神様の実験室
彼は立っていた。
目の前に青年がいた。
「やあ」
青年がそう言って軽く手を振る。爽やかな笑み。晴れた空に良く似合っている。
「ここはどこだ。お前は誰だ。どうして俺はこんな所にいる」
彼は疑問を捲し立てた。何も分からないのだ。彼の記憶は寝台に横になった所で終わっていた。
「一つずつ話すよ。幾ら僕でも一度に全部は答えられないからね」
それに対して青年は随分と落ち着いている。困惑する彼を嘲るでもなく、また心配するでもなく、ただ笑顔を絶やさずそこに立っている。
「まず第一に、ここはどこか……逆に訊くけれど、君はここをどこだと思う?」
質問を返され、彼ははっとした。そういえば足元がやけに冷たくてくすぐったい。下を見ると、肌色の地面の上に澄んだ水が薄く広がっていた。足を軽く動かしただけで水面は揺れ、静かな波が次々と生まれてゆく。
そのまま目線を上げても水が途切れる事はなく、青空に浮かぶ雲を映して天地の境界をぼかしている。彼は暫くその幻想的な光景に見惚れていたが、やがて青年の事を思い出して我に返った。
「何かの本で読んだが、南米にこんな場所があるそうだ……確か、ナントカ塩湖といったか……」
「成る程、君にはそう見えるのか。とても興味深いよ」
如何にも意味深長な言葉。顔をしかめた彼をよそに青年は続ける。
「ここが塩湖だと言うのなら、君の足元を満たす水は塩辛いのかい?」
青年に対する懐疑心を抱きつつも、彼はその場にかがみ、少しばかりの水を掬って一口舐めた。
「ああ、塩辛いよ。やはり塩水だ」
塩湖なのだから当然だろう。しかし、青年はどうしてか興味津々な様子で、さながら推理探偵の如く顎に手を当てている。
「そうか。それじゃあ今度は『この水は甘い』と唱えて飲んでみてよ」
Huh?と彼の口から声が漏れ出た。
「お前は何を言っているんだ。塩水が甘い筈がないだろう。それにさっき飲んだじゃないか。それは間違いなく塩辛かった」
「まあまあ、騙されたと思ってやってみてよ」
怒る彼をなだめるものの、青年に前言を撤回するつもりはないらしい。ならばと彼はもう一度かがみ、青年の言う通りにして水を舐め、そして目を見開いて言葉を失った。
「驚いているという事は、どうやら甘く感じたようだね」
「何だ……一体何が起こっているんだ」
「解らないかい?それなら次は『この水は酸っぱい』と唱えて飲めば良い」
また青年に従って水を舐める。そして漸く彼は合点がいった。
「思った通りの味がするのか」
だが同時に新たな疑問も湧き出て来る。
「しかし何故だ。何故そんな事が起こる。俺の言葉に合わせて塩水が砂糖水にも酢にも変わったと言うのか。俺は魔法使いか、或いは神にでもなったと言うのか」
「いや違う」
「どうしてそう言い切れる」
「僕が神だからだよ」
矢継ぎ早な問答の末、彼は唖然とした。それから彼は自分の目の前に立つ、下町の通りを歩いている学生とまるで違わぬ青年をまじまじと見つめた。
「可笑しい。俺の知り得る限り、神というのはもっと荘厳で、立派な白髭でも蓄えていそうなものだ。だのにお前の様な奴が神とでもなれば、神を神よと仰ぐのが余りにも滑稽で仕方ない」
青年が呆れた様子で溜め息を吐く。
「僕が君からどう見えているのかは知らないけれど、どうやら君は自信過剰なようだ。自分の味覚や視覚を信じて疑わない……そんな調子じゃ、ここでやっていくには少し厳しいと思うよ」
その言い草にむっとしたが、彼はお蔭で主題を思い出した。
「話が変な方向に行ってしまっているが、結局ここはどこなんだ。そろそろ教えてくれても良いじゃないか」
「そういえばそうだったね。確かにこれ以上焦らしても面白くないだろうし、正解発表といこうか」
青年は一つ咳払いをして、それから長々と話し始めた。
ここはナントカ塩湖なんて場所じゃない。僕の実験室だ。
「実験室だと」
ああ。君が元いた世界とは平生決して交わる事のない、僕が試験的に創ったもう一つの世界。君はその第一被験体として特別に招待されたんだよ。
「そうか、それで俺はここにいるのか……しかし、一体何の実験をしているんだ。味の変わる水の実験か」
そんな造作もないのは向こうの世界で出来る。僕はこの世界を「相対的」に創ったんだ。
「どういう事だ」
向こうの世界――あれは僕の作品ではないんだが――あれは絶対的なものだ。水の流れ、金属の性質、植物の生長、更には地球の大きさ、或いは惑星の動き……全ては神の定めた法則に従う。人それぞれに多少の差異はあれど、誰もが同じ景色を見、同じ音楽を聴き、同じ風を感じる事が出来る。それが君のいる世界なんだ。
けれどその考えはこちらでは通用しない。今君の眼前に広がる塩湖は君だけに見えている。君が足元の水を掬って飲んでいたのも、僕からすれば何もない地面の上で飯事をしている様だった。それでいてあんな迫真の演技をするのだから面白かったよ。
「ならば俺が見ているこの景色は全て虚構なのか」
そんな事はない。君が認知する限りでそれは本当だ。ただ君の見ている世界が、僕に見えている世界と異なっていただけだよ。
成立した世界を人が知覚するのではなく、人が知覚した通りに世界が構築される……僕と君は同じ世界を、同じ空間を、同じ場所を共有しているのに、僕と君の理解が違う為に同じ感覚だけは共有出来ない。そうして僕の世界と君の世界が乖離していく。
「つまり俺の見る世界もお前の見る世界も本当で、しかしそれらは同じでなくて、それでいて俺達は同じ世界の中にいて……一層訳が解らなくなってきた」
面白いだろう?しかも、君がここへ着いた時からそれは始まっていた。君は自分の内から創り出された塩湖を僕の世界にもあると思い込み、頓珍漢な発言をする僕を疑った。僕からすればここに塩湖なんてないし、況や水の味なんて確かめる術がある筈もないのに、だ。
人間というものは非常に興味深い。根拠のない自信という名の机に立ち、我こそが正しいと高らかに叫んでいる。僕はそんな阿呆共をみんなここへ連れて来て、互いの事を馬鹿だ異端だと罵り合う狂騒を俯瞰したいんだ。今でこそこの世界はまだ未完成だが、いずれ創り上げた暁には必ずやそれを成し遂げよう……
「どうやらもうお別れのようだ。間もなく向こうの世界の夜が明ける」
一息吐いた後で青年は言った。
「どうやったら帰れるんだ」
「僕が送ってあげるよ。君はそこに立っているだけで良い」
そして指をパチンと鳴らす。突如、先程まで晴天だった空が暗転する。足元にあった水も消え失せていた。
「さっきも言った通り、この世界はまだ未完成だ。だが君のお蔭で上手く働いている事が分かった。次は複数人で実験したいから、次には恋人でも一緒に招待するよ」
「是非とも遠慮したいものだな」
「何だ、また来たいとは思わないのか。まあ、その時になれば否が応でも連れて来るんだけどね。……それじゃあまた会おう。Good-bye.」
暗闇の中で青年が軽く手を振る。その光景を見たのを最後に、彼の意識は薄れていった。
彼は目を覚ました。
借家の見慣れた天井が見えた。
「夢、だったのか」
寝ぼけたまま起き居て呟く。しかし、夢にしては余りにも鮮明な記憶がある。
実験室とは打って変わって雨が降っていた。少し憂鬱な溜め息を吐く。それから時計に目を遣り、彼は渋々仕度の為に立ち上がった。
顔を洗いながら、夢の出来事を思い出す。兎に角あの狂った世界から帰って来れて良かった。やはり世界は絶対的でなければならない。願わくばあの夢が本当に夢で、二度と連れて行かれる事がなくあって欲しい……
「あれ」
顔を洗う最中に彼は呟いた。もしも本当に実験室が夢ならば、この世界が絶対的に創られた保証もなくなってしまう。ともすれば、実はこの世界は相対的でも何ら矛盾は生じないのである。
外套を羽織って蝙蝠傘を差し、肌寒い通りへ出る。まだ人影は大して見えなかった。しかし少ないながらにも、こんな朝から何処へやらという大荷物の一家や、新聞を籠に山程積んだ自転車、そして既に遅刻しているらしい燕尾服……暇を持て余しているのは彼の一人だけだった。
この雨はひょっとすると俺だけに降っているのかもしれない。新たな懐疑が彼の脳裏をよぎる。途端に彼は可笑しく思えてきて、手に持つ傘を高く掲げて叫んだ。
「この雨はじきに止み、そして空は晴れ渡る」
一家が、新聞屋が、燕尾服が、ぎょっとして一斉に振り返る。それから彼はまるで何事もなかったかの様に、のっぺりと広がった薄灰色の雲の下を歩き始めた。




