第141話:航空技術者は感情が人を飛び越えて他人に宿ることを知る
「首相! お話が――っと。先客がいらっしゃいましたか」
山崎の一件を聞いた俺は急いで東京まで戻り、その日のうちに西条の下へと訪れた。
彼の執務室に入るとそこにはシェレンコフ大将の姿がある。
しかしシェレンコフ大将の様子がいつもと違うことに即座に気づくことが出来た。
覇気が無いだけでなく、容姿もみすぼらしくなっている。
何かあったのか。
「信濃。お前の方から私に会いに来るとは珍しい。どうかしたか?」
「いえ、先にいらっしゃっていたのはシェレンコフ大将殿なので、まずはそちらの件を優先していただければ。私は外にてお待ちしております」
「いや、お前も関係があることだ。丁度呼ぼうと思っていた」
「はい?」
西条はこちらに近づくことを促しながら何か書類のようなものを手渡そうとしていた。
封筒に入っている何かはどうやら重要な情報が詰まったものの様子。
近づいて素直に書類を受け取る。
「入手には随分と苦労しました。結局、無理して祖国へと戻らなくてはならなかった。信濃技官。それが貴方が求めていたものですね?」
「う……これは……」
即座に書類の中身を確認し、自らの手の血流の流れが良くなってくるのを感じる。
それは俺がかねてより求めていたスター転輪などではなかった。
本年になってT-34が新たに装備した最新鋭の転輪。
ゴム内蔵型熱間プレス式スター転輪に関する諸所のデータと製造方法、そして詳細な図面である。
シェレンコフ大将がやつれていた原因はわざわざこのデータを入手するためだけに祖国に潜入、恐らくは彼と志を共にしつつヤクチア内に居残り続けた協力者……
おおよそ国内に10万人ほどいたと言われる反ウラジミール勢力の者達の協力を得つつ奮闘した結果なのだろう。
俺が当初求めたT-34向けのスター転輪は総鋼鉄製のもの。
プレス製造された影響で生産性が高いだけなく軽く、部品寿命も従来品より長いために新型戦車に向けてどうしても導入したいものであった。
しかし実はこのスター転輪は本年に改良型が登場しているのだ。
かねてより総鋼鉄製転輪というのは履帯に与える負荷が強く履帯が破損する原因ともなっていた。
また、高速化を果たすと転輪そのものの寿命が短くなるという弱点もあった。
そこで大戦直前の戦車において高速化を果たす際には、主に外周にゴムを巻きつけたゴムタイヤのような転輪が開発されて用いられる。
しかしこれでは対戦中に開発されたより重量が重くなる戦車に対しては総鋼鉄製の転輪よりも部品寿命が短くなってしまい、30t以上ともなると、そもそもが重量が重過ぎて使用出来ないという大きな欠点が存在した。
そこで第三帝国とヤクチアは双方共にある発想に辿り着く。
ゴムを内蔵し、外側は金属とする。
こうすることで履帯から受ける衝撃は内部のゴムで吸収しつつ、履帯の重量は頑丈な金属の突起によって支えられ磨耗しにくくなる。
後々に登場する双方の国の重戦車はこれらを内蔵することで走行性能を確保することに成功していた。
この内蔵式ゴムはサスペンションの役割も果たすため、より悪路における応答性が向上して最高速度が向上することが指摘されていた。
それこそ、ヤクチアはT-34で導入したゴム内蔵式を基にT-64まで少しずつ改良しながら用い続けているわけだが……
T-64のエンジン性能に対する走破性能の高さは西側諸国からも大変警戒されていたほどだ。
そもそもが本年から登場しはじめるT-34の機動性が向上したタイプそのものが脅威とされた。
俺はそれの入手は不可能だと思っていたので、とりあえず総鋼鉄製で何とかしようと考えていたのだが……
ともすれば開発中の戦車がさらに高性能化することになりそうだ。
元クルップの者達と共にT-54以降に採用されたのと同じく均質圧延熱間プレス方式でゴムを内蔵させることが出来れば……走行性能はさらに向上できうる。
現状だと最高時速50km程度と見積もっているがもう少しだけ出るかもしれない。
想像以上の技術を手に入れることが出来たことに素直に興奮しているようだ。
それと同時に……シェレンコフ大将のやつれた姿が気になった。
「……大将。ありがとうございます。これで我が国の戦車もより一段階上の走行性能となりそうです。ですが……シェレンコフ大将……そのお姿は……貴方の祖国はかようにも飢えているのですか?」
「数年前の飢饉と粛清は我々から食の自由を奪ったのは事実です。ですが貴方は我が祖国がどういう国なのかご存知でないようだ。我が国において食料が優先されるのは工場勤務と軍人……そして都市圏の居住者達。貴方はきっと多くの皇国人がそうであるように、モスクワ市民と同じ生活を他の都市の者達も送っているのだと考えていることでしょう……」
そんな事は無い……と言いたくなったが、そう深く理解しているわけでもなかった。
反論する余地は無いでもなかったが、彼の言葉に耳を傾けたい。
そう思ったのだ。
だから沈黙を守って真剣なまなざしを保ったまま、顔をシェレンコフ大将へと向け続けた。
「私を助けてくれるのは多くが農民です。なぜなら彼らは常に犠牲を強いられてきているからです。現体制への不満を抱く多くは工場勤務の者達ではないのですよ。一次産業……最も市民にとって必要不可欠な存在を生み出す者達がもっとも虐げられている。その者たちとわずか数ヶ月生活を共にしただけでこうなってしまう。私は国民の一人に成りすまし、配給も受けていた……にも関わらず随分と身軽になりました。此度の大戦においては戦力を最優先し、穀物地帯の周辺の農村はおろか、作物を生育しているヤクチア領内全てから食料をかき集めて貯蔵しているからです。それこそ第三帝国がその食料を欲しがって裏切る可能性があるほどに一部の地域にだけかき集めている……もはや"NUPからの食糧支援"も期待できない現状、配給量は日を追うごとに激減しています。彼らはその怒りを基本的には外へと向けている。だから農民上がりも多いヤクチア兵の多くが平然と略奪を繰り返す……文字すら知らぬ多くの兵は、本能に従って生きる獣同然。私は彼らではなく、内に怒りをぶつけようと静かな戦いを続けている者たちを救いたい。彼らの命を消耗して得た情報……そして近く届く実物……どうか無駄にしないでください。それが"彼らの生きた証です"」
俺は静かにその言葉を受け止めるしか出来なかった。
彼の潤んだ瞳が何か重いものを肩に伸しかけてくる感覚に襲われ、先ほど訪れた興奮は静かに収まっていく。
後ほど大将が去って西条から事情を聞いて絶句した。
シェレンコフ大将はありとあらゆる手段でもって情報を入手した結果、彼を手助けした農村は地図上から消えたのだという。
その農村にはおおよそ7000人以上の農民がいて、その多くが彼に手を貸した疑いを持たれ……そして粛清された。
実際にはほぼ全ての者達が力を貸してくれたというが、何も知らずに殺害された者も0ではないとの事だ。
シェレンコフ大将本人は途中まで完璧に潜入作戦を成功させていたが、技術漏洩が発覚した後は命からがら逃亡しなければならなくなった。
彼は彼の協力者達による命のバトンパスによってシベリアを東へと逃げ進み、何とか集まで辿り着いて今に至るのだという。
その間、何人もの協力者が彼の背中を東へと押すために自らの命を燃やして果てていったそうだ。
皇国にはその時に手に入れたゴム内蔵スター転輪も持ち込んできていた。
俺は西条から話を聞いてここにきてようやく理解できたことがある。
なぜ後に三式主力戦車と呼ばれる存在が、あそこまで無表情で冷たい印象を持つのか。
それはあの戦車に用いた要の技術は、様々な想いが交錯した感情が詰め込まれた状態で皇国へと渡ってきて、感情の爆発の果てに無にまで辿りついた……
あるいは技術を持ち運ぶために命のバトンパスをつないだ者達の想いがそのまま発現してしまったからなのだと。
空間装甲を持ち運ぶ際においても東に向かうまでにはヤクチアの脅威にも晒されており、元クルップの者達は第三帝国から脱出した全ての人間が皇国に辿りついたわけではない。
彼らは成功率を高めるために船による海路と陸路双方で皇国を目指したが、どちらにおいてもそれなりの犠牲を出している。
そこで得た技術を未来における構造力学でさらに改良したとて、宿った感情は取り去ることなど出来ないものなのだろう。
もしくは……霊的な何かが存在するというなら、その者たちの影響を俺が受けた……とか。
技術者としてそういう類の話はさほど信じてはいないが、そもそも今の俺自体が幽霊のような未来の俺が別の世界線の過去へとやってきて憑依したようなものだ。
そういう残留思念のような何かはあるのだろう。
でなければ自分自身を否定しなくてはならなくなる。
俺の脳内に眠る未来の記憶はある日突然俺の中にやってきたわけではない。
未来からこちらに記憶と感情全てが移動してきたのだから……
そしてその感情は創造した存在に表れていた。
今にして思えば、他の技術にさほど影響を受けずに作り上げてきた戦闘機が多くの陸軍パイロットから「よくわからないが、信濃技官の作る戦闘機は外観からは金剛力士と同じような印象を受ける」――などと言われていたのはそういう事だったのか。
つまり、俺の中にあるのはひたすらに怒りだけなわけだ。
第三帝国のユダヤ人とヤクチアの民にあるのはもはや感情を超えて虚無のようなものへと至り……恐怖を相手に植え付けるような冷たい表情をした亡霊のような言葉では説明できない感情なのだろう。
ともかく、手に入れたスター転輪……大切に使わせてもらう。
すぐさま開発中の三式へと組み込もう。
そして忘れてはならない事も解決せねば。
◇
「山崎が新型戦闘機を作っているという件か」
「その様子は……存じていたということですか」
「……知ってはいた。正直なところを言えば、企業が独自に何かを開発するという事に関して軍部があれやこれやと横槍を入れる立場にはない。それこそ、細かい分野においては各企業が己の技術力を高めるために日々切磋琢磨しているだろう……その件に軍や政府がやめさせるには相当な理由が必要となる。公序良俗に違反するとか、そういった」
「むむ……」
「今後ジェットエンジンという分野にも手を出す皇国が液冷エンジン機を保有……並びに採用していないという点について確かに異論はある。だが陸軍としてそのような機体を採用するつもりは無い。現状で彼らが提示してきた液冷エンジン機の性能も驚くほど高いものではなかったしな」
その言葉はつまり、山崎はプランを持ち込んで西条を含めた上層部に提案までしているという事か。
……やりたくなる理由はわからないでもない。
本来の未来において三式戦闘機は3000機以上も製造された。
それも全て山崎の手によるもの。
現状ではそういったものがない分、長島よりも収益状況が悪い。
練習機の納入数は所詮は200とかそこいら。
しかも最終的には全部新型のジェット戦闘機で済ませる予定すらある。
山崎としては収益性が確保できうる小型戦闘機開発などは諦めきれないのだろう。
彼らの収益を改善しつつこちらとして最大限譲歩できるものといえば……1つしかない。
「山崎のリソースが多少余っているというなら、スピットファイアのライセンス生産の話を持ち出したらどうです。本国では供給力が足りず困っていると話が出ているそうじゃないですか。1から機体を開発するのとは違い、工作機械を持ち込んで量産するわけですから……リソース的な消耗は少なくなります」
「いいのか?」
「時期が来たら順次ジェット戦闘機の製造へと切り替えるならば……という前提条件の下に。そのうち大型機の仕事も入ることになるはずなので将来的にはリソース不足になりますから。そのために1から工作機械などをこさえて作業場を作り上げるのと、工作機械を手配して生産するだけなのとはその影響度に違いが出るのと……なにより企業の出資等に関わる負担は後者の方が圧倒的に少ないですから」
「確かにそうだな。わかった。いろいろと検討してみよう」
「お願いします」
そうだ。
今から三式戦闘機のようなものを作っても中途半端になるだけだ。
液冷機など、技術力を誇示するためだけのものとなるだけ。
ならば同等の評価を得つつも抱えるリスクを大幅に減らし、かつすぐさま生産を切り替えられる方法としては……これしかない。
皇国でもスピットファイアを作れた。
その評価は三式を作れたのと同等かそれ以上のものとなろう。
少なくとも液冷エンジンの機体を作った事実は揺るがない。
彼らが独力開発と量産に拘るならもはやどうしようもないが、これで妥協してくれるというならばそれしかないだろう。
新型ジェット機は本年の年末には練習機の試作機が完成予定ですでに組み立て作業に入ってきている。
来年には戦闘機の方も完成する。
どちらも新世代の機体ゆえにどこで不具合を抱えるかわからない。
量産に至るまでに時間をかけねばならないのだ。
その間に何もすることがなく、出資して各地に築いた工場ですることが無いのが歯がゆい……というのであれば、スピットファイアあたりを製造してもらうしかない。
それらの工場はしばらくしたら今度は四式を作るためにフル稼働することになるし、それ以外にもいくつか俺の中にプランはある。
そろそろ……本格的に大型機開発を始めていい頃合。
海軍は深山をどうするかについて検討を始めたというが、やはりアレでは能力不足ではないかと考え始めたようだ。
その通り。
これが対NUPや対ヤクチアだけというなら深山量産はアリだ。
しかし対第三帝国となると、Ta152を筆頭とする高高度戦闘機の存在ゆえに再検討せざるを得なくなる。
そういった情報は恐らく陸軍だけではなく海軍にも伝わっているはず。
Fw190の高高度戦闘機型の開発は本来の未来においても本年から始まっている。
元々、俺も深山はモスクワあたりを爆撃する戦略爆撃に使う程度でしか考えていない。
どちらかといえば実行に移すよりも抑止力としての意味合いが強い機体。
それこそ、ヤクチアだけでなくNUPをもけん制する技術誇示の意味合いが強い機体だ。
そこは社長である長島大臣も大変よく理解されていた。
高度1万5000m以上の空域で700km以上で飛べる戦闘機が今後出てくる中、1万m少々で650kmと言った機体では厳しい。
大体がTa152が大量生産されたのではB-29すら落とされる。
第三帝国によるB-29撃墜数は皇国と比較して多い。
その多くが高性能な高射砲と高高度飛行可能な航空機によるもの。
B-29は爆撃の際相当苦労したことが当時の指揮官らにより後年語られている。
つまりB-29より劣る爆撃機は大量生産でもされていない限り相当に厳しい戦いを強いられるという事。
現状においてNUPが参戦する気配はない。
つまり第三帝国の工業地帯を破壊し尽くした大量のB-17やB-24による爆撃は無く、こちらの主戦力たる爆撃機は王立国家のランカスターとなる。
ランカスターは非常に優秀な機体だが、その損耗率は尋常ではなかった。
いや、ランカスターだけではなくB-24も凄まじい損耗率だ。
防御力の極めて高いB-17、当時としては極めて高高度まで上昇できたB-29。
双方だけが何とかやっていける程度だ。
正直、深山の防御力はB-17より劣る。
飛行性能に割り振った影響だ。
B-17より運動性などは上回っているが……あそこまで完成度は高くない。
次期海軍は新たな爆撃機のプランを提示することだろう。
深山は研究用か貨物機として製造中の3機で終わる可能性高い。
長島大臣も、もっと実用的で真の意味で実戦投入可能な爆撃機を検討し始めているという話だ。
彼の最終目標は富嶽なわけだから当然と言えば当然。
陸軍としても深山の採用には慎重。
近く技研に向けて何らかの指示が出るだろう。
その時にどういう大型機とするか……は要検討だ。
ともかく皇国ではパイロット数で劣る以上、数任せには出来ない。
数は必要だが、損耗率から目を背けた自爆攻撃に近い行動はさせたくない。
現状ではキ47が皇国の爆撃機としての主力。
攻撃機なのに戦闘爆撃機として各地で奮闘している。
しかしFw190が出てくる以上、それも次第に厳しくなるだろう。
開発中の戦闘機は爆撃は可能だが航続距離の問題で爆撃範囲が限られる。
必要となるのは……航続距離と高高度飛行能力と速度。
積載可能重量は皇国の戦略方針次第。
積載量で妥協して数を揃えるのか、積載量で妥協せずに質で押し込むのか……
軍が検討する戦略プランから性能を見出していくこととしよう。
◇
皇暦2601年5月下旬。
東亜三国による今後の戦略方針等を確認しあう三国会議のために蒋懐石らが皇国へと訪れた。
ただし会議は3日後。
その前段階として蒋懐石は陛下に賓客として招かれた。
当然、例の件について説得するためである。
俺は立場上の問題でこの場所に参加できていない。
しかし翌日に行われた三勇士による会食に招かれ、当日参加していた西条と千佳様から状況報告を受けることとなっていた。
俺はそのために午前中で仕事を切り上げ、赤坂の料亭へと向かう。
こちらから出来る事は少ないため、昼食会という形で報告を聞いて2、3意見を出したりなどして終える……それで十分だと考えていた。
事実、状況は雲の上で起こっている出来事であったのだった――
「――朱一族?」
「うむ。蒋が仮にあるとするならば……という話の中で出した名前じゃ。何名か現代でも生きておる者がおるらしいが……その中には我のような立場に近しい者がおるらしい。中でも皇帝にふさわしい者は、少々高齢ではあるが息子が二人ほどいるそうじゃ」
「名前はなんと?」
「発音がわからぬ……漢字もよう覚えておらぬな……西条、記憶にあるか?」
「確かこのような字であったはずです」
手元にあったメモ用紙を手に取ると、西条は万年筆を取り出して"朱煜迅"という名前を書き出した。
読みが全くわからない。
何者かも良くわからない。
華僑に関してはヤクチアほど詳細に調べてないからなあ……
しかし朱という苗字には覚えがある。
朱容基という男が未来の華僑の政治家の中にいた。
確かこの者は華僑の皇帝一族の血縁者だったいう話。
そしてこの皇帝一族の血縁者は一部を除き、皆"朱"の苗字を名乗ることを許されていたとされる。
確か実際には非常に多くの子孫がいたが、最後の王朝時代の際に多くの者が惨殺されたという話だ。
それでもあまりにも子孫が多かったので生き延びた者がいたとか……
だが良くわからないな。
「蒋懐石の話では、孫紋が統一民国を立ち上げようと最初に革命を起こした際、彼を象徴的な皇帝として即位させることも検討していたとのことだ。実際、あの男は革命を成功した際に明孝陵に参拝して報告を行っている。蒋懐石としてその話を検討したとしても、皇帝となる人物は集の現皇帝ではなかろう。根底の思想は似通ったものはあるが、互いに様々な因縁がある」
「正直言って皇国にどんな影響があると思います。それが原因で再び対立関係になると思いますか」
「我が国の駐留と資源関係の飛び地について因縁をつけてくる可能性は否定しないが……軍内や外務省の詳しい者に伺ったところ、朱と名乗る者達は基本的にリアリストであるとの事。今更状況を乱して総崩れになるような真似はしないだろう。そもそもがそれを一番恐れているのが蒋だ。しばらくの間は手を出さん。ゆえに大きくこちらが不利となるような事はないと思われる。むしろ状況的には集と統一民国の関係に影響を及ぼしそうだ」
なるほど。
西条の言うとおりだ。
華僑は統一されるべきという考えは集の皇帝にもある。
ただしその思想が集の民族を中心に……というのが集の皇帝による考え。
自身が最後の王朝の皇帝であり、現在でも皇帝の立場にある彼が最も認めたくないのは……
別の者がより広い領土を持ち、かつては己の国であった地域に皇帝として君臨することか。
といっても、その者もまた別の王朝の皇帝の血を引くものではあるのだが……
……少し思い出したぞ。
朱煜迅というのは、集の現皇帝などが大昔に皇帝だったという立場から延恩侯という爵位を与えられて祭祀を行うことを許された立場にある人間だ。
儒教の思想に基づいて先祖に祈りをささげることを許された者。
それが彼だ。
彼とは別に血縁者は朱という苗字を名乗っているが、爵位を得ている以上、一族の中では最も高位にいることにはなっている。
実際には他の子孫の方が資本力があったりするらしく、本人とその家族は非常に貧しく外部へ支援を求めていたらしいが……
肩書き上、爵位は持っていても王族とは異なるものな。
その者に再び皇帝の地位を与えたところで、皇国との間に何らかの外交的な摩擦が生じる可能性は低いのは当然だが……華僑周辺で混乱が起きる可能性は高い。
それでも陛下は東亜地域に皇帝に相当する者がいる国が3つ必要だとお考えなのか。
駄目だ。
完全に俺にはわからない。
皇族……いや王という地位に就いた者だけが理解できる領域の話だ。
単なる民間人であれやこれやと述べるべきではない。
もしかすると会食中の蒋懐石も似たような事を思いつつも陛下の話に応じていたかもしれない。
だとして――
「……大体の状況はわかってきました。状況的には統一民国と集で混乱が生じる可能性があります。朱煜迅は、延恩侯という爵位を最後の王朝の歴代皇帝から与えられていた者です。現在においては延恩侯という爵位を返上していた記憶があります。その彼が皇帝の椅子に座ることとなるのは……集の現皇帝の認めにくいものであるかと」
「"えんおんこー"とはなんじゃ」
「皇国で言い表すなら斎王ですかな。千佳様。神宮における斎王が最も近い表現かと……少々事情は異なりますが」
「なるほど……大体わかった」
年齢はまだ10代そこそこながら、千佳様は斎王などについて理解されているのか。
西条のすかさずの解説に十分理解できた表情をしている。
理解できない時は素直に不満の表情に変わるのでわかりやすい。
「立場上、当然にして皇帝の方が上ですからね。実際に陛下の助言を受けて即位する場合は……」
「その時は陛下が直接、集の皇帝へ向けて何らかの行動をするのであろう。信濃。何か危険な人物が絡んできそうならば我に言うてくれ。今後も何らかの情報を得たらそなたへ渡すのでな」
「はッ! 承知致しました。何かわかったことなどあれば今日のように報告致します」
「では頼んだぞ――」
それは初めての経験であった。
なぜか彼女は俺の手を取り、握手を求める。
お前は私から信頼されているのだ――という意味合いなのだろうか。
俺は礼節のために応じたが、不思議な感覚であった。
あまりそういう事をする方ではない。
頼りにされるというのは重圧だな。
本当に……華僑については多くを知らないんだが……