第9話:航空技術者はキ35によって600kmを越える
キ35については元より軍用機でないため、無茶な設計要素がない分、非常にすばやく事が進んだ。
虎の子のハ33のパワーアップにも成功。
短時間運用なのを逆手に取り、エンジンをより高回転に調整し、本来の出力を大幅に超えた最大出力1330馬力を何とか達成。
元より翼など最小限度の設計で十分だったため、海軍の仕事で手一杯であった一郎の労力もそこまでのものではなく、1号機は3月初旬に完成した。
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「――信濃技官、着陸が極めて難しいです! もっと何とかならなかったのですか」
白一色に染められた機体から降り立ったテストパイロットは、飛行帽を無造作に脱ぎながら不満を表明する。
数分前。
キ35は丁寧な着陸を心がけていたにも関わらず、2度ほど軽くバウンドして着陸したが……原因は着陸速度にあった。
飛行試験はいよいよ5回目となり、それまでの離陸と着陸を1つの滑走路で繰り返す試験飛行から、"離陸"、"上昇"、"旋回"、"着陸"の完全な水平飛行試験へと移り変わっている。
軽量化の影響で運動性と機動性は非常に高く、その点については高く評価されるキ35だが……
一方で後方視界は皆無で着陸脚は軽量化のために脆弱。
おまけにフラップ類もないため着陸速度が非常に速く、極めて離着陸に難のある航空機となってしまった。
それでも尚、操縦性の良さなどは担保できている。
むしろそれによって離着陸の難しさをカバーしているほどであった。
「申し訳ないがこいつは速度記録達成のためだけにこさえたものなのですよ。現時点で500kmをゆうに突破できているが600kmを目指さねばならんのでね……」
「7割の出力で550までならすでに出てますよ。海軍の新鋭機より速いんじゃないですか?」
計測官は機内に設置された計測機器類を見ながら、最高速度に太鼓判を押す。
こいつにはこれまでの陸上機にはない新たな塗装も施した。
機体の外皮の接合部分も目張りするこれは沈頭鋲まで保護するのだが、元来は水上機用のポリビニル系塗料を調達し、綿製のバイアスをこれでもって貼り付けている。
その上に非常に光沢のあるツルツルとした肌触りの金属系塗料を施した。
摩擦係数の低い艶あり塗装を施したこの機体は陸上機ながら当時さほど意識されていない仕様となったが、これによって重量は嵩むものの速度自体の優位性は圧倒的。
この塗料と塗装方法。
すでに川東で実用化されていて、川東の開発する水上機を中心に後の紫電シリーズにも採用されるのだが……
現時点でこの技術を知る陸軍の技術者は俺だけだろうな。
何しろ俺がそれを知ったのは大戦後に川東の技術者から酒の場にてひょんな事から伝えられてだ。
技研の中に知ってた者がいたなら試しに四式に施そうとするはずだが、そんな事はしてなかった。
れっきとした海軍の機密だが600kmのためならそんなもの惜しまない。
これを知った海軍が川東の者を裁いたりしなければいいが……
こいつが高速化のために最も有効な方法なので背に腹は変えられない。
太陽光を反射しすぎるので軍用機向けではないが、艶あり塗装だけで摩擦が軽減されるのだ。
これだけで5km~8kmは変わる。
それが航空機の世界の恐ろしい所。
「水平飛行時の安定性は抜群です。まるで機体が軽い。振動も全くありません。離着陸さえどうにかなれば、これを新鋭戦闘機にしてしまえば良いのでは」
「これでは武装は載せられんよ」
メガネをかけた男は評価を不服とばかりに一蹴した。
一郎にとってこいつは戦闘機ではない。
自分好みの"飛行機"なのだ。
なので戦闘機などと言われれば声のトーンが1段下がって不遜な態度を平然ととるようになる。
「そうなのですか?」
「おまけに高速旋回すると翼が捥げる。最高速時の旋回には気をつかってほしい」
一郎は自身の脳髄に眠る知識と知恵を動因して徹底的に空力を洗練させ、その上で軽量化を施した逆ガルの翼に自信を見せた一方、それが速度を出すためだけのものであることを知っていたので空中分解する危険性を十分承知していた。
とにかくテストパイロットに主張していたのは、武装は載せられないことと旋回戦では使い物にならないこと。
設計上250km~300km程度なら零どころか九七すら圧倒できうるんだが、それ以上の速度帯となると翼が保たない。
そんなのは構造を見た俺も重々承知であったが、陸軍が求めたのは最高速。
未来を変える一手でしかない。
何度も試験飛行を重ね、手直しを続ける。
といっても手直しが必要になったのは翼などであり、割と無理したセッティングのエンジンは快調そのもの。
なんら手を入れる必要性がないというからハ33の恐ろしさが垣間見える。
こうして何度も試行錯誤を繰り返しつつ、継ぎ目などを前述する特殊な塗装にて目張りしたキ35はきたる3月上旬、ついに陸軍将校達が見守る中で600kmという壁に挑むことになったのだった。
当日は見事な晴天かつほぼ無風。
多くの陸軍将校や様々なメーカーの技術者が招待され、壮大な夢を共有した。
キ35は華やかに立川飛行場を飛び立ち、そして……
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「信じられん!四菱の試験機が600kmを越えただと!?」
「それもハ33でだそうだ。特に何も弄らずに飛んだそうだぞ」
「すでに情報は諸外国にも伝わったようだな。われわれが世界で最初に空冷エンジンで600kmを到達した! 液冷でなくとも600kmには届くのだ!」
「どうやら陸上機では現時点で世界最高記録保持者らしいぞ! NUPの世界記録を塗り替えた!」
「ハ33の改良型であるハ43も順調らしい。試験機が稼動しはじめたと聞いている。我々もハリケーンのような重戦闘機が作れるぞ!」
試験飛行からわずか1日で参謀本部はお祭り騒ぎ。
海軍すら震え上がったキ35は技研と四菱、そして一郎の力を見せつけ、見事なまでに高度3700mでの最高速度607kmに到達。
完全な水平飛行でもってそれを達成した結果、単発戦闘機の……星型エンジンの可能性を示した。
着陸時に主脚を損傷したものの、西条の意向により完成したハ43を搭載しての試験も検討されることとなった。
比較検討などのため、2号機の製造が決定されるが……2号機はある程度機体の強度を上げてやらねばならないだろうな。
すでにハ43は実証実験用の試験機が産声をあげており、細かい調整を受けている最中。
試験稼動ではどれほどかはわからないが、少なくとも良好な数値を示したとされる。
桜散る頃にはハ43による新たな航空時代が切り開かれそうだ。
悔しいのは1つ。
零を越す一式をこれから作ろうというのに、こんな形で零を生み出した一郎の手を借りたこと。
一郎はとにかくその速度に満足していたし、四菱はハ33を海軍に積極的に売り込むようになったそうだが……
俺としてはできれば一郎の手を借りずに作りたかったな。
まあいい。
これで零にハ33……金星が搭載されればどうなるか見ものだ。