広く利用が始まったばかりの一般的な常温接着剤で、正真正銘の本物が使われた事例というのは少なくても俺が集めた資料では確認できなかった。
それでもこの話がちょっとした巷説以上に信憑性がある情報とされるのは…………2650年の頃には航空機において塗料、接着剤の両面で大々的に活用されはじめていたからだ。
それも正しい手法でもって導入されていった経緯がある。
試行錯誤された形跡が殆どないといえるほどだった。
中でもNUPが世界で最も使用が早く……限定的ながらも使用を開始して新型機に全面的に採用していったのは……他でもないボーウィン社だった。
接着の仕組みを知る者ならば、常温接着可能な接着剤と明らかに接着方法が異なるエポキシ系接着剤をいきなり使いこなすというのは技術的には妙な点があったのは事実とはいえ……
うそだろ!?
仮に早い段階から試行錯誤していたとしても2608年以降だと思っていたのに、どうして彼らはこれをすでに使っているんだ。
-17度の正体はエポキシ系接着剤だっただと!?
くそッ……俺としたことが……!!!
どうして気づかなかったんだ!
-17度というのは引っかからないでもなかった。
だがエポキシ樹脂っていうのはなぜか俺の頭の中では-18度以下の保管が必須という技術情報が色濃く記憶されており……さらに2608年以降、2610年代に主流となって発展していく技術だと思っていただけに-17度はまた別のものであると勝手に考えていて……完全に先入観に飲まれていた!
馬鹿じゃないのか俺は。
冷静に考えて見れば技術が公知となった段階では、すでに試行錯誤がし尽くされた後だろうが。
もしかしたらの可能性に全く目を向けずに足元ばかりをみて……もっと新技術について貪欲に情報をかき集めるべきだったんだ!
だとしても技術屋の本能が今日の日までの行動を促したんだろう。
きっとどこかで怪しいと思っていたんだ。
恐ろしい何かを隠しているような気がしていたんだ。
あやうく崖から転落するところだったが、敵地といえる場所にまで堂々と乗り込んできた価値はあったというべきか……
今後の行動は見直さないとだめだ。
こんなとてつもない技術を見逃すかもしれなかったなんて……取り返しのつかない事態になりかねない!
後で己を恥じて総括しよう。
その上でこの技術の要になる接着剤を絶対に手に入れねばならない。
なんとしても、なんとしてもだッ!
航空機におけるエポキシ系接着剤。
それはまさにボーウィン社がそのありようを示したのは言うまでもない。
今目の前で起きていることを一言で説明しよう。
ブレイクスルーだ。
この後の航空機製造において革命を起こした存在を見せ付けられている。
……従来までの単純リベット接合というのは様々な問題を抱えていた。
リベットを中心に局所的に応力による負荷がかかり、適切にリベットを打ち込まないと飛行中に外板が剥離してしまうといったような困難が常に付きまとう。
それこそ適切に打ち込まないと剥離するというのは半世紀後の旅客機ですら起こりうることであり、その手の剥離事故は少なくない件数が世界の航空機において生じていて……日夜技術的な改善が求められていたわけである。
一応言うと、ちょっとやそっと剥がれた程度で問題とならないようフェイルセーフを施しているのが半世紀後の旅客機ではある。
他方、全金属性のセミモノコック構造を採用し始めてからというもの、リベットを中心に金属疲労が進行してフレームと外板の両面で亀裂が生じていくというジレンマにも悩まされ続けていた。
計算どおりに機体を組んでも計算以上に磨耗が激しく金属疲労が加速度的に蓄積していく……ゆえにどうしても必要以上に強度を保たせねばならず、それによって重量が増加していくといった悪循環から逃げられない。
そんな中で満を持して登場したのがエポキシ系接着剤だったのだ。
これはリベット用充填材が登場して一般的となる以降においても併用されて使われ続けるもので……
それまでの航空機製造という概念を大きく変貌させてしまう存在であるのだった。
これがどれほど恐ろしい物なのか……目の前の彼らがこれから何をやるかを事細かに予言しつつ解説してみよう。
まずは外板を洗浄後、接着面を硫酸重クロム酸ナトリウム液などでエッチングを行い表面を均す。
その後、この溶剤によって活性化したアルミ合金板の表面についてプライマーを塗布して安定化させる。
ただこれは古い手法で、俺がやり直す直前の頃は表面処理をリン酸による陽極処理……即ちアルマイト処理もといアルマイト化によって接着面を調整していた。(もちろんプライマー塗布はやる)
恐らく現状においてはアルマイト処理の方が優れているという認識は無いので溶液を使っているはず。
試行錯誤の果てに気づく事だからな……
次にほどよく解凍したフィルム状の接着剤をフレーム側に貼り付け、その上に外板を重ねて一定の圧力をかけつつリベットを打ち込む。
フィルムは常温で硬化が始まってしまうので、一連の作業は素早く行わねばならない。
この時、アルミ板がリベットを打ち込む摩擦によって加熱されることは冷えたフィルム状の接着剤によって相殺される。
さらにリベットとフレーム側との微妙な隙間も接着剤が充填剤と同様の効果を発揮して埋め合わされる。
この後にやるのは接着剤の硬化。
どこにあるのか知らないが、巨大な汎用オートクレーブでもって120度または180度で加圧及び加熱。
120度と180度の違いについては使用環境に応じて温度を整える。
常時100度以上となる環境においても変形や剥離等生じないようにするなら、この温度まで加熱して硬化させねばならない。
温度管理が大変なので、形状を保ったまま加熱処理するのが難しいこともあり通常は120度が基本だ。
これにより接着剤は完全に硬化して接合が完了する。
この際、接着剤は熱によって膨張しつつ各部の微細な隙間を埋めるようにして硬化するため……
胴体はそのままでも十分な気密構造となる。
ここに適切なシーリングを施せばさらに完璧に近づく。
そう、未来の旅客機が旅客機たるために必要な構造。
それをちょっとした接着剤で達成させてしまうと、そういうわけだ。
それだけじゃない。
この技術を最も活用しているのが他でもないアルミ合金製ハニカム構造部材。
ハニカム構造のコア部分と、そうでないアルミ板を接合するにあたって何よりも接合するのに適していた接着剤がこのエポキシ系接着剤だった。
常温硬化の接着剤とは比べ物にならないほど強靭に張り合わせることが出来るのだ。
連山にも導入しようとしているアルミハニカム構造……それを常温接着剤以上に完璧なものへとすることが出来る唯一無二の接着剤……
つまりエポキシ系接着剤というのは、2つの方面で大きな革命を起こしたわけである。
1つは今目の前で進行している外板の結合。
いわゆるリベットと接着剤の併用による接合だ。
ここにエポキシ系接着剤を用いることにより下記の効力が得られる。
1.応力集中を減少させて疲労強度を改善させる。(機体寿命が大幅に伸びるだけでなく、限界性能も高まる)
2.構造全体に占める締結用リベットの重量を軽減できる。(リベット自体を減らせる上に、より細く小さいリベットを用いても従来と同様の強度を確保したまま外板を貼り付けられ、外板の変形リスクを減少させられる)
3.外板表面の凹凸を減らし、空気抵抗を減少させる(一連の熱処理によって外板の変形を最小限としつつ接合できるようになる)
4.接着剤自体の柔軟性を利用して対音響疲労性を向上させる(副次効果的だが、高周波振動やフラッター現象等、高速飛行中の意図しない振動による異常ともいえる機体寿命の激しい磨耗を抑え込むこととができる)
5.液体または気体の漏洩を効果的に防止する。(未来において普遍となる与圧構造を一般化することができる)
もう1つの方面としてはリベットを一切用いない接合が可能となる。
これにより下記の効力を得ることができるようになる。
1.従来まで電食などによって単純接合できなかった異なる金属同士を接合できるようになる。(チタン合金など、組み合わせての使用が難しい存在を組み合わせることが可能となる)
2.複数の異なる素材同士を組み合わせて従来では考えられなかったほどに軽量かつ頑丈な構造部材とすることができる。
3.接着剤の種類によっては300度以上の高熱状態となっても破損や変形等が起きず、接合状態を維持できるようになり、いわゆる耐熱・耐圧構造ともいうべきものを実現できる(マッハ3級戦闘機を作る上では必須)
4.従来のリベット構造では不可能と言えた、接着を行うことで達成可能な形状の構造部材を導入することで機体の強度を大幅に向上させつつも重量の増加を防ぐことができる。
――と、このように360度どこを見ても導入しないことなどありえないほどに魅力溢れる技術なわけだ。