第163話:航空技術者は機械の奏でる音色に魅了される(後編)
「なんだこれは……これがハ44ですか?」
「そうです」
「1ヶ月前にあのガタガタと揺れて、やかましい音を立てていた?」
「間違いありません」
「やったのはインマニやシリンダーポート周辺の改修のみですか?」
「大きく弄ってはいません。技官に助けを求めた時点で、現時点にてやれることはやっていたつもりです」
それはおよそ俺が知る皇国の星型エンジンの音ではなかった。
皇国のエンジンといえば低回転ではパラパラパラと音をたて、高回転ではやや不規則なバババッというようなエキゾースト音を奏でる。
だが目の前に現れたハ44は違った。
低回転ではボボッボロロッ――と星型エンジンらしい不規則なタイミングではあるが、これまで聞いたことが無いほど低い音階の排気音となっている。
作動音自体も極めて小さい
まるで新型エンジンだ。
1からすべてを作り直したがごとく音が違う。
そこから回転数を上げるに従い、音の均衡が保たれてゆく。
それはまるで超高性能な超大排気量の"V8エンジン"がごとく。
高回転側のヴォオアアアオゥという音は完全に数十年先の未来を行くV8エンジン搭載のトレーラー牽引用トラクタ車両のごときサウンドである。
NUPのマッスルカーのソレと言ってもいいかもしれない。
V8ピックアップトラックで似たような音を奏でるようなものがある。
回転数を落とした際のヒュォウゥゥという排気タービンと混ざり合った音はおよそ常識的な航空機用星型エンジンのソレではない。
回転を上げる時にニュアァァーというタービンやギアが高回転で噛み合う音が聴こえるのも、これまでにない体験だった。
星型エンジンってのはこんなブオロロロロっていうような、思わず回転数を無駄に上げ下げしたくなるような男心を撫で回す排気音だったか?
長島の発動機部門の技師達も明らかにその音に魅了されて回転数を高頻度で変化させているぞ。
きっと脳内物質が大量に分泌されて感覚が麻痺してるんだ。
通常ならばエンジンが壊れかねないからそんな事はやらない。
しかし、このハ44はまるでそんな様子はないようだった。
さもそれが当たり前のごとく出力制御に対応して音階を整えている。
恐るべきはその振動の無さ。
高回転に至るまでエンジンを固定する台座がまるで振動しない。
一体どれほどまでに高精度にエンジンを組んだのかと錯覚するほど振動が少ない。
そしてその反応の良さ。
回転を上げ下げしてもまるで不完全燃焼を起こさず、妙な音が混ざらない。
軽やかに回転を上げ、そして一気に吹け上がった後にかなりの勢いでもって回転数を下げるというのを何度繰り返しても、この時代では珍しくないノッキング音が聞こえてこない。
何よりも不気味なのはタペット打音などのメカノイズが全くしないのだ。
おいおい、いつから皇国はECU開発に成功して電子制御式インジェクションの開発に成功したんだ?
まさか正しい形で崩壊しないタンブル流を作っただけでこうも化けるものなのか。
内部ではきっと流体力学的に正しい大気の渦が出来上がっているに違いない。
そこから一切の無駄のない均一な爆発がもたらす統制のとれた高圧かつ高熱ガスによる気流の流れ。
それがそのままタービンを回し、二本設けられたエキゾーストパイプから出てくる。
その音がここまで官能的な音になろうとは……だれが想像できよう。
……思い出した。
そういえば電子制御式インジェクション化した40年後のレース機に搭載されたR3350がこれに近い音だったな。
あれもタンブル流が生まれるようにエンジンブロック内であれこれ構造部位を設けていたはずだ。
こっちはそれ無しでこの音だが、恐らく電子制御と同等レベルに至るほど爆発が均一だから似たような音になるんだ。
もともと電子制御している理由は、より制御された均一な爆発をシリンダー内で実現するため。
電子制御されてなくとも均一な爆発が起きれば、当然にして似たような状態にはなる。
完全に同一なわけではないだろうことは間違いないが……
「本当はもっと試験してからこちらに持ち寄るべきではあるのですが……ちょっと動かしただけでこの様子ですからね。これなら問題ないと踏んで社内における試験項目が残っている状態で持ち込んでしまいました」
「いやはやなんというか……素直に感動しましたよ。どこか懐かしさを感じる音だ」
「こんなの初めての体験です。でもそれだけじゃありません。なんてったって今、このエンジンは86オクタン燃料で動いているんです」
「はい? 今なんと?」
「ですから、86オクタンの航空用ガソリンで動いてるんですって。それで2280ほど出してます。ウチはいつも低オクタン燃料での動作状況を見つつオクタン価を上げていって試験するのですが……一切問題無く稼動したのはこれが初めてです。おまけに馬力換算で最大2200馬力を超えた数値を出したときた。確実に96オクタンで2400出ます。まだ試してはいませんがオクタン価による出力低下具合から見て間違いありません」
若い技師が再びこちらに話しかける間……それ以上、何か言葉を述べることが出来なかった。
PEAとモリブデンの組み合わせでカーボンやスラッジが蓄積しにくい状況にはなっている。
だが、だとしても86オクタンでこんなにまともに動く航空機用エンジンなんてあるわけがない。
そう思っていた。
ましてやこいつは86オクタンでは安定稼動が厳しいといわれる1000馬力超級を大きく凌駕する2000馬力級。
そのパワーは粗悪な燃料で生み出さんとすれば容易にエンジンを破壊するノッキングなどを生じかねないはずなのに……
出来たのか。
可能だったのか。
2000馬力を、あの絶望的状況下で搾り出す事は不可能ではなかったというのか。
あの時の俺に教えてやりたい。
やり直して2400馬力という数字に悪魔に取り憑かれたのかと周囲に心配されるほど拘る理由を生んだあの頃の自分に。
それが可能なら、あの時代の2603年に戻りたい。
そして自分に伝えたい。
開発中のハ44に今回俺が施した機構を設け、四式戦に載せて飛ばせと。
俺が他の技研の者達からどうしてそこまでと言われるほど2400馬力に拘った理由……
それはキ87の事実上の失敗とほぼ同時期の……俺が大戦中に最後に関わった戦闘機が深く関係している。
キ87では間に合わぬと最後の起死回生を狙った新型機開発にて、主要開発メンバーの一人だった俺は、ハ44の2400馬力化を長島の技術者達と挑み、そしてそれを搭載する戦闘機の開発を行っていた。
キ87は胴体構造に無茶な機構などを多数投入したがゆえに失敗。
ならば既存の機体を流用して開発期間を短縮し、その上で最大限の効果を発揮するものを作れと、そう命じられたのだ。
それこそがキ117。
忘れもしない、完成することが出来れば本当に最後に一矢報いたかもしれない機体だった。
だが結局、あの時の質の悪い燃料では2400馬力なんて土台不可能であり、そもそも2000馬力を超えることすら無理といわれていた。
最終的にその開発にも失敗した俺は、その現実を突きつけられた。
仮称三式重戦闘機などと呼ばれたこの新型機は、まさにあの時のやり直しなんだ。
無茶な構造の導入を最小限に長島らしい外観をある程度留めた2400馬力のエンジンを搭載した機体とする。
それこそがあの時達成できなかった未練への終止符となると思っただけでなく、大戦中間違いなく最高峰のレシプロ戦闘機になると思ったから。
だがまさか、排気タービンとの組み合わせとはいえハ44がちょっとした構造を投入することで86オクタンガソリンでも2000馬力超えてまともに動くなんて……
知りたくなかった事実だ。
いや、知りたかった事実なのだろうか。
何か空しさと悔しさで心が締め付けられるようだ。
……だが、もうあの頃には戻れない。
いくら後悔したって意味は無い。
今の時代の者達に何が出来るかが今は重要なんだ。
別の世界線だったとしてもこの時代に戻ってきた以上、やるべきことがある。
後ろを向いてる場合じゃない。
「技官……どうかされました?」
「いえ……なんでもないです。ハ44に少しばかり驚かされすぎてつい白昼夢のようなものを見てしまった」
「そうですか……ところで技官。ハ43に新型タービン機構を投入して仮設した試製キ63の試験飛行……来週でしたよね」
「ええ」
「……もう間に合いませんか?」
「機体は4機仕上がってます。うち1機にはそちらの作ったマーリンを載せて飛ばす予定です。スピットファイアMk.Ⅶに載せる前の最終試験を目的に2機がマーリン仕様で、もう1機のマーリンは山崎製のもの……後の2機はどちらもハ43です。出来れば不完全なエンジンとの比較検討をしたいので……1機分の余裕はありますよ。試験飛行とはいえ、まともに飛ばせる段階まで仕上げられますか?」
「間に合わせます。遅れを取り戻すことで名誉を挽回させてください」
「いいでしょう。1機からエンジンを取り外した状態で待ってます。4日以内にすべてをクリアしてまたここまで持ってきてください。現状で完全と言い切れるほどのデータは揃っていないのでしょう?」
「ええ。機会をくださってありがとうございます」
「期待してますよ」
「任せて下さい!」
あれほどまでに渇望したレシプロエンジンが手に入る。
見てろよ第三帝国。そしてタンク博士。
Fw190をどの領域まで仕上げたって上回ってやるからな。
キ117の生まれ変わりたるキ63の完成度は伊達じゃないぞ。