番外編16:道筋は自らの自浄力でもってつける
信濃忠清がヘリコプター操縦者の条件緩和について提案を行った数日後。
いよいよ皇国の王がNUPへと旅立つ直前といった状況下にて、皇国議会による御前会議が開かれた。
信濃より預けられた資料を基にヘリコプター操縦士の獲得のための一部兵員の入隊資格緩和について議題に取り上げた現皇国の内閣総理大臣は、預けられた情報を頼りに雄弁に必要性を語る。
しかし20分にも及んだ熱弁空しく、参加した者の多くは冷ややかな場の空気を維持しようとしたのだった。
元来は賛同すべき陸軍上層部の多くの将校は「時期尚早」、「まだそこまで危機的な状況に陥っていない」――などと、よくある皇国政治が停滞する様をありありと見せつけ、その一方で長島知久平や、この日のために西条が頼りにしていた関東軍の者らが条件緩和の必要性について強く訴えかけている姿がそこにあった。
その様子を見た海軍の者達は、他の大臣らと同じく「沈黙は金」とばかりに火に油を注ぐ真似は控えつつも、儀を重んじる西条が自ら行った提案を冷静に分析し、井下らを含め、本土へと残って海軍の代表を任された者達は「必要性が濃いもの」――と、条件緩和について十分に理解していたのだった。
格式か利か。
あってないような騎士道のような儀に拘る者達と、戦争に浪漫を持ち込むなかれとばかりに戦の場で血汗を流した者達による議論は徐々に白熱する。
だが結局結論に至る事は無く、会議は次の議題へと移行することとなってしまった。
理想と現実に板ばさみになりつつ、信頼する信濃による大変説得力ある発想と提案に根負けしての提案ではあったが、今1つ肩に力が入りきらなかったことで周囲を納得させることができなかった西条は顔をやや紅潮させたまま、その後の議論に参加できず黙ってしまう。
その原因が己が描く陸軍の姿への執着心が捨てきれぬことと理解し、不甲斐なさを感じていたのである。
信濃忠清はひたすらに利を求め、その上で最適な答えを用意してくれていた。
これまでにおいても、彼は軍内で生じたあらゆる問題に対していつも最適解を用意しては手助けしてきた。
事実、陸軍はわずか数年で大きな躍進を果たしそうな片鱗を見せはじめている。
その最大の一手の1つとなるヘリコプターという存在を全面的に活用した戦術を行うにあたり、すでに既存の条件による人材の掘り起こしは微塵も見込めないのは事実であった。
とはいえ、皇国の現首相は集や統一民国などへと向かった出稼ぎ労働者が兵役免除対象であることなどから、彼らから選抜することなども考えてはいた。
無論、それが付け焼刃にしかならぬとはいえ、まずはそこからといった考えが脳裏にあった。
それこそが己の心持に影響を与え、隙を与えてしまったことに西条は気づきかけてはいたものの、自らが本腰を入れた説得を行ったとて、格式を前にして陸軍が折れるかどうかについては正直なところ折れないと最初から負け覚悟の戦いをしていたことにすら今更気づいて空しくなり……
己を恥じたことで周囲の声が聞こえなくなってしまったのだ。
そのまま頭の中で後悔と懺悔を続けているといつの間にか御前会議は終わり、議会は解散となっていた。
周囲の殆どが席を立った後に西条も席を立ち、次なる一手を考えようと参謀本部へと向かおうとしたその時であった。
「西条くん。今よろしいかな?」
思わぬ一声に立ち去ろうとした足が止まる。
聞きなれた声。
やや高めなれど、はっきりとした滑舌。
他でもない、皇国の頂点に君臨する者が呼び止めたのである。
「いかがされましたか。陛下」
恐らく会議中ずっと黙ったままうつむいていたことを注意するのであろう。
そう考えて何を言われても受け止める覚悟を決めた西条はゆっくりと振り返った。
だが次の刹那、自身の想像とはかけ離れた言葉に戦慄することになるのだった。
「西条くん。先ほどの発案なのですけれどもね……1つ伺ってもよろしいですか?」
「え? ええ……先ほどといいますのは……」
「陸軍入隊資格の一部兵科の条件緩和の話です」
ここに来てにわかに西条は状況の異常さを察することになった。
通常、真っ先に議会から去るのは他でもない御方であり、そのお姿を見守った後に解散となるのだ。
記憶を掘り返せば先ほど陛下は先に議会の場より退出し、その後で解散となったはず。
つまり、西条に話を伺うためだけにわざわざお戻りになられたのである。
これは尋常ならざる出来事に違いない。
これまでに感じたことのない緊張が瞬間彼を襲った。
「も、もしやお気に召されませんでしたか! 本件はあくまで提案ですので、陛下がお気に召さないとあればすぐにでも廃案に……」
「そうではありません。そうではないのです。西条くん。先ほどの条件緩和のお話。私も配布された資料に目を通させてもらいましたが……随分と秀逸な内容ですね。鉄道や自動車に関する科学的な論文資料などを添えて、皇国の資格関係も交えて根拠としていた……それを話されていたでしょう?」
「え、ええ……」
西条が驚いたのは陛下が短時間の間に資料を読解し、その内容についてそれなりに理解していたことであった。
それはつまり、本件について並ならぬ関心……もとい興味を抱かれていたということだ。
この日の資料は信濃忠清が事前に準備していた。
彼は600m条項などの類似した基準を示し、鉄道員へ向けて定めた鉄道省職員身体検査規程の視力が片目0.7以上、両目1.0以上とするのは瞬間目撃した際の距離と、そこからの停止距離までの逆算からであって、600m条項が視力0.7を基準で計測しているのは必ずしも両目で対象を捉える事はないからだと改めて論説。
その上で、元来はもっと余裕をもっていい数字なれど視認距離を600m先とするのは皇国が諸外国より慎重であったからとしながら、600m以内という条件は停止距離から逆算しているが、同様のことはヘリコプターにも当てはまり……
最高速度から停止までの距離は大体500m未満だが、その上で必要となる視力は最低両目0.7で慎重を期すならば1.0で片目0.7であるとし、一方で鉄道員と異なりヘリコプターは2人体制で運用するため、空中にいることで従来より識別能力が落ちる状況下でも十分に目測による認識は可能だと論理を展開。
さらに鉄道省が諸外国の状況を見て矯正可裸眼0.2と条件を緩和するかどうかの研究を独自に行っていることや、諸外国では実際に裸眼0.2が鉄道員となるための基準として適用されており……
その根拠としては、王立国家やNUPなどが現段階における矯正具のレンズ収差から検証すると、ここまでならば収差は殆ど生じず識別力は裸眼とほぼ同様で大きな問題とならないからであるということを綴った医学論文と……
一連の国々が該当の医学論文を根拠に条件を最低0.2に緩和していることを示し、たとえ空中を飛行する航空機であっても、その安全性が十分に担保されているならば諸外国が鉄道や自動車の運転視覚として定める最低条件にまで緩和しても問題ないのではないかとしたのだった。
この話に実は内心一番驚いていたのは鉄道省である。
何時の間に動力車の鉄道員向けの基準緩和を検討していた情報が漏れたのかと陸軍の情報収集能力に驚いていたが、実際に西条は「検討されているのだな?」――と述べ、それを肯定する一幕があった。
もちろんこれは信濃忠清が戦後の2617年に検討に検討を重ねた結果、基準緩和へと舵を切った未来を知るからこそ出来た芸当ではあるものの……
信濃忠清が示した0.2という基準を既に検討していた組織は、すでに国内に存在したというのは西条も内心驚きを隠せなかった。
当然説得力を増す材料にはなっていたものの、あくまで鉄道省としては「今後を見据えて検討の段階」――であって、内々で静かに執り行っていたもので、すぐさま施行するものではないと否定はしている。
このことは皇国内において未だに視力が弱い者に対する不安というのが完全に拭いきれていないという事実に他ならなかった。
それでも、完全否定できず慎重姿勢で対抗するのが限界となる程度には説得力が十分にあり……
そして一連の様子を静かに見守っていた陛下は、資料に目を通しながら真摯に耳を傾けていたのだった。
「西条君。私が気になっていることは、先ほどの資料には階級制限についてナシと記述されていることです。これは本当なのですか?」
「記述の通りです……ですが、問題があるとおっしゃるならば佐官や尉官未満といった条件を付しても……」
「いえ、そういう話がしたいのではありません。この階級制限とは、つまり既に軍籍を得ている者でも、いかなる階級であったとしても視力という条件を満たしていれば資格を得られると解釈してよろしいということで間違いないですか?」
「は、はい……その通りで……」
そのまま「――ございます」という言葉を述べようと思った瞬間、はっと西条は気づく。
陛下が何を望んで伺ったのか、常日頃周囲から鈍感などと言われるこの男でもさすがに気づくことが出来た。
すぐさま体中から体温が抜けていく感覚に襲われる。
釣りで例えることすら許されぬような天上に君臨する存在が、自身の提案に食いついていたのだ。
その者こそ、この世でただ一人、皇国の軍事において肩書き上は絶対命令権を持つ最高指揮官。
その階級は一般人が到達できる最大階級の元帥すらも超越している。
「ということは、大元帥の立場でも操縦訓練を受けても良いということになりますね」
「現用の案をそのまま通せば確かに拘束力はございませんので、おっしゃる通りです」
大元帥は除外であるなどと、答えることなど出来ない。
事実、作成された試案には「階級制限は現用の選抜条件を適用して無しとし、既存の陸軍所属者からも選抜する」――とだけ書かれていた。
これは入隊後に視力を落とした者を対象としており、かつては操縦資格を持っていた者に改めて飛行士としての再挑戦を促すために設けられた条項である。
どこにも最高階級を縛る文言などなかった。
「とても良い発案ではないですか。…………西条君。この案は通しなさい。もちろん、今日提案されたものを一字一句変更せず、そのままで通すのです」
「な、なれど他の将官らは後ろ向きで、恐縮ながらとても私一人の力では」
「西条君。通しなさい。異を唱える者がいるならば私のところまで連れてきていただければ、私が彼らを説得しましょう」
「陛下直々に御言葉を述べられるというのですか!?」
「必要とあれば大元帥命令を出す覚悟すらあります。ですが、それは可能な限り最大限差し控えたい。そのことは西条くんが他の誰よりも理解されていることだとは思います」
陛下の覚悟は相当なものであることを西条が理解するまで、一瞬の間を置くだけで十分だった。
元々、王立国家の立憲君主に対して深い感銘を受けた陛下は、これまでにおいて大元帥としての立場からなんら命令などを下した事はなく、軍はそれを背景に統帥権を持ち上げて独断行動をし続けてきた経緯がある。
西条からしてみれば陛下の方が戦略眼では鋭く、行動後の世界情勢が皇国にとって不利に働くことを危惧された中で軍が強引に活動した結果、陛下の読みが的中したケースというのは極めて多かった。
それでも一連の行動は国民が独立心をもって行った行動として立憲君主の立場から見守ろうと勤めてきたのである。
彼が心の中で掲げた確固たる意思を捻じ曲げることすら辞さないというのは、条件緩和に非常に強い意欲があり、これまで守りぬいてきたものを砕いてでも実行してもらわねば困るという西条へ向けての意思表示に他ならなかった。
もちろんこれは作戦立案など根本的に戦争に関わるのとは異なる話なので、陛下としても命令権の行使がまだ許されるとご自身でお考えになられる範囲だったとはいえ、西条へ向けた覚悟の表明というのは、暗に陸軍が自身が持つ自浄作用と決断力でもってどうにかせよと促していることを言葉を投げかけられた西条本人も重々承知している。
陛下の言葉を受けて、西条の中でそれまで砂鉄のように形とならなかった意思というのが鋼のように熱されて鍛えられ始めていた。
元々、西条は外交や内政を含めて一連の経緯から自身が国家の首脳となった暁には、政治戦略においては原則として陛下の意向に沿う形でと心に決めていたほどだ。
よって今自身が何をすべきか、その答えは己がよく理解していた。
「陛下のお手を煩わせるわけには参りませぬ!」
「大丈夫ですか?」
「陸軍として……内閣総理大臣の身として私が全ての責任を背負います。この西条英樹、命に代えましても!」
「無理はしないでください。何かあったらすぐに私の下へ」
「はっ!」
「明日また御前会議を開きます。急ぎなさい」
「承知いたしました! ただちに状況を整えますッ!」
「回転翼機は世界にとって必要なものです。希望を絶やしてはなりません」
思いもよらぬ援護だった。
陛下の言葉を聞いて、ようやく西条は今まさに起こっている事態について理解するに至る。
今目の前に姿を現す御方は、そもそも最初からヘリコプターのために一連の行動を重ねていたのだ。
Cs-1の大量生産が必要になったとき、まず最初にソレがヘリコプターに使われているということを最も気にされていたのは他でもない陛下であった。
信濃が交渉を開始しようと行動を示した際にも、報告を受けてすぐさま手を差し伸べている。
彼は戦車や戦闘機のために大量生産を行うに当たっての助力を行ったのではなかった。
最初から、今回のように陸軍が大量の機体を生産して運用することを見越していたのだった。
戦場において従来とは比較にならないほど死傷者を減らせるものを、例え軍であっても求めぬわけがない。
より被害を減らすことが出来れば、それだけ戦闘継続力が上がる。
軍がそう考えることで大量動員することは予測済みであり、それが結果的に自身が求める皇国の民の命を守ることが出来ることへと繋がるので積極姿勢を示していたのである。
一方、それらを支える屋台骨たるパイロットについては、以前から御前会議の場においてしばしば人材確保の問題が取り沙汰されていた。
さらに人材確保のために軍は報道機関を利用して募集を行おうと画策していたため、命を繋ぎ止める次世代の最新鋭航空機について操縦者が大幅に不足していることは、しきりにニュースとなって新聞・雑誌媒体の紙面に記されていた。
当然、一連の媒体や会議などの様子から状況を把握していたので、今回のような提案をずっと待ち望んでいたのである。
西条はあくまで陸軍の他の将官だけに向けて言葉を投げかけ、陛下は会議の終わり際に承諾された一連の提案について同意または否定を行うのみだと考えていたのだが……
あの場、あの瞬間において西条の言葉が一番心に突き刺さったのは他でもない陛下なのであった。
以前、信濃に対して「見る者は見ている」――などと述べた自分が、まさに述べた言葉通りの状況に置かれている事に言いようもない感情に苛まれる。
そんな中で、もう1つ気づいたことがあった。
陸海軍において、現在、唯一無二の特別な立場で入隊した者がいたことを。
11歳の時点で視力は裸眼両目0.5程度。
片目0.4で矯正して1.0。
従来までなら身体検査で不適格の烙印が押される中、唯一正規入隊を許されて少尉として任官の上で19歳までに少佐となり、現在は最高指揮官となっている。
矯正可でも許される予備役扱いとは異なる正規入隊で、かつ現在進行形で軍務にも就く者。
この国において真の意味で唯一の立場であった。
常日頃からこういった特別扱いを嫌う陛下は、以前より視力検査関係について不満をもっていたという噂はあった。
視力に問題があるというだけで大した訓練も受けず予備役扱い。
実際に戦が起きても彼らは本当に危機的状況に陥らない限り呼ばれる事はないのだ。
例えそれが一部に留まるとあっても、正規の隊員として活動に従事できるようになるということは、自身だけが特別許された立場ではないということとなる。
つまり信濃が考案した条件緩和は、御方にとってもまたとない機会だったのだ。
口では多くを語らないが、勅命ではなく大元帥命令というのがそれを物語っている。
皇国の王たる立場ではなく、軍人の最高指揮官としての立場から軍の入隊条件を改める。
それは軍人の立場として自らを特別な扱いとする組織を改めたいという強い意欲と、端から見れば軍自体が見直したとも言えるので外部から圧力を受けたと言い難いことでもある。
軍自体は統帥権を主張していたので王からの意向は受け付けぬというのが従来までのスタンスだったが、それすらも許さず、自らの軍籍における皇国内に存在する最高階級による命令権の行使をすると表明するのは不動の意思の表れ。
だが、西条はそれすらもさせたくなかったのだ。
立憲君主の立場を守り、国民を暖かい眼差しで見守る君主もまた、彼の中での理想の王の姿でもあった。
時には自ら判断されることも必要だが、そうならずに済むべきなのが近代国家というもの。
このような基準変更程度でこれまで築き上げてきた全て崩すような行動は、陛下ご本人以上に西条が認めることができなかった。
ゆえに既に覚悟は決まっていた。
しっかりとした敬礼と共に陛下が去られていく姿を見送った西条は先ほどとは打って変わって燃えたぎった様子で会議場を後にする。
自然と拳に力が入っていた。
◇
翌日。
たった1つの議題のために開かれた臨時の御前会議に昨日と変わらぬ顔ぶれの者達が集う。
その場で西条は開口一番、こう述べるのであった――
「昨日の条件緩和についてだが、この試案のまま導入することに決めた。私の一存だ。異論がある者はこの場にて申せ。聞くだけは聞くが私の意思はすでに決まっていて、一切変わらぬ。これまでの格式を重んじる陸軍でこの度の戦を乗り切れるならば私もそうしよう。だが世界はそれほどに甘くはない!」
それは果たして会議だったのか。
もはや魔女裁判などと違わぬ何かだったとも言えるような状況である。
西条が行ったのは反対者の炙り出しに他ならず、決定に不服を述べる者がいるのかどうか確認するだけだった。
当然にして、異を唱える者などいるはずがない。
すでに昨日の件は各方面で噂になっており、陛下の御意向についてもそれとなく伝わっていた。
むしろ昨日慎重な姿勢を示した者達からすれば「一度でも命令権を行使したという前例を作られると、今後ありとあらゆる機会で行使されかねない」――という、皇国式政治でよくある不安が渦巻いているほどである。
西条は改めて状況を説明。
国内で予備役扱いとなっている50万人以上もの人材と、視力低下により飛行資格を剥奪された6万人にも及ぶ元飛行士達。
彼らだけでも希望的観測ながら最大で56万人のパイロットを確保できうるわけだが、さらに国内には視力が1.0に満たない20代の青年が120万人いることを解説。
彼ら全てに世界各国の味方となって戦う同胞達が所望するヘリコプター搭乗員となってもらえないかと問いかけることが、1000機単位での運用を可能とする唯一の手段であることを力説する。
もはや国内では軍だけでなく民間用途でも見出される新世代の航空機の需要は想像以上に大きいものだと予測した上で、唯一無二の方策に他ならないとした。
これに対し、鉄道省幹部と鉄道大臣である長島らも反応を示す。
「我々も再度検証を重ね、今後2年以内に鉄道省職員身体検査規程の改定を行うことに昨日の段階で決めた。無論、検証を行って問題無しと判断できればであるが、検証を行うにあたり少数ながら矯正の上で視力が1.0となる機関士を臨時募集することを決めた」
――と、信じられないことに条件緩和引き下げに鉄道省も乗ったのである。
もちろんこれは以前より検討してきたからこそ出来たことではあるが、実は鉄道省は鉄道員の不足から条件緩和で人材確保することをこれまでに画策していたのだった。
むしろ真っ先に検討を始めたのは他でもない鉄道省である。
ゆえにヘリコプター要員として大量の人員を軍に囲われると、鉄道員の不足が生じて人材確保がしたくなった時に間に合わなくなるという不安が生じ、陸軍の機運に乗じたのである。
物資と旅客の需要が信濃忠清の知る未来よりも増加している現在、鉄道員の不足、機関車の不足、機関車整備士などの不足は鉄道省内でも問題視され始めていた。
ゆえに遅れをとるわけにはいかなかったのである。
この行動に何よりも驚いたのは沈黙を守る海軍であった。
昨日の今日で情勢が変わっただけではなく、鉄道省まで行動を示すとまでは予測していなかったためだ。
彼らもヘリコプター自体は運用するため、小声でボソボソと「後ほど即座に検討して条件をどうするか決めましょう」――などと、周囲で話を刷り合わせていた。
……その後、15分にも渡る会議の中で異を唱える者は現れず、会議はそのまま終了となる。
終わり際において陛下が述べられた言葉が状況の全てを物語っていた。
「西条くん。とても良き提案だったと思います。陸軍の皆様におかれましては、本日の提言の決定を受けて条件緩和につき早急な実行をよろしくお願いします――」
――この言葉に会議の参加者は皆、西条をここまで動かしたのが誰なのかを完全に理解した。
その前の段階においても会議中、誰しもが気づいていたことがあった。
陛下の視線は西条に釘付けであった。
全ての意思と責任を一身に背負い、例えこの場で暗殺されそうになったとしても動じずとばかりに立ち上がって異論を待つ総理大臣の肩書きを持つ男を、しっかりとした目線でもって見守っていた。
誰かが異論を唱えれば、西条が反論する間に入って軍としては一番述べてほしくないであろう言葉を述べられるのは間違いなかった。
それこそ「そもそもが視力が低い者など信用に値せぬ!」――などと述べれば、会議終了後に殺されかねない。
それは他でもない最高指揮官の否定であるからだ。
昨日慎重姿勢だった者達は、すでに陛下が興味と意欲を示された時点で詰んでいたのである。
陸軍は西条という陛下と皇国に全てを捧げんばかりに行動する男の自浄力によって、その日、これまで築いてきた格式を投げ捨て、現実路線で歩むことになる。
これまで全てにおいて皇国の手本となる者が軍属となり、正規隊員として活動できるとされた陸軍は、その手本とする条件を身体能力から「思想」や「意思」、そして「意識」といったものへと比重を傾けることとなった。
後に何度も緩和されて最終的に最低視力基準が無くなる陸軍の「精神清き者は誰しも受け入れよう」とする新たな伝統の始まりなのであった。
◇
「西条くん」
「うむっ!? い、いかがなされましたか陛下。何か問題など生じておりましたでしょうか……案はそのまま通したはずなのですが……」
臨時の御前会議終了後。
西条は昨日と同じく再び御方によって呼び止められる。
西条はすべきことを成したたため、呼び止められた理由はわからなかった。
立場上陛下はお礼など述べることなどできないはずであり、何かしくじったかと不安に駆られるものの……
やはり次に聞く御言葉は西条の予想とは異なったものであった。
「昨日の提案。あの案を考えられたのは西条くんではなかったそうですね……どの方がそれを?」
「え? あぁ、いつもの男ですよ……私の手助けをしている若者です」
「もしや私が以前にお会いしたことがある彼ですか?」
「ええそうです。信濃忠清です」
「そうですか……やはり彼は……」
「……今後の新鋭ヘリコプターも全てあの者の作です。誰よりも回転翼機について理解するのは現状で彼に他なりません。我々はあくまで運用法を見出す程度が精一杯」
実際は信濃がヘリコプターにどれほどまで入れ込んでいたかについて西条は理解していない。
実は信濃本人は将来的には絶対に必要だが、今の陸軍はそこまで見出してくれるものでもないし、ゆっくりと着実に開発しようと考えていた。
促されたがゆえにシコルスキーと手を組んでまで完全国産化を諦めての量産と開発計画だったのである。
今必要かと問われればウンと頷くのは間違いないが、あくまで陸軍の意思に任せて別途開発だけ行おうとしていたのであり、より多くの人間の命をつなぎとめる航空機の重要性は理解していたが、軍が見出さなければ意味が無いとドライな感情で対応していたのである。
熱意でもって働きかけてもどうにもならないことを歴史から学んでいる信濃は、より戦没者が少ない方がいいと理想を掲げつつも、現実とも向き合って対処していたのだ。
だが、西条はそれら全てをそれとなく予想しつつ、信濃を持ち上げた。
彼にとっては陛下の思想と感情の片鱗が垣間見えた体験というのは、立場上は部下とはいえ感謝の念が生じるほどのものだったのだ。
「恐らくは、本当であればこの国に存在しなかったかもしれない航空機なのでしょう。なるほど……西条くん。今の話で決めました。例の航空会社の社長との会談と工場見学の話について、外務省に問い合わせて準備をするよう伝えてください。ビル社長に是非お会いしたいと思いますと」
「えっ!? よ、よろしいのですか!?」
「外板の接合方法が我が国には必要なのでしょう?」
「確かにそうではありますが……」
「ヘリコプターにも活かされるのならば、絶対に必要なものです。……西条くん、これは私の意思です。別に誰かに促されたわけではありません。必死で挑んでもどうにもならない技術を得たいと思う国民がいるならば、技術を持つ者との仲を取り持つのも君主の定め。それが我が国にとって最上級の技術者ですら自らでは生み出せぬ技術というならば尚のことです」
「畏まりました。すぐに手配いたします」
「私も楽しみになってきましたよ。彼でも知らぬ技術とは一体どういうものなのか……では西条くん、後のことは任せます」
去り際において陛下が笑顔を見せる姿に西条はしばしの間、立ち尽くすしかなかった。
その後、正気を取り戻した西条は見る者は見ているという自身の言葉が、再び信濃へと向かうことについて回想する。
――信濃、理想を目指して現実を生きるとはこういうことか。お前の理想への歩みは再び陛下の心を動かしたぞ。絶対にこの機会を逃すなよ。そんなのこの私が許さん――
かくして、信濃の知らぬ所で状況は動いた。
彼が目指す「現代戦」が出来る軍組織へと、また一歩近づいたのであった。
午前に開かれた臨時の御前会議の後、午後には条件緩和について臨時のニュースとして全国に一斉に放送された。
各地では号外がばら撒かれ、参謀本部がラジオ内で述べた「集え! 皇国の新たなる飛行士候補達!」――という言葉は、これまで埋もれていた多くの皇国の青年の心に響き渡る。
視力が弱いというだけで昨日まで出稼ぎ労働や日雇い労働を強いられていたような者には、無二の機会が与えられ……
翌日には陸軍各地の施設に入隊を希望する者達が大量に詰め掛けて大混乱に陥るほどであった。
また、同日には飛行士だけでなく衛生兵候補の医療従事者の緩和も発表されていたが、医者の卵ながら診療所に勤めることが出来なかったような者なども多くが集まることとなり……
ほどなくして海軍も条件緩和せざるを得なくなったのである。