第151話:航空技術者は制止する(後編)
時は2614年。
長野のとある山奥にて採取された土壌細菌に研究者達は興奮を隠せなかった。
ついに求めていたモノが現れたのだ。
しかしその菌類は、すでに発見されたストレプトマイシンとは同じ属のグループの菌類であることは間違いなかったものの……
一目見ただけで違うとわかる見た目の違いがあった。
その肉眼ですら確認できる金色の輝きに、多くの研究員は涙を禁じえなかったといわれる。
細菌学において菌類が色調を持つことは知られている。
ペニシリンの発見に由来する青カビは、それそのものが青い色調を持つから青カビなのだ。
一方、菌類の多くは保有する色調が決まっており、ある特定の色を持つのは極めて珍しいとされていて、探しても中々発見されない色調というものが存在した。
中でも金色の色調を持つのは、細菌学においては"幻"と称される色調だった。
後にストレプト・カナマイシンと呼ばれる細菌の名の由来。
それは、その菌が金色の色調を持つことに由来される。
研究者がカナマイシンとしたのは、キンマイシンでは語感がよろしくなく、ゴールドマイシンでは西側諸国のようでイメージが悪く皇国らしくない。
だから金と書いてカナと読ませ、カナマイシンとしたのである。
仮にこの世界に本当に創造主がいて、梅澤博士らの回答に対して褒賞を本当に与えたのだとしたら、彼らの答えは百点満点だったという事なのだろう。
そう言わんばかりの、極めて美しい神々しさすら感じる金色であったのだった。
そしてそのストレプト・カナマイシンは、当初より彼らが待ち望んだ結核菌への対抗性を有していたのだ。
すぐさま彼らは菌の培養を行い始める。
見つかった菌の菌株は10万以上。
しかし全ての菌株において求めた抗生物質が取り出せるわけではない。
そもそも菌株というのは、それぞれ全く異なった個性を有しているものだ。
彼らは生物。
ゆえに培養時の増殖が早い者や遅い者、より多くの抗生物質を産む者やそうでない者。
そしてそもそも、同じ菌でも生み出す抗生物質の特性自体が異なってすらいる。
生化学系の研究者というのは、これらの菌株から必要となる目的の抗生物質を生成する菌を発見することが主な研究で、くわえてより優秀な個体も見いだすのも極めて重要な業務であった。
彼らは一連の菌類を日々培養する傍ら、水溶性の特性を持つ抗生物質を生成する菌を探し回る作業に追われる。
培養された菌を試しては失敗の繰り返しが続くが、彼らのモチベーションが尽きる事は無かった。
待ち望んだ存在がついに手に入り、後一歩で平均寿命50歳と言われ、戦国の世から全く寿命が延びないかつて皇国の民であった者達を救える。
それがわかっているだけでも力が漲ってきたのだという。
培養液を作っては効力の確認の繰り返し。
1日およそ10以上の菌株を試しては肩を落とすような思いを繰り返して、その時を待った。
実はこの時、研究者らが効力を確かめていたのは結核菌ではなかったりする。
ストレプトマイシンによる報告、そしてペニシリン等の身近にあったが結核菌に対して多少なりとも効力は発揮するものの有効打とはならない抗生物質達。
梅澤博士らは結核菌が極めて増殖が遅く、培養に向かず、かつその効果を確認し辛いものであることを知っていた。
そこらの細菌なら培養から効力の確認まで数日以内で済むところ、結核菌は培養に2週間、効果の確認まで1週間以上かかる。
そんな時間はもはや残されていない。
今すぐ救いたい命が目の前にある。
だから彼らは、手に入らない中でもすぐさま求めた存在が見つかるよう、すばやく研究する手法も確立していた。
これは世界の他国では試みていなかった事であるが……彼らは抗酸菌と呼ばれる菌類の多くに対して効果を発揮する抗生物質は、結核菌においても有効となりうることを知っていた。
その中でも特に結核菌と同様の弱点を持つバクテリアを知っており、それはかつて皇国と呼ばれた地においても入手できたため、わずか1日で培養し、3日以内に結論が出せる研究環境をそのバクテリアでもって整えていたのである。
そのおかげで、世界のどの国よりも"答え"を素早く見つけることが出来たのだ。
翌年の2615年4月。
ついにその中の1つの菌株が、求めていた水溶性の抗生物質を作り出すことを発見する。
それこそが後にカナマイシンと呼ばれる抗生物質もといストレプト・カナマイシンと名づけられる菌株である。
彼らはすぐさま抗生物質の分離と抗生物質たる結晶体の精製へと挑み……そしてなんと夏の終わりごろ、8月下旬のある日。
ついに結晶体の精製に成功する。
初めてそれを目にした科学者はこう言った。
――"金色の細菌から得た抗生物質は、虹色に輝いていた"――
世にも珍しい幻ともいえる色調を持つストレプト・カナマイシン。
そのカナマイシンが精製したる抗生物質の結晶体が持つ色調は……
これまた世にも珍しい虹色を放つ、極めて珍しいものであった。
生化学界において一連の菌類と抗生物質の双方が「世界一美しい」といわれる所以はこのため。
そしてその世界一美しい抗生物質は、望んだ結果をもたらした。
ストレプトマイシンでは二週間もすれば投与した犬やねずみが忽ち死んでしまうところ、結核に感染させた動物達は見事に完治していく。
実は抗生物質。
菌の状態では効果を示しても、いざ哺乳類に投与してみると効果を発揮しないことなど当たり前であった。
また、特定の生物には効果があっても人間には効果がないということも珍しくはなく、人のために作った薬が実はネズミ専用の特効薬だったというような事すらままあった。
理由は不明だが、体内にて循環しないのか血液中から体内組織の細胞に浸透しないのか……
すでにカナマイシンが発見された時点においても、別の抗生物質にてそのような事例はいくつも見つかっており、この藁をも掴むような賽の河原と変わらぬ繰り返しの作業に研究者達は苦しめられ続けていた。
ゆえに世界一美しいとされる抗生物質もまた、投与するその時まで不安が生じていたのだ。
だが世界一美しい抗生物質は、その不安を払拭するがごとく投与された人間にも非常に高い効果を示す。
なんといっても副作用が弱く、それでいて……この菌は従来のストレプトマイシンでは治療不可能といわれた耐性菌にも効力が高いことが判明するのであった。
梅澤博士ら、全ての研究員の苦労が報われる瞬間である。
その日を境に……かつて皇国だった地の人々を恐怖に陥れるのは結核ではなくなったのだ。
後にこの菌株は秘密裏に西側諸国に強奪され……
「――ストレプト・カナマイシン、そしてカナマイシンとして世界保健機関が各国で常備を義務付けるリストに入れられる存在となります」
「奪われたのか!? 西側の連中とやらに!?」
「そりゃそうですよ。皇国は発見からわずか2年で理想の結核治療薬を手に入れたんです。菌株の発見から治療薬としての認証まで2年たらずの2616年。その年においてヤクチア全域で承認されて培養が行われます。その一連の研究報告がヤクチア本国へ至ったら、ヤクチア本国にいたスパイがその件について自身の本国へ報告を上げないわけがない。手段を一切選ばずに強奪していって……敬意を称して名前だけ正式名称としつつ、その存在は人類の未来のためと称して一切の還元もなく国外の製薬会社にて大量生産されて西側においても当時世界最高の結核治療薬として名を馳せたんです」
……いったいどれほど人類が求めていたのか。
それはヤクチアで認証を受けた1年後の2617年には全世界にて承認までがされているほどなのだから、どれだけ渇望されていた存在なのかがわかる。
まあ臨床試験にてストレプトマイシンによって耐性菌となってしまい、治療不可とされた者達への治療が可能であることがわかり、副作用によって治療そのものが死因となりうる重症化していた者すらも治療を施すことが可能だったのだから……求められて当然と言えば当然ではあったとはいえ……
彼らは口々に「人類に貢献する存在を独占するな」――などと言うが、一体どの口が言ってるんだ?
お前らはストレプトマイシンを分けなかった癖に、奪うだけ奪って何の還元もしなかったのだぞ。
カナマイシンは当時金より価値があるといわれた。
実際、グラム単位で見れば一時はその収益が同量の砂金を上回っていたほどだ。
その収益のうち数%でもいいからパテント料として徴収できたら、未来にまで続く大規模な研究施設を設けることができたと言われる。
そうでなくとも一躍世界に名を刻む富豪になれたと言われるほどの発見だった。
梅澤博士らは生化学者の多くの者らと同じく優れた人格者であったので、手に入るというなら間違いなく前者を所望したことであろうが……
だとしても得るはずだった利益を得ることができなかったのだ。
それだけの収益を世界で共有したが、発見者達に対しては労いの言葉1つ無かった。
そんな奪った者達の一人であるNUPが梅澤博士らにしたことといえば……
カナマイシンが突然変異で突如生じた細菌である可能性が高いという研究結果を分析した上で、東側諸国でも見られるよう世界に向けて公開したぐらいだ。
つまりこれまで全く見つからなかったのは、その時点ではカナマイシンは存在しなかったからだという。
俺が危惧しているのはこれだ。
そもそも生化学というのは、俺が学んできた流体力学等の物理学とは全くベクトルが異なる界隈。
生化学とは常に運と時勢が左右する。
その時、その瞬間、その場所という条件が大いに影響する。
物理学で言えば、ある日突然、この世から物理学的法則が消えたり逆に新たに誕生したりするというような状況が平気で発生する。
なぜなら、病気を起こす細菌達がその地域ごとに型が異なっていてワクチン精製を地域ごととしなければならないように、菌類はその環境に適応して形を変えていくからだ。
つまり2614年前後の長野のとある土壌に、ストレプト・カナマイシンが誕生するキッカケがあった可能性がある。
闇雲に探した場合、その誕生するキッカケを消失しかねない。
「……その話は聞いた。忘れたわけではない。ようはニュージャージー州の件からしても、夫婦のいた養鶏場付近において現在において存在しないかもしれないというのだろう?」
「変に探して機会を奪えば……見つからなくなってしまう。パラドックスを起こしてはいけないものなんです」
「例えそれが正しい行いだとしてもか? 前にも述べたはずだが、これから命の灯火が潰える最低約50万人の命を生贄に待てと……理解はしたが納得が出来るものではないんだぞ。ましてやそれを知らぬ者達に対してどう説得しろと……」
額に手を当てながら頭痛を抑えるかのように語りかける姿は、心を蝕む苦痛と戦っているということなのだろう。
善行を阻止するのは容易ではない。
そんなのはわかっている。
だが――
「方法はあります。優先順位を整えるんです」
「どういうことだ?」
「つまり――」
――まずは本来の未来と同じく、かなりの予算をかけてペニシリン委員会を立ち上げる。
その上で本来の未来と同じく、国内を中心に土壌細菌の採取を開始する。
これは本来の未来においても行ったこと。
この採取そのものがカナマイシンの発見を阻害したとは考えづらく、むしろ誕生させるキッカケを生じさせた可能性もある。
よって一連の流れは変えない。
ただし、ここにおいて勅命をかけたり、陛下が土壌サンプルの採取と提供を国民に奨励したりなどしてはいけない。
一般市民が立ち上がった結果、カナマイシンの現れる予定の土壌が荒らされ、カナマイシンが存在しなくなってしまったならば……全てが破綻する。
絶対にあってはならないことだ。
カナマイシンのもたらす影響は尋常ではない。
NUPを筆頭とした世界の製薬会社はカナマイシンによって再び息を吹き返す。
研究を再び立ち上げる安定的な収益をもたらすからだ。
なんたってカナマイシンは動物実験でも動物が死ななかったように……ペットとしての動物達を救うことすら出来る治療薬でもあったのだ。
特に重用されたのが家畜類。
カナマイシンがもっぱら使われている対象といえば、実は人間よりも豚や牛、鶏の方が圧倒的に多い。
カナマイシンを筆頭に同様の影響度の少ない抗生物質を投与することにより……食肉用として肥育される家畜類の歩留まりが一気に高まって効率的な生産が行えるようになる。
これらは体内に全く蓄積される事なく、さらに仮に蓄積されたとしても食肉として人間が摂取した際に人間の尿から体内に排出されてしまうために人体に及ぼす影響が低いからとされる。
鶏によって始まった一連の流れは最終的に形はどうあれ鶏に還元されるのだ。
世界においては多くの愛玩用の鶏も飼われているわけだから、彼らにとっては朗報も朗報に違いない。
それだけではない。
病を患ったらすぐ死んでしまう犬や猫といった愛玩動物として飼われる動物達にも希望の光を照らし、彼らの寿命を大いに引き伸ばすこととなる。
そして、発見者たる梅澤博士らは、かねての研究により予見されていた一部の分子組成を組み替えて耐性菌にも効果を生じさせる誘導体の精製を試みてこれにも世界に先駆けて成功し、その手法を確立することになるわけだが……
この誘導体による耐性菌への治療法の確立は、化学療法という存在そのものを成立させ、投薬治療という手法が完全にこの世において"オカルトでもなんでもない"存在へと昇華するきっかけとなった。
それまでは「一応は効果が認められる」――程度でしかなかった投薬治療。
明確に「効果があり、現代医療である」――とする機運を生んだのは、他でもない梅澤博士らの努力によってなのだ。
なんたって彼らは誘導体の研究の傍ら、偶然にもとてつもない発見をしてしまうのだ。
抗癌剤である。
抗生物質が体内に蓄積し、体内において思いもよらぬ効果を生じさせることは認知されていた。
しかしその副作用の強い物質の中に、抗癌作用のあるものを発見するに至るのだ。
癌は従来まで結核と並んで治療不可能と言われた二大巨頭。
その2つを投薬治療で攻略できうる。
その情報は瞬く間に世界にて拡散され、人類はありとあらゆる恐怖に対して無力であった状況を脱する力を得ることになる。
平均寿命を80歳台へと引き上げると共に。
その大いなる原動力そのものであったのが、梅澤博士ら、かつて皇国陸軍によって組織されたペニシリン委員会に所属した者達であったのだ。
彼らは2620年代の薬学界を牽引するリーダーとも称されるほどであったが、東側がゆえに生前にノーベル賞を受賞する事は叶わなかった。
一時期雪解けが生じた際に東側諸国の者も候補者として選定されるようになった際には毎年のように期待されたが……
雪解けが解消されて再び緊張状態になり、そのまま受賞することなくこの世を去ってしまう。
だが、ペニシリンの量産、そして結核の有効な治療法と治療薬の発見。
全てにおいて強烈なリーダーシップを発揮したのは、板垣少佐と梅澤博士らに他ならない。
俺は、彼ら以外に権限を与えたくない。
間違いなく、この偉業以外になんと呼べばいいのかわからぬ一連の活動及び積み重ねは、彼らだからこそ成し遂げられたものなのだと言い切れる。
彼ら以外の本来の未来において全く関与しなかった者が活動するというのは、可能な限り抑制したい。
彼らは耐性菌の生じる法則性から結核の治療法についても真剣に挑んで確立するに至っている。
特に結核菌が怖いのは2つ。
1つは直ったと患者が思い込んで治療を中断し、その間に結核菌が耐性を得て再び増殖。
再発して治療不能となるケース。
そしてもう1つは耐性菌を持つ者から感染し、耐性菌の結核を発症してしまうこと。
治療の上では、いかに治療を中断させないか、いかに耐性菌を生じさせず、他者に感染させないかが重要となる。
治療施設の構造や分離方法なども極めて重要なのだ。
こと治療に関しては副作用も伴い、最初の2ヶ月は地獄。
その2ヶ月を過ぎると急激に症状は緩和されるが、治ったと思い込む患者が多く出てくる。
結核治療は最低6ヶ月、最長1年。
完治まで極めて時間がかかる。
例えばストレプトマイシンを用いた治療においては、一時的に極めて症状が軽くなる者が多い。
しかしそれは例えば肺結核なら肺の中で耐性を持たない菌が淘汰され、耐性を持つ菌がわずかながらに生き残る状態にあり……
希望を描きながら日常生活に復帰し、2年も過ぎた頃に耐性菌が再び増殖しはじめて症状が再発。
今度は治療不可能で患者を絶望の淵に追い込むというようなことが多発した。
それこそ絶望して自殺する者が後を絶たないほどだ。
難聴になり、慢性的な肝不全に陥り、さらに治療不可能なんて宣告されたら俺だってそうするかもしれない。
俺が今でも不安が少ないのは、BCG接種を受けたからだ。
それだって完璧じゃない。
発症するリスクは常にある。
ゆえに結核治療においては、すでにBCG接種を受けた者などが付き添って治療を監視し続けることが有効とされている。
治ったと思い込ませない、正しい知識を治療者も付添い人も持って最大1年付き合い続けること。
そしてストレプトマイシンしかない頃においては、残念ながら耐性菌となってしまい治療しても完治しない場合は諦める他ない。
一応、カナマイシンが出る頃までに3種類~4種類ほどの抗生物質も見つかるのだが……それらを併用しても重傷者が完治する事はほとんどなかった。
カナマイシンが強奪されてまで用いられたのは、あの時点で唯一重症者すら完治可能な恐るべき効能があったからだ。
耐性菌にも効果がある抗生物質は存在する。
その情報は後の研究者が再び奮起し、一度は諦めた製薬会社が自らを改めて再び出資する流れを生じさせた。
それだけの偉大な発見と、その後の彼らの活躍を考えるに、梅澤博士と板垣少佐を中心としたチームは絶対である。
その上でやるべきは、NUPへ梅澤博士らを頻繁に向かわせて、ペニシリン並びにストレプトマイシンを中心に研究を加速させる国外の菌株達を入手すること。
菌株には効力を確認するために有効な結核菌を含めたさまざまな菌類も含む。
中でも結核菌はBCG接種のために必要な弱毒性のものも含めて入手できるようにしたい。
皇国が現時点で保有する菌株は将来を考えると非常に優秀なのだが、治療薬の研究のためには多くの臨床データが必要となるのだ。
BCG接種用としてではなく、感染と発症のメカニズム解明のためにNUPが持つ菌株を手に入れる必要性がある。
あそこには607種類以上の型の菌株があり、戦後において西側諸国を中心に治療薬開発時において有効活用された。
今の環境ならそれらを入手できるので最優先で手に入れてくるべきだ。
その上でBCG接種の全額公費負担による全国民の接種を義務化する。
そちらは皇国の菌株を用いてである。
わずか2週間の消費期限しかない生ワクチン……これをかなりの負担となるが国が背負ってやるしかない。
そしてNUPから入手してくる菌株について特に重要なのがペニシリンだ。というのも、国内のペニシリンは菌株としては下も下であり、能力はきわめて低かった。
当初は培養状況などから"同じ種別の別の菌ではないのか"――なんて言われるほどだ。
後にその菌株に対して皇国独自の名前がつけられたのも、諸外国の報告と異なる性格であったからである。
実際には同じものなのだが、大量生産できなかった最大の原因は製造方法以上に見つかったペニシリンの菌株が極めて優れていなかった事にある。
生化学において常にジレンマとして悩まされる個体差が生じていたのだ。
皇国内におけるペニシリンは、存在こそするが残念ながら増殖能力も抗生物質精製能力も大したことがないのだ。
ペニシリンはNUPが保有する菌株が最も高性能で、後の世において流通する菌株はNUPのもの。
これを早々に入手して皇国にて培養する。
培養方法も正しい手法を早い段階で確立させる。
無論、乳製品を取り扱う企業の協力の下にである。
そのための技術指導をNUPから受けてくる。
そしてストレプトマイシンが発見されたら即座に皇国でも生産開始できる環境を整える。
間違いなく彼らは予算を要求してくるが、一連の予算要求には当然にして従う。
きっと梅澤博士達なら一連の活動を通して、必ず答えに辿り着く。
本来の未来においては自力でその領域にまで辿り着いた。
ゆえに他者の補助があれば、もっと早い段階で気づく。
その上で探して……
「……後は天運に任せるだけです。重要なのは結核治療薬もそうですが、ペニシリンそのものではないですか。2つを追えるほどの余裕はさすがの彼らにはありません。だからデタラメに長野県の土壌が荒らされてしまう可能性は避けることが出来る」
「場所がわかるなら、何らかの方法でその場所を避けるよう施せば良いのでは?」
「残念ながら、こういったものの入手先は極めて秘匿性が高いものとして扱われ、私はその詳細を知りません。知っていたら誰か悪意のある第三者がその土地を破壊し尽くして二度と採取できないようにするかもしれないじゃあないですか」
「なんだと……言っていることは理解できるが……しかし、それでは本当に神のみぞ知る世界だというのか」
そう……本当に運だけなのだ。
例えば未来の世界の各地には、一見すると全くもって理解不能な場所に国有地が存在する。
歴史的な意味合いも全くない、何の変哲もない、どこにでもありふれているような土地。
それらの土地の正体の1つがこの手の菌類の眠る土壌だったりするのだ。
全く手をつけておらず、草も何もかも生い茂ったまま管理することすら放置された国有地。
それは別に管理する気がないわけではない。
管理したくとも出来ないのだ。
環境を変えることすら恐れるほどに環境変化に繊細に反応する菌類の眠る土地なだけなのだ。
民主主義国家においてはよく不要な国有地を売却するようマスコミ等によって世論誘導されてデモなどが行使されたりするが……
例えばそれまで野党政権であった所が政権奪取して与党に返り咲いていざ売ろうとしたら、前述する理由により売ることができず結局は国有地売却による予算拡充等が不可能であったなんてことがザラにある。
マニュフェストに書いておきながら出来ないなどといった裏には、そういう事情が存在しているわけだ。
その国有地がどういうものなのかというのは、政府の一部の者達にしか伝えられない。
情報を多くの者に共有させないことで、その秘匿性を高め、より影響が及ばぬよう調整しているのだ。
そうやって守られているがゆえに、俺のような専門家ですらない者はどこにあるのかなんて知るわけがない。
俺が知っているのは、陛下のお住まいである皇居内にも新種の抗生物質があり、赤く染められたからこそ土壌採取は可能ではあったが、この抗生物質は今後を考えると日の目を見ることは無いだろう――という事ぐらい。
「――神域ともいうべき神聖な領域にまで貴重な存在があるというのか……」
「時に研究者は許可を得ずに採取することだってあります。彼らは歴史的価値や文化的価値よりも、人類の存続と繁栄の方が重要だと考えていますので」
「陛下は薬学にも理解を示されている方だ。きっと発見が続けば、自身の住まう土地の中にも眠っているのではないかと考えるやもしれんが……」
「陛下が認めても、周囲が認めるとは思えませんし、敷居は高いでしょうね。……流体力学などの力学系は、その発見を先取りしても人類全体に与える影響はそう大きくないと思われます。それこそ人類の存続を左右するほどの影響は……核兵器を除けば希薄です。ですが、抗生物質に関しては……」
「その病に対抗できるものがその刹那にしか手に入らぬというならば、我々人間そのものの命運を左右しかねない……ということだな」
ペニシリンがあればどうにかなるとか、抗生物質があればどうにかなるといったことはよくSFやファンタジー小説にて、各地の異世界に理系の人間が転移したりした設定などで見られる。
それらはその世界においてペニシリン等があれば問題ないだろう。
だが、現実世界において過去に戻った場合、発見を早めることすら危険なのが生化学というものなのだ。
俺がやり直す直前には、希望である抗生物質の新発見よりも、既存の抗生物質で治療できない耐性菌の発見が頻発する絶望的な状況が発生していた。
このままいくと人類を苦しめる病原菌はその殆どが抗生物質の効果の無い耐性菌だらけになる。
抗生物質というものを入手して得たのは猶予期間でしかなく、抗生物質とは有限の存在。
そんなことがにわかに語られ始めていた。
無論、人類が得た猶予期間の間において何もしなかったわけじゃない。
2640年代を境にして加速した遺伝子研究により、病原菌の弱点をより明確にする手法が確立されていき、抗生物質に頼らないこれまでに無い全く新しい薬の研究が始まっていった。
例えば従来は抗生物質にて病原菌そのものを殺してしまうことを目的としていたが、そうではなく病原菌に感染した細胞を白血球が攻撃出来るよう制御するような薬など、免疫疾患の法則性からあえてそれを擬似的に限定的な状況にて発生させるようにして、病原菌を退治するような次世代の薬などが開発され始めていた。
抗癌剤にすらそういうものが作られ始めた頃だ。
そればかりか一度人体から細胞を取り出して、取り出した細胞を変異させて人体に戻し、その変異させた細胞に菌類を無効化させつつ飲み込むよう遺伝子操作するような技法も研究がされていた。
遺伝子治療というものだ。
臨床試験までに後10年かかるというが、2680年代には実用化している可能性がある。
人類は決して与えられた猶予は無駄にしていない。
だが、早くに発見するとはその猶予を早期に使い果たす可能性があり、かつ未来を潰してしまう可能性がある。
そういった事はさせられない。
多少なりともその知識があるからこそ、出来ないんだ。
「……わかった。とりあえずどこの誰が動いているのか調査させよう。その上で適正な状況となるよう補正する。梅澤博士と板垣少佐に全てを賭けると……それでいいのだな?」
「首相が私に賭けてくださったのと同じです。特に梅澤博士はノーベル賞級の人物です。赤く染まらない皇国ならば、ともすれば……」
「心の中で期待はしておこう」
「ストレプトマイシンは軽症の者ならば十分治療可能です。50万人は救えぬかもしれませんが、現在の状況ならば10万人ほどは助けられうる」
「そうか……その言葉を信じる他ないな」
誰だって犠牲を強いたくは無い。
俺だって、本当はこの戦で皇国における死者が0であればいいと思っている。
パイロットだけでも0に出来ることすら考えて航空機を作ってきた。
けれども現実は残酷だ。
相手も人間。
必死がゆえに必ず対抗される。
俺が設計した航空機達も本来の未来よりかは大幅に少ないとはいえ、少なくない犠牲者を出していた。
俺の場合はこれを努力不足といって片付けられる。
しかし、生科学者達は努力不足として非難できないような世界で前を向いて歩んでいくことを強いられているのだ。
周囲はそれを"努力不足"――と、流体力学系技術者などと同列に扱うのに――
――13年後。
かつて首相として戦乱の世において皇国を牽引した男は、ようやく待ち望んだ存在をその目で見ることが出来た。
周囲が息を潜める中、その老年著しい男は人目をはばからず男泣きしたという。
その昔、戦乱の最中、とある航空技術者が話していた「世界一美しい金色の細菌」は確かに皇国に実在したのだった。
本来ならその年においてまでの生存は許されない立場にあった男は、一連の研究報告を聞き終えると、研究者一人一人に向けて丁寧に労いの言葉をかけた後、かつてないほどに安堵の表情を浮かべながら研究室を去っていったという。