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第151話:航空技術者は制止する(中編)

 「――亡国病流行ノ兆シ――」


 ――その見出しを見ただけで顔が引きつるほど、全ての事象がその一言に集約されていた。


 中山はこれを"パンデミック"と呼称したが、俺はこれをパラドックスと言いたくなる。


 いや、別に本来の未来においてもそれは十分に流行していたし、国民を苦しめてはいた。

 だが、俺は本年においてこのような見出しの記事を見たことは無い。


 常に傍にその存在はあったが、危機感を煽るような記事が出るほど急速に発病者を増やす事は無かった。


 原因は間違いなく難民受け入れ態勢にある。


 本来の未来において無かったより多くの国外難民受け入れと、それによって発生した混乱が急速に感染者を増やすこととなったのだ。


 記事には日本海側と近畿地方を中心にと書いてあるので、この認識で間違いない。


 善行だと考えて短絡的に起こした行動が実は悪行であったなど認めたくは無いが……


 安易な行動は慎むようにと西条や千佳様より仰せつかっておきながら何をやっているんだ俺は……


「――一応、お前もBCG接種は受けているんだろう?」

「当然さ。陸軍の接種率は95%以上。入りたての新兵を除き、正規の入隊者は入隊検査時において接種が義務化されている。95%とは何らかの理由で受けなかった者がいるのではないかという推定で5%削っているだけで、実際には100%に近い達成率であるはずなんだ」

「年に数十人単位で発症者が出るんだから、そりゃ100%とは言えないが……怖いっちゃ怖いよな」

「蚊帳の外の話ではないさ。知人にも苦しんでいる者はいる」


 それを知っていながらも、さらに苦しむ人間を生んだ責任は俺にある。

 だが、安易な行動は出来ない。


 西条には予め亡国病……もとい結核においては性急な行動は禁ずるよう伝えてある。


 知る限りの情報と共に。


 パラドックスに対してさらにパラドックスを起こす事は許されない……


 なぜなら……


 いや、そんなことを考えている場合ではなさそうだ。


 広げた新聞には"陸軍が土壌細菌の研究について世界規模の調査を画策か"――なんて事が書いてある。


 まさか各人の行動を西条は止められなかったのか?


 手段を選ばずアレを手にしようとするのは危険すぎるのだとアレほど伝えておいたはず。


 よし、夜にコンタクトを取ろう。

 今動けば怪しまれる。


 中山がそれを画策して動いている可能性だって0ではない。


 この男、キョトンとした態度で話題をふってくるが、その話題が重要性を秘めていることが多い。


 半年ほど前から少々怪しむ素振りを見せてはいたが、まだ完全に疑いをかけている様子でもないながらも何か試している様子がある。


 慎重に動かねば。


「新兵募集にゃ響くだろうな。厄介なのは感染者を呼び込んだ場合だ。隊内において一気に感染を広めちまうことがある」

「まだパンデミックが起きたわけじゃないし、議会だって間抜けではない。感染前の対策はすでにあるんだ。無いのは確立された治療法だけ。予防法を広めるようになるんだろう。記事にだってBCG接種の公費全額負担を促している。近いうちにやらざるを得なくなるだろうさ」

「治療法があればもっと楽になるんだろうけどな……」


 もしかすると中山の周囲にも発症して苦しんでいる者がいるのかもしれない。


 浮かない表情で遠くを見つめるその姿には、そんな気配を感じさせる何かがあった。


 ◇


「――首相!」

「どうした信濃こんな時間に。お前が夜分遅くに参謀本部に訪れるとは珍しいな」

「周囲に気取られぬようここに来るのには苦労しましたよ。私が今日ここに訪れた事は内密に。わざわざ変装してまで来たのは他でもありません。この記事です」


 机に広げたのは、中山が見せてきた新聞と同一のものを別途調達してきたものであった。


 怪しまれぬようその場では受け取ったりせず、最初に見せられた新聞は彼に返却している。


 その上で前日の新聞を手に入れるのはやや苦労した。


 立川の途中で立ち寄った新宿の闇市にて入手したものだが、現在においてあの街はこういうのが簡単に手に入るのを知っていなければ、今頃新聞屋を駆け回っていたところだ。


「ここに書いてある世界規模の調査を実施という話、まさか事実ではないですよね?」

「お前も知っているはずだが、世界規模の調査と称して化学に精通する者らを留学させている実態については認知しているだろう。その事ではないのか」

「件に関する人員を大幅に増員したり、私がご説明した人物以外の者を重用などされていない……ということでよろしいですか?」

「断腸の思いで自らの行動を抑制している。第三者についても件の話題を触れ回ったりなどしてはいない。あるとすれば……お前の知る未来よりも感染者が増えたことで私の知らぬ裏で誰かが動いている可能性はあるが……」

「そのような行動を行う者に関しては、その行動を即刻やめさせていただきたい。以前も説明したはずです。本件は性急な行動が逆に身を滅ぼす……いや、国を滅ぼすことに繋がりかねないと」

「仮にその実態があったとて、どう説明すればいいのだ。私は専門家でもない単なる一介の軍人風情に過ぎぬのだぞ」


 西条はこういう時にさも平然とウソを述べるような男ではない。


 誰よりも真面目で、誰よりも誠実でありたかった男。

 その表情には一点の曇りも無い。


 彼の推測は恐らくは事実であり、事が起きているならばそれは彼の背後たる陸軍内にて生じているもの。


 そして彼は立場上それを制止できる権限を持つが、本件において行動を抑制させるのは尋常ではない説得が必要なのは事実に違いなかった。


 結核。


 皇国においてはもっぱら亡国病と呼ばれ、皇国の死亡原因第一位。


 なんたってその死傷者数は本来の未来において2601年から2605年までに46万人以上にも達しており、2605年8月15日までにおける徴兵者を含めた戦地での死者120万人と比較すると、その1/3以上にも相当する数字にも至っている。


 仮に将来において確立する治療法がこの皇国内にて存在したならば、40万人以上の労働力を失わずに済んだのかもしれないと思うと溜息しか出ない。


 しかし、当時の皇国においては恐れられてこそいたが、そこまで危機感を煽るような新聞記事は皆無であった。


 その原因は感染者並びに発症者の実態にある。

 2600年現在の皇国の男性におけるBCG接種率は実に50%弱。


 皇国男児の二人に一人は結核に対する抗体を保有していたが、陸軍並びに海軍においては最優先事項とされ、例え少年兵だろうが接種が義務付けられた。


 これらは全て公費負担。


 接種費用がそれなりに経済的負担となるということで、それだけを目的にいわゆる予備役たる士官候補生となろうとする者は少なくなかった。


 両軍共に宣伝項目の1つとして大々的な広報活動すら行っていたほどだ。

 ちなみにこの50%は全国民男性に対する数字だ。


 接種を受けていないのは経済的困窮者を除けば、その殆どが老年の者たち。


 2580年代中盤以降から積極的に開始されたBCG接種は若者ほど優先されたが、若者の接種率は7割以上で、年代によっては80%代であったという記録が残されている。


 それだけ危機感を持たれて積極的に接種が行われたBCGに関してだが……


 この話を何も知らぬ国外の者が聞いたらこう思うことだろう。


「どうして女性に関するデータが全く無いのか?」――と。


 それこそが亡国病が新聞屋雑誌などで名前こそ出ても世論誘導を試みたいほどにマスコミ連中が騒ぎ立てなかった理由だ。


 皇国の発症者はその殆どが女性だった。


 男1人に対して女性12人という比率が結核の実態であるほどに結核患者は女性に集中していた。


 理由としては当時は時代が時代であり、世継ぎたる男は過保護にされた一方で、嫁入りしてしまう女性に対しては手を抜く家庭が多かったこと。


 例えば男性での発症者は四男以降が極めて多い。

 そもそもが接種していない者も四男以降が極めて多い。


 当時は1つの家族に子供が10人とか平気でいたような家庭も多かったが、長男次男三男までは成人するまでにあたって三人が確実に成人すると限らなかったので、それなりに衛生環境にも力を入れようとする。


 しかしさすがに四男五男となると、よほど才能に溢れているなど無い限りは世継ぎとなるケースもそう多くなく、経済的負担から後回しにされ、それこそ少年兵などにさせて負担金ゼロで接種させる以外では接種させることは稀であった。


 ゆえに貧乏大家族と称される農家などであるほど、四男以降の者が苦しむ事になる。


 軍はそういう者達の受け皿となることは出来たものの、親の思想次第では奉公に出されてしまう事も多く、この奉公に出されてしまうなどといった状況がより感染者を増やすことになった。


 そう、奉公先には同様の理由で若くして働き手となった女性もとい少女達がいたのだ。


 皇国の感染者は主にこういった出稼ぎ労働者達だ。


 特に多かったのが、女工と言われる工場職員達。


 彼女達は劣悪な衛生環境下において相部屋などに詰め込まれ、労働基準など無いような奴隷同然の環境で働かされた。


 もともと結核というのは感染率こそ高いが発症率は低い病気。

 ゆえに健康体なら案外発症しないなどと言われた。


 しかしその健康を損なう目を覆いたくなるような職場環境が存在したのである。


 皇国の工業は男だけで成り立っているわけではない。


 軽工業を中心に多くの女性達の力をもって成り立っているのだ。


 だから俺は戦中においても戦後においても安易に"女が作ったから品質が落ちた"――等というような発言をする陸軍士官が大嫌いで、時には鉄拳制裁を加えた事もある。


 品質が落ちた原因は女性だからではない。


 女学生や主婦といった技術職としての素養があるのか無いのか不明瞭な者すらも動員したことにあり、現に我が国の最新戦闘機達は多くの女性達も介在した上で作り上げられている。


 手先の器用な女性は特に近畿地方に多く、西の女性によって我々の経済だけでなく戦力もまた支えられているのだ。


 そもそも現代においてはガソリンなどの危険物を扱う下請け労働者達はみんな女性だ。


 サンライズ石油の石油タンクなどを守っていて、日々ガソリンタンクの詰め替えやタンク内の清掃を行っているのはその多くが女性である。


 かつて非人と言われた者達とそう変わらぬような仕事を押し付けられても、彼女達は反抗を示したりなどはしていない。


 能力も無いのに権利だけ主張されたりするような時代が来てもそれは困るが、気概のある者が率先して国内の一般人が避けたがる職に就いて下支えしていたのだ。


 しかしそういった者達は大体が大家族を支えるための出稼ぎ労働者。


 給料のほとんどは仕送りすることとなり、病気となってもそう簡単に病院に行けるような金銭など持ちえていない社会的弱者。


 ゆえに一度結核に感染すれば一切の治療等施す事もないまま症状を重くしていき……


 そして嫁入り前の頃ともなると一旦実家に戻ったりするわけだが、当然にして嫁入りぐらいはさせてやらねばと奮起する家庭が多い今の時代においては、病を患っていることなどは伏せて各所でお見合いなどさせるわけだが……


 そういった一連の行動や家庭内に身を置く状況から家族を含めて大量の感染者を出してしまうことが少なくなかった。


 多くの場合において婚姻が断られてしまう結核であるが、嫁ぎ先が同様に貧困にあえいでいる場合においては「子供さえ身ごもって健康な男児さえ2人以上生まれればヨシ」――などと判断される場合もあり、そういう場合においては嫁ぎ先に相当額の金銭または土地など不動産を支払って嫁入りなどさせている実態がにわかに存在していたのである。


 しかし大概の場合において婿となった者は感染並びに発症のリスクを負うわけだから、いざ子供が生まれた頃には合併症などで先に夫が先立ってしまい、嫁も子が物心つくまえに亡くなってしまうケースなどが後を絶たなかった。


 そればかりか一族が全滅してしまう事すらあった。


 ゆえにBCG接種の全額公費負担は常に求められてきたし、貧しい者が多い農村を中心に陳情者は多くいた。


 そして同時に一度発症してしまえば打つ手が全く無いので、治療法の確立を願い、挑戦しようとする者も少なくなかった。


 そんな者達に希望を与えたのが、後の世において"抗生物質"と呼ばれる存在の発見である。


 ペニシリンだ。


 わずか12年前。

 奇跡の万能薬の可能性ありと称して発見後に世界に大々的に宣伝されたペニシリン。


 この偶然発見された存在がまさに万能薬といわれた理由の1つに、実は結核菌にも多少なりとも効果を発揮するという側面があった。


 それこそ軽度ならばペニシリンでも十分に治療可能であることは戦中の時点で主要列強国内にて知られていたが、皇国も例外ではない。


 臨床試験だけでなく、ペニシリンを用いた結核治療すら実施されているほどだ。


 1年ほど前から各国で研究が盛んになるペニシリン。


 このペニシリンの効力に最も早くから国内で着目をし、行動をに移したのは他でもない陸軍である。


 後の世の歴史書においてはあたかも2604年頃から活動が本格化したなどと書かれることが多いが、皇国が行動を開始したのは本年たる2601年から。


 再発見から1年未満で陸軍は専門の土壌細菌研究部門を作り、研究員を募っている。


 彼らを中心に2603年に組織されたのがかの有名なペニシリン委員会であり、このペニシリン委員会はNUPとの敵対によって早期に留学を切り上げた軍医でもあった板垣少佐と、現時点においては大学を卒業して研究者である傍ら習志野にて陸軍の軍医としても活躍中の梅澤博士を中心に活動を行い、最終的にペニシリンの生産にまで漕ぎ着ける。


 だが、彼らの目的はペニシリンの量産だけではなかった。


 当初よりペニシリンの効力としてすでに判明していた結核治療薬たる抗生物質の発見。


 陸軍が多額の予算を積み立てて梅澤博士や板垣少佐に行わせたのは、ペニシリン以上に効果のある抗生物質の発見である。


 理由はNUPにあった。


 2603年におけるもう1つの発見。

 世界で発見された史上第二の抗生物質から爆発的に加速する土壌細菌研究。


 それは発見された新たな抗生物質が、結核に対してきわめて効果の高い存在だったからである。


 事の始まりは2603年4月の事。


 ニュージャージー州のとある養鶏牧場にて、ある夫婦が病気によって死んだブロイラーを廃棄する作業を行っていた所、不思議な光景を目にする。


 実は連日の重労働の影響で廃棄作業に遅れが生じ、中途半端な状況でそれなりに深い穴を掘ってそこに死んだブロイラー達を大量に遺棄したまま放置していたのだが、その中の雄鶏に奇妙な点が見受けられたのだ。


 すでに3日以上経過し、死臭が漂い始め、そろそろ埋めて処理しなければ……などと考えていた矢先の事であった。


 1匹の雄鶏が全く腐敗していないのだ。


 通常ならば「なんだ不思議鳥か」――などといってそのまま見過ごしてしまうかもしれない。


 しかし作業にあたっていた夫婦には養鶏農家としては珍しく大変に教養があった。


 興味のある分野においては仕事を終えると学術書を読みふけって知識を蓄えることを初老を迎えても継続していた夫婦は、それを見た瞬間に「これは偉大な発見ではないのか?」――と考え始める。


 そう、彼らはまだ誕生して間もない生化学と細菌類について理解があったのだ。


 以前からニュージャージー州においては、このような不可思議な現象が確認されていることは間々あった。


 噂レベルで夫婦も認知していた。


 しかしペニシリンにそこまでの抗菌作用などない。


 だが2600年の再発見以降、急速に研究の土台が組みあがっていく最中、一連の学術書も目を通していた夫婦はある結論に達する。


 「全く新種の細菌に感染し、その結果腐敗すらしなくなってしまったのではないか」――と。


 すぐさま彼らはその雄鶏を持ち帰り、素人ながらもその雄鶏を分析する。


 すると何らかの細菌に感染していると見られる形跡を見つけることが出来た。


「これ以上は我々が理解できる領域にはないな……」――そう考えた夫婦は、当時第三帝国や王立国家の研究者と並んでその分野にて先端を走っていたワクスマンらの研究室にその雄鶏を提供することとしたのだ。


 その時、大学ならびに研究室は土壌細菌のサンプルの提供者に謝礼を出していたりしたのだが、謝礼を出すことを積極的に告知していた。


 そのことすら夫婦は知っていたのである。


「――提供された雄鶏、そこに宿っていた細菌こそが……」

「結核の有効治療薬の1つとなりうる細菌であったのだろう? 以前に聞いた」

「そうです、ですが以前は説明していなかったことがあります」


 この時見つかった菌株は凡そ1万株。

 この時点では大量に培養する方法はまだ確立していない。


 一方で少しずつ培養する方法等は見つかっていた。


 提供されたサンプルから得られた菌株は早速研究に供されることとなったわけだが……


 その中のおよそ1000株において、抗菌力……すなわち抗生物質としての効力を持つ物質の生成を行う細菌の存在が確認された。


 当時の構成物質の能力を測る方法は東亜でいう蠱毒の術そのもので、他の細菌をぶつけてその能力を測るものをいう。


 こうして1000株にその抗菌力があることが判明したものの、実験によって1000株のうち900株を消費。

 残り100株だけが次の実験へ。


 そして次の実験において抗生物質を分離することが出来る細菌であったのは……わずかに10株。


 その10株が、後の生化学を切り開く存在、ストレプトマイシンであった。


 これまでにない抗菌力を誇る第二の抗生物質。


 それはペニシリンより予見され、人類が待ち望んでいた結核に対して当時において最も効力を発揮するものだったのだ。


 この報告を手に入れることが出来た皇国は、ペニシリンの量産計画と平行し、すぐさまストレプトマイシンの探索を開始する。


 当時皇国が用いていたペニシリンは皇国の土壌より発見されたものだったが、ストレプトマイシンに相当する菌もどこかにあるのではないかと、必死で探す事になるのだ。


「しかし無かった。そうなんだろう」

「ええ、その時点では……」


 西条も知るとおり、ストレプトマイシン自体はその時点では皇国には無かった。


 少なくともその時点においては……


 NUPで発見されたストレプトマイシンは、なんとニュージャージーの土壌のそれなりの深さの所に眠る、その土地独特の環境によって生じた土壌細菌だったのである。


 研究が開始されてもすぐさま同種の新たな菌株が見つからなかったのは、それなりの深さを掘らないと見つからないものであったためだ。


 ブロイラーの雄鶏に感染したのはまさに偶然で、廃棄の度に繰り返された掘り返し作業によって時には相当の深さを掘り進めこともあったことが影響したのか……


 本来の深さよりも大分浅い所にまで土壌細菌が露出し、さらに栄養源たるブロイラーを見つけて住み着いたのが実情であった。


 ストレプトマイシンは発見時の株菌があまりにも少なく、より優秀な株菌を探すためにニュージャージ各地でゴールドラッシュ並の採掘活動が行われるが……


 結局、7年以上経た後に、信じられないほどの深さから同種の別の株菌が発見されるほど地中深くに住み着いていて、ブロイラーに感染したのは本当に単なる偶然の産物であったと言われている。


 それこそ抗生物質は地中1000m以上の深さより採取した菌類からも発見されていたりするが、生化学とはそういう茨の道を突き進んでゆく学術なのだ。


 今日においては廃棄作業の際に行った土壌攪拌において相当深く掘り進めたことで本当に偶然にも一部の菌が露出しただけだと考えられており……


 この発見が無ければ2620年代まで、人類は数多ある病気に対して対抗する手段を持たなかったのではないかといわれるほどだ。


 もともと偶然の発見であったペニシリン。


 それに対しその次に発見された抗生物質は、さらなる偶然の重なりによって発見されたものだった。


 当然敵対している国が保有していたが故、ストレプトマイシンなど入手できるわけがなかった皇国は……


 目の前に有効治療薬があるにもかかわらず、それが手に入らぬまま戦後を過ごすことになる。


 土壌細菌研究者は軍属ながら時に非国民扱いされ、時に変質者や狂信者等の不当な扱いを受けながらも全国における土壌採取を続けるが……


 ついにその存在を手に入れることが出来なかった。


 そんな中、先に発見されたストレプトマイシンにてある症例が報告されはじめた。


 "治療を続けても完治しない患者がいる"


 "治療を行った患者の通院していた病院にて新たに感染してしまった患者の中には、当初よりストレプトマイシンの効果がない"


 ――そう、いわゆる耐性菌と呼ばれる存在の発見であった。


 細菌類は生物。

 生き残るために環境に適用し、進化し続けて今日まで生き残り続けた存在。


 ゆえに他の細菌の攻撃への耐性を獲得してしまうのだ。


 それだけではなかった。


 ストレプトマイシンの治療を受けた者に難聴を煩う者や慢性的な肝不全となってしまう者が続出し始める。


 いわゆる"副作用"である。


 従来までの治療薬と比較して、"抗生物質"とその頃にわかに呼ばれ始めた存在は、人体にとっても凄まじく有害な物質でもあったことが確認されたのだった。


 当然研究者はすぐさま耐性菌に対応するための方法や、新たな抗生物質の発見に尽力しはじめるものの……


 第三、第四と発見されていった抗生物質もまた、多くの副作用が確認され……


 当初こそ大規模な投資を行っていた製薬会社達は、2610年代を過ぎた頃には"やっぱり万能薬なんてなかったんだ。こんなのただの毒じゃないか"――といって、相次いで企業内に設けた研究室を畳みはじめ、この手の大学等への出資も打ち切りし始める。


 丁度その頃、ストレプトマイシンを手に入れられなかった皇国においては、ヤクチア経由で入手した優秀な株菌によってようやくそれなりの量のペニシリンを調達し始めることに成功した梅澤博士らが、各国からの報告を聞いてストレプトマイシン探しの傍ら、副作用と耐性菌への対策を考え始めていた。


 すでにその時点で開戦時から80万人以上の者が結核にて死亡。


 研究者達には冷たい視線が向けられる中、彼らは決して諦めたりなどしなかった。


 梅澤博士はまず、報告されている副作用から、副作用の原因は抗生物質が血管を通って体内を循環した後、肝臓にて蓄積されていまう点にあるのではないかと着目し始める。


 その上で、当時の時点により判明していた肝臓の機能から、もし仮に抗生物質が"水溶性"で水に溶けてしまうならば、肝臓に蓄積することなく腎臓によって有害物質として濃縮され、尿で排出されるのではないかと考えるに至った。


 その上で、「ただ単にストレプトマイシンを手に入れても無意味。分離された抗生物質が水溶性で体外に排出でき、かつその抗生物質自体が耐性を獲得しにくい特性を得ていなければ駄目だ」という結論に至る。


 その結果、ただ水溶性なだけでなく、肝細胞が基本的に最も優先して抽出かつ排出しようとする塩基性……


 すなわち一般的にはアルカリ性などと言われる特性を得ているものが最も適任であると考えたのだ。


 しかし、ただでさえストレプトマイシンが発見できないことで苦しんでいる旧皇国地域。


 治療薬として絶対的ではないものの、有効薬の1つとして認知されている物質すら手に入れていないのに、そんな夢の物質と基となる微生物なぞ一体どこにいるのか。


 2610年にはすでにその認識を他の研究員と共有していた梅澤博士らであったが、その存在には未だめぐり合うことが出来ていなかった。


 だが、梅澤博士ら研究室の者達が後の時代において述懐するように、「世界の生化学の研究者を凌駕するその回答に対して、創造主が褒賞を与えてくれたのだ」――とばかりに、ついにその存在は現れることとなる――

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